覚悟
朝が来た。
結界の外から、歌声が聞こえていた。
一つではない。二つ、三つ——少なくとも五つの声が重なっている。定型歌の旋律が結界の表面を叩き、目に見えない壁に亀裂を入れていく。空気がびりびりと震え、地面に置いた水瓶の水面が波立った。
「始まったか」
ロヴィアタルが杖を突いて家の外に出た。カレも続く。朝の冷たい空気が肺を刺す。空は低い雲に覆われ、日の光は弱い。
廃村の住人たちが不安げな顔で集まってくる。マルヤがヴェイッコの肩を抱き、少年の顔は青白く、唇を噛みしめている。セッポが手斧を握り締めていた。手斧で歌術師に勝てるはずがないと知りながら、他に武器がないのだ。
「落ち着きな」
ロヴィアタルが住人たちに声をかけた。穏やかだが、有無を言わせない声だった。
「結界はまだ持つ。すぐに破られはしない」
だがカレは見ていた。老婆の額に汗が浮いていること。杖を握る指が白くなっていること。昨夜も結界の補修に起きていたのだろう。顔色が悪い。唇の血の気が薄い。それでもロヴィアタルは背筋を伸ばし、住人たちの前では弱みを見せなかった。
結界の外から、声が響いた。
「おい、中の者! 聞こえるか!」
男の声だった。中年のしゃがれた声。だがその奥に、鍛えられた歌い手特有の響きがある。声を張らなくても遠くまで通る、訓練された発声だった。
「薬草と食糧を出せ。さもなければ、この結界ごと焼き払う。考える時間はない。今すぐだ」
マルヤが息を呑んだ。ヴェイッコがマルヤの服を掴んで震えている。セッポが一歩前に出ようとしたが、カレが手で制した。
「カレ——」
「俺が出ます」
カレはロヴィアタルを見た。
「ばあさん。結界はどのくらい持ちますか」
「半刻」
ロヴィアタルが呟いた。額の汗が顎を伝って落ちる。
「五人の歌術師が一斉に叩けば、持って半刻だ。下手をすればもっと短い」
半刻。砂時計が半分落ちるだけの時間。その間に何ができる。
カレは振り返り、住人たちを見渡した。怯えた顔、強張った顔、泣きそうな顔。この人たちは歌の力を持たない。定型歌一つ歌えない、普通の人間だ。カレとロヴィアタルだけが、ここで戦える。
「セッポさん、マルヤさん。ヴェイッコを連れて、村の奥の洞穴に逃げてください」
「でもカレ——」
「俺とばあさんでなんとかします。みんなは隠れていてください」
セッポが何か言おうとしたが、カレの目を見て口を閉じた。カレの目は据わっていた。十九年間、何もできなかった少年の目ではなかった。怯えてはいる。手も震えている。だがその奥に、折れない何かがあった。
「頼む」
「……わかった。気をつけろよ。死ぬんじゃないぞ」
セッポがマルヤとヴェイッコを連れて走り出した。他の住人たちも続く。廃村の奥にある古い洞穴。ロヴィアタルが非常時の避難場所として整備していた場所だ。入口を薬草のルーノで覆い隠してある。歌術師でも、知らなければ見つけられない。
広場にはカレとロヴィアタルだけが残った。
結界がまた揺れた。びしりと音がして、亀裂が広がっている。五つの声が、五つの定型歌が、同時に結界を削っている。風の刃。火の拳。水の楔。土の鉄槌。氷の釘。五種類の定型歌が、一枚の壁を多方向から攻撃している。
「カレ」
ロヴィアタルが言った。杖を両手で握りしめ、結界の維持に集中しながら。
「やれるかい」
「やるしかないです」
カレは深呼吸した。胸一杯に冷たい空気を吸い込み、ゆっくりと吐く。修行で掴んだ上書きの技。まだ不安定だ。練習では十回に一回しか成功しなかった。実戦では何回成功するかわからない。
だがここには守るべき人たちがいる。ロヴィアタルがいる。マルヤがいる。ヴェイッコがいる。セッポがいる。カレの歌を「温かい」と言ってくれた人たちが。
「ばあさん。俺が前に出ます」
ロヴィアタルが目を見開いた。
あの地鳴りの夜——追手を退けたときのカレは、叫んでいただけだった。恐怖と怒りに突き動かされた暴発だった。だが今のカレは違う。覚悟がある。自分の歌を知っている。何ができて、何ができないかを理解している。
「無理をするな」
ロヴィアタルが静かに言った。
「だが——お前の歌を信じろ」
カレは頷いた。結界の前に立つ。両足で大地を踏みしめ、拳を握る。手は震えていた。膝も震えていた。でも目は、前を向いていた。
結界が——砕けた。
ガラスが割れるような音がした。目に見えない壁が粉々に散り、その破片が朝の光の中できらきらと瞬いて消える。五つの定型歌が同時に壁を打ち砕いた衝撃で、地面の落ち葉が渦を巻いて舞い上がった。
その落ち葉の向こうに、五つの影が立っていた。
歌術師団。
先頭に立つ男は、四十代半ばに見えた。痩せぎすで、目の下に深い隈がある。頬がこけ、顎は無精髭に覆われている。かつてはルーノラの教壇に立っていたのだろう——体の中心に歌い手としての芯が残っている。姿勢が良い。声の通る体の構えを崩していない。だがその目は濁っていた。飢えと絶望に蝕まれた、暗い目だった。
カレは腹の底から声を出した。
修行で掴んだ、自分だけの歌を。




