歌比べ
大ルーノラを去ろうとしたとき、声がかかった。
「逃げるのか」
中庭の隅に、若い学生が立っていた。カレと同じくらいの年齢だろう。歌学院の制服をきっちりと着こなし、腰に定型歌の巻物を下げている。秀才の目をしていた。自分の才能を疑ったことがない者の、鋭くて真っ直ぐな目。
「我流の歌がどれほどのものか、見せてみろ。逃げたままじゃ、定型歌に負けたのと同じだ」
非公式の歌比べの挑発だった。
「無視しなさい」
アイノが低い声で言った。
カレは立ち止まっていた。学生の目を見ていた。
あの目はカレを見下しているわけではなかった。定型歌こそが正しいと信じている者の、純粋な挑戦だった。自分が正しいことを証明したいのはカレも同じだ。
「いや……歌う」
「は?」
「歌うよ。見せてやる」
アイノがため息をついた。だが止めなかった。
中庭に人が集まり始めた。廊下の窓から顔を出す学生。通りがかりの歌術師。非公式とはいえ、歌比べは歌い手の血を騒がせる。
学生が中庭の中央に立った。カレも向かい合うように立つ。
「始めようか。先手はそっちに譲る」
「ふん。定型歌も歌えない者に先手を譲る意味はない」
学生が口を開いた。
旋律が流れた。風招きの定型歌——中級の歌術。学生の歌は見事だった。正確な発音、安定した旋律、教科書通りの美しい歌唱。一切の乱れがない。大ルーノラの教育が磨き上げた、完成度の高い定型歌。
風が吹いた。中庭の木々が揺れ、落ち葉が渦を巻く。学生が操る風は制御された力強さを持っていた。見物人たちが感嘆のため息を漏らした。
「どうだ。これが定型歌だ」
学生の目に自信があった。
カレは目を閉じた。
風の「真の名」を感じ取ろうとした。
中庭を吹く風。学生の定型歌に従って動いている風。だがその風には本来の名前がある。定型歌が付けた仮の名前ではなく、風そのものの——本質。
冷たい。速い。どこから来てどこへ行くのか。生まれた場所はタルヴァス河の水面。河の冷気が丘を越えて街に流れ込み、建物の間を縫って中庭に辿り着く。
その名前が、見えた。
カレが口を開いた。
一言だった。
定型歌の旋律ではない。韻も、節回しも、型もない。ただ風の本質を——真の名を言い当てるだけの、一つの言葉。
風が止まった。
学生の定型歌が操っていた風が、突然静まった。木の葉が宙で止まり、渦が解け、中庭の空気が完全な凪になった。
静寂。
学生の歌がまだ続いていた。口は動いている。旋律は正確だ。だが風は応えなかった。カレの一言が風の真の名を呼んだ瞬間、定型歌の制御は上書きされたのだ。
見物人たちが息を呑んだ。
学生が歌を止めた。口を半開きにして、カレを見ている。何が起きたのか理解できていない。定型歌が——中級の正確な定型歌が——たった一言で無効化された。
「嘘だろ……」
学生の声が震えた。
沈黙の中に、一つの足音が響いた。
見物人の輪の中から、壮年の男が歩み出た。歌術師の正装ではなく、研究者風の地味な外套。だが胸元にある徽章は——教授職を示すものだった。
「古い歌を知る者がまだいたとは」
教授が低い声で言った。
カレを見る目に、軽蔑はなかった。驚きと、それ以上に——好奇があった。
「君の歌は定型歌ではない。だが定型歌以前の——もっと古い体系に属するもののように見える。どこでそれを学んだ?」
「カトゥマ廃村の——ロヴィアタルという老魔女に」
「ロヴィアタル」教授の目が細くなった。「……その名を聞くのは久しぶりだ」
知っているのか。カレの心臓が跳ねた。
「少し話がしたい」教授がカレに言った。「古文書室に来なさい。君に見せたいものがある」
学生が呆然と突っ立っていた。アイノが中庭の隅からカレを見ていた。その目に——驚きと、それから何か別の感情が混じっていた。
定型歌じゃないのに。我流の、教本にも載っていない歌なのに。
世界は応えた。




