世界のカンテレ
古文書室は、大ルーノラの地下にあった。
石段を下り、鉄の扉を抜けると、埃と羊皮紙の匂いが鼻を突いた。薄暗い空間にルーノの灯火が揺れ、棚に詰め込まれた古い巻物と書物が壁一面を覆っている。
教授が先に立って歩いた。
「この都市でも忘れられかけた記録がある。定型歌の体系が確立される以前の——古い時代の歌に関する文献だ」
「定型歌以前の……」
「今の歌術師の大半は、定型歌こそが歌術の全てだと信じている。だが歴史を遡れば、定型歌は数千年に及ぶルーノの歴史のうち、ここ数百年で体系化された比較的新しいものにすぎない」
教授が棚から古い巻物を取り出した。
「それ以前の歌い手たちは——定型歌など持たなかった。世界と直接対話する歌。言葉で、旋律で、あるいはただ意志の力だけで、世界の本質に触れていた」
カレの手に巻物が渡された。古代語で書かれた文字が並んでいる。読めない箇所が多いが、ところどころ現代語に近い単語が見えた。
教授が指さした一節を、カレは声に出して読んだ。
「サンポ、あるいは……マーイルマン・カンネル——」
横でアイノが動いた。
「——世界のカンテレ、と呼ばれし……原初の歌を紡ぐ器」
「カンテレ……?」
アイノの声だった。
カレが振り向くと、アイノの表情が強張っていた。編んだ白銀の髪の下で、紫がかった青い瞳が見開かれている。
「カンテレって名前がついてるんだな、サンポに」
カレは何気なく言った。サンポの別名。穀物と塩と富を生む魔法の臼に、楽器の名前がついている。面白い取り合わせだと思っただけだった。
だがアイノにとっては違った。
カンテレはアイノ自身の楽器だ。背中に背負い、命の次に大切にしているもの。ポヒョラでロウヒに教わり、逃亡の夜に唯一持ち出したもの。自分の存在と切り離せない楽器の名前が、世界を支える力の器と同じ名前を持っている。
その偶然の一致——あるいは偶然ではない繋がりが、アイノの中で何かを揺らした。
カレはアイノの動揺に気づいていた。だがその意味まではわからなかった。
「教授、他には?」
話題を切り替えた。アイノが今は触れてほしくない何かに触れたことだけは、察した。
教授が別の文献を広げた。
「こちらにも断片的な記述がある。『言葉の力を持つ者——定型歌以前の歌い手。対象の真の名を呼び、世界を書き換える者たち』」
カレの目が文字を追った。自分の力が古い時代に存在していた証拠。言葉のルーノは規格外ではあるが、歴史の中には確かに存在していた。
だが文献は古代語で書かれており、詳細は読み解けなかった。断片的な単語だけが浮かんでは消える。「代償」「喪失」「原初歌との同根」——意味深な言葉が並んでいたが、文脈がわからない。
「これ以上はここにはない」教授が巻物を棚に戻しながら言った。「もっと古い場所を探すべきだ。——サンパラの鍛冶の街を知っているか」
「イルマリネンが鍛冶をした街ですか」
「そこにイルマリネンの手がかりがある。サンポを鍛えた者の伝承が残る場所だ。イルマリネンは鍛冶の神であると同時に、サンポの構造を知る者でもある。君の力に関する手がかりも、そこにあるかもしれない」
次の目的地が決まった。
サンパラ——鍛冶の街。イルマリネンの手がかりを追う。
古文書室を出ると、地上は夕暮れだった。
アイノが無言で歩いていた。自分のカンテレを——いつもは背中に背負っているそれを——胸に抱きかかえるように持っている。
「大丈夫か?」
カレが訊いた。
「……なんでもないわ」
アイノは顔を背けた。
世界のカンテレ。
その名前が、アイノの心に刺さった棘のように残っていた。カレにはそれがわかった。なぜ棘なのかまではわからなかったが。
自分のカンテレとサンポの間に、何かがある。アイノはそれを感じ取っている。だがそれが何なのかは、アイノ自身にもまだわかっていない。
二人は黙ってヴァイノラの街を歩いた。歌堂からルーノの旋律がかすかに聞こえていた。




