逃げてきた人の場所
数日が過ぎた。
女は相変わらずカレを避けていた。廊下ですれ違えば目を逸らし、話しかければ「用がないなら」と突き放す。だが変化はあった。
共同食卓に現れるようになったのだ。
最初は端の席に座り、誰とも話さず食べて去るだけだった。三日目に、マルヤが「パンの焼き加減はどう?」と声をかけた。女は一瞬黙り、それから「……悪くない」とぶっきらぼうに答えた。マルヤがにっこり笑った。五日目には、ヴェイッコが女のカンテレを指差して「それ何?」と訊き、「楽器。触るな」と返された。ヴェイッコは怒るどころか目を輝かせた。
壁が薄くなっている。ほんの少しずつ。
カレはそれを遠くから見ていた。自分が近づくと壁が厚くなるのだ。だからマルヤやヴェイッコに任せて、カレは修行に打ち込んだ。
その日の夕方、ロヴィアタルの表情が曇った。
いつものように結界の状態を確認していた老魔女が、杖を握る手に力を込めた。目を細め、北の方角を見つめる。
「北から、嫌な気配がする」
カレが修行の手を止めた。
「ポヒョラの匂いだよ」
嫌な予感が背筋を走った。歌術師団の件からまだ半月も経っていない。次は何が来るのか。
「歌術師団の残りですか」
「いいや。あれとは格が違う」
ロヴィアタルの声に、初めて聞く緊張があった。あの歌術師団の戦いでさえ余裕を見せていた老魔女が——怯えてはいないが、明確に警戒している。
「もっと厄介なのが来るよ」
「……またか」
カレは拳を握った。この廃村は平穏でいられないのか。守るべきものがある場所には、脅威が引き寄せられるとでもいうのか。
ロヴィアタルがカレを見た。
「あの子のことだろうね。ポヒョラの追手だ」
あの女。ポヒョラから逃げてきた、カンテレを抱えた女。追手が来る——ということは、女がここにいることが知られたのか。あるいは、元から追われていたのか。
「結界は持ちますか」
「わからんよ。相手による」
ロヴィアタルは正直だった。からからと笑いもしない。それが、事態の深刻さを物語っている。
夜になった。
カレが広場を横切ろうとした時、あの女の姿が目に入った。
小屋の前で、荷物をまとめている。
ボロボロの外套を肩にかけ、カンテレを背に負い、わずかな食糧を袋に詰めている。出発の準備だ。
カレは駆け寄った。
「どこへ行くんだ」
女が振り返った。月明かりの下で、その表情は決意と恐怖が入り混じっている。
「私のせいで皆が危険になる。ここから離れたほうがいい」
「追手はあんたを追ってるんだろう。一人で逃げてどうする」
「一人のほうが身軽よ。今までもそうしてきた」
「それで倒れて死にかけてたじゃないか」
女が言葉を詰まらせた。カレの指摘は正確だった。一人で逃げ続けた結果が、あの日の行き倒れだ。
「……あんたには関係ない」
「関係あるよ。俺がここに連れてきたんだ」
「勝手に連れてきたのはあんたでしょ。頼んでない」
「じゃあ倒れたまま死ねばよかったのか」
女が睨みつけた。カレも引かなかった。普段の口下手が嘘のように、言葉が出てくる。
「ここはそういう人が集まる場所だ」
カレは言った。
「追放された人も、逃げてきた人も。俺もそうだった」
女の手が止まった。荷物を詰める手が、中途半端な位置で凍りついている。
「才能ゼロで村を追い出された。行くところなんかなかった。ここに流れ着いて、ばあさんに拾ってもらった。だから——」
カレは言葉を探した。気の利いたことは言えない。いつもそうだ。
「……逃げたって追ってくる。ばあさんにそう教わった。逃げるのをやめて、ここで一緒に——」
「一緒に何」
女が遮った。声が鋭い。だが——さっきまでの拒絶とは、少し違う。何かを確かめようとしている声だった。
カレは答えに詰まった。一緒に戦う? 一緒に暮らす? どれも大げさすぎる。まだ名前すら知らない相手に。
「……わからない。でも、一人よりはましだと思う」
不格好な言葉だった。自分でも呆れるくらい。
女がカレを見つめた。長い時間が流れた。
「……アイノ」
「え?」
「名前。アイノ」
カレは瞬きした。
「……カレだ。俺の名前」
「知ってる。あの老婆が呼んでたから」
アイノは荷物を下ろした。袋の口を結び直し、小屋の中に戻っていく。振り返らなかった。
だが——出発の荷物を解いていた。
アイノは荷物を下ろした。まだ信じてはいない。でも今夜は——逃げないことを選んだ。
北からの気配が、確実に近づいている。




