聴こえた感情
霜の歌い手が第二波の攻撃を放った。
氷の槍が結界を貫通した。
一本、二本——三本が同時に結界を突き破り、廃村の家屋の壁に突き刺さった。木の壁が砕け、破片が飛び散る。マルヤの悲鳴が聞こえた。ヴェイッコの泣き声が続く。
ロヴィアタルが膝をついた。結界の維持がもう限界だ。老魔女の顔色は灰色に近く、唇から一筋の血が顎を伝っている。歌の力で体が内側から削れているのだ。
「ばあさん!」
「大丈夫……まだ、持つ」
持つはずがない。見ればわかる。あと何分もつかという問題だった。
カレは死を意識した。
このまま何もできずに全員が凍えて死ぬのか。自分の力が通じない敵の前で、何もできずに。
違う。
ロヴィアタルの言葉が頭の中で鳴っている。「聴け」。修行の原点に立ち返れ。自分の歌を押しつけるのではなく、相手の歌を聴け。アイノの音の中にあるものを——聴け。
カレは目を閉じた。
周囲の音を遮断した。霜の歌い手の凍えた旋律も、結界の軋みも、住人たちの悲鳴も。全て遠ざけた。
そしてアイノのカンテレの音だけに、全神経を集中させた。
アイノは弾いていた。広場の中央で、カンテレを抱えて旋律を奏でている。さっきの不協和音の後も、演奏を止めていなかった。合わせることは諦めたのかもしれない。だが弾くことを——やめていなかった。
カレは聴いた。
旋律の表面ではなく、その奥を。音と音の間に流れているものを。
そして——聴こえた。
感情だ。
アイノの旋律の中に、感情が流れていた。音のルーノの本質は「感情がそのまま音になる」こと。ロヴィアタルが言っていた通りだ。アイノの演奏には——言葉にならない感情が、旋律という形で世界に零れ出ている。
恐怖。
ポヒョラの記憶。暗い部屋。冷たい声。逃げ続けた日々。追手の気配。眠れない夜。
怒り。
利用された音楽。人を従わせるための旋律。自分の音が武器にされた怒り。
孤独。
誰も信じられない日々。一人で森を歩き、一人で夜を越え、一人でカンテレを弾いた。
そして——その全ての底に、かすかな光が見えた。
守りたい。
それは音の一番深いところに沈んでいた。恐怖と怒りと孤独の下に、小さく、だが確かに——守りたいという感情が鳴っている。この場所を。ここにいる人たちを。パンの焼き加減を訊いてきたマルヤを。カンテレに目を輝かせたヴェイッコを。
アイノの音楽は感情そのものだった。
カレは目を開けた。
答えが見えた。合わせるのではない。聴くのだ。そしてアイノの感情に——言葉を与えるのだ。
カレはアイノの隣に立った。アイノが横目でカレを見る。「何する気——」
「黙って弾いてくれ。聴いてるから」
アイノが戸惑ったが、指は止まらなかった。旋律が流れ続ける。恐怖と怒りと孤独と——守りたいという感情が、カンテレの弦を通して世界に零れ出る。
カレはその感情を受け止めた。
そして——言葉を紡いだ。
「守れ」ではない。命令ではない。カレの言葉のルーノは、対象の本質に触れ、本来の姿を呼び覚ますものだ。
「ここを、この人たちを——お前の音で包め」
カレの言葉とアイノの旋律が——一瞬だけ、重なった。
空気が震えた。
広場全体に振動が走り、霜の歌い手が放った氷の槍のうち一本が——たった一本だけ——溶けた。氷が水に変わり、しずくとなって地面に落ちる。
一本だけ。だが——確かに溶けた。
「何……」
アイノが呆然としている。カレも何が起きたか完全には理解しきれない。だが体が覚えている。一瞬だけ、自分の言葉とアイノの音が同じ方向を向いた。言葉が意味を与え、音が力を与えた。
結界の向こうで、霜の歌い手が歌を止めた。
初めて——わずかに、眉が動いた。
「……興味深い」
霜の歌い手が一歩退いた。氷の槍を回収するように、空気中の冷気が男の元に集まっていく。
「だが——足りない。次は本気で来る。それまでに、今のを完成させてみるがいい」
嘲りではなかった。感情のない声の中に、かすかな好奇心があった。霜の歌い手は背を向け、森の奥へ消えていく。一時撤退だ。
猶予を与えられたのか。それとも——試されているのか。
カレとアイノが顔を見合わせた。
一瞬だけ歌が重なった。たった一本の氷を溶かしただけだ。
だがカレは確信した——この二つの歌が本当に重なったら、もっとすごいことが起きる。




