第22話 居場所
地獄のような時間が続く。今日の授業。
授業と言っても、テストの返却と夏休みに向けての簡単な準備ぐらいだ。
昼までには下校もできるし、普通の高校生にとっては最高だろう。
僕も、そんな気持ちでいたかった。
純粋に、夏休みの待ち遠しさを楽しみたかった。
さっきの出来事が、頭の中を駆け巡っている。
この教室にいる全員から嫌われ、僕の全てを否定された。
もう逃げ出すこともままならない。
教室の最前列のこの席。
今は背後からの、無数の悪意ある視線が怖い。
表情や目線は見ることができない。
でも確実に僕に向けられている。感じる。
本当に怖い。
少しの物音も本当に怖い。
ちょっとしたヒソヒソ話も全部僕の悪口に聞こえる。
それが怖い。
先生の言葉なんて一言も耳に入らない。
僕は何でここにいるんだっけ。
僕は何のためにここにいるんだっけ。
もう気が狂いそうで。
いや、本当に狂ってしまいたい。
すべて忘れてしまいたい。
「おい、日向! 返事しろよ!」
突如、先生が叫ぶように。
その言葉に現実に引き戻された僕。
教室の注目が一斉に僕に集まっている。
冷や汗とともに高まる心臓。
「ほら、テスト。呼ばれたら返事ぐらいしろ」
先生は、僕にテストの結果を手渡す。
それを受け取った僕は、テストの点数など一切見ることなく再び机に頭を落とす。
テストの結果なんて今はどうでもいい。そんな余裕なんてない。
点数がどうであれ、この現状なんて変わらないんだから。
どうせ悪い結果なのはわかっていることだし。
どうだっていいんだ。
周りは、テストの結果に一喜一憂で盛り上がっている。
僕はその言葉の中に、僕への悪口がないかビクビクと怯えているだけだった。
いつ、僕へ悪意が向けられるかわからない。
その不安は、心を少しづつ削り取られてしまっているようだ。
こんな状態の僕に何ができるっていうんだ。
いずれ授業は終わる。そしたら放課後だ。
じゃあ何ができる?
先輩の所に行く? いってどうなる?
もうわからない。
先輩を助けたいって気持ちだけできたけど、それすらもう薄れてきた。
すみません先輩。でももう僕はどうすればいいかわからないんです。
チャイムが鳴る。
「じゃあ今日の授業はここまでだなー。明日は終業式だからちゃんと来いよー!」
先生が教室から出ていく。
いつもの僕なら、いじめられるのを避けるためにすぐにでも教室を出ていく。
でも今はそんな気力もない。
どう動けばいいかもわからない。
何も考えず俯いて、じーっと座ったまま。
周りの声にビクビクしたままなのも変わらず。
特に飯崎と浦塚の声は、ボリュームを上げたかのようにハッキリと耳に通ってくる。
「なあ恭二さあ。これ、島さんからメール来てたんだけど」
「ん? ……マジか~。ダルすぎ。そんな暇ないんだけど」
「え~。頼むって~。行かないと俺が殴られるじゃんか~」
「お前はどうでもいいんだけどよ〜。まあ島さんの頼みじゃしゃーないか。そういうことで、悪いな。今日キャンセルで」
そして山口の声。
「え~! 最悪じゃん! ちょっと聞いてないんだけど!」
「俺だって行きたかないけどよ~」
浦塚が近づいてくるのが分かる。
そして僕の頭に掴みかかって、僕を持ち上げる。
「恨むならこいつ恨んでくれよ。おいゴミ。行くぞ」
「島さんが呼んでるんだよ。しっかり歩け!」
「マジで最悪なんですけど……はやくこいつ殺せよ」
山口の冷めきった一言。
僕は、浦塚と飯崎にされるがままに、教室の外へと連れ出されていく。
教室からは山口の他の女子と話している声が聞こえてくる。
「……ヒカゲってさ、学校中の女子の絵描いて、それでシコってるらしいよ。カバンに私の絵もあったんだってさ」
「マジ? 私でシコられてたら最悪なんだけど」
「しかもさ、美術室のあいつの席見たことある?」
「なになに?」
「机の周り花瓶だらけ」
「あ! それ見たことあるかも!」
「しかも花瓶の絵ばっか描いてるらしいよ」
「うわ、鳥肌立ってきた。やばいやつじゃん」
「でしょー。花瓶に突っ込んで腰振ってるとこも見たやついるって」
「ドン引きなんですけど」
僕を恨んで、有る事無い事を言いふらしているみたいだ。
そんな山口の罵声も遠ざかっていく。
「ちゃんと歩けよヒカゲ!」
僕の頭を引っ張る力がより強くなる。
「覚悟しとけよ! まじで今度こそ殺されるかもしれないからなぁ!」
飯崎が興奮気味に叫ぶ。
確か、島に呼ばれているって……。
どこに連れて行かれるんだろう。
まあどこにせよ、ボコボコにされるんだろうな。
本当に死んでしまっても……まぁ……。
流れに流されるがままの僕。
考えることも放棄して。
その道のりは、とても長く感じた。
「おい、ついたぞ」
連れていかれたその場所を見上げた僕。
そこは、僕が誰よりも知っていた場所だった。
でも、僕が今一番避けていた場所。
そこは美術室だった。
「さっさと入れ!」
浦塚に美術室へ投げ入れらる。
床に倒れこむ僕。
顔を見上げたその先には、考え事をするかのような少し険しい面持ちの島。
そして、ニコニコと変わらす笑顔の先輩が。
先輩……。
そう小さくつぶやいた僕。
そんな僕の顔に先輩が顔を向けた。
顔と顔が向かい合った。
その一瞬だった。
先輩の縛りつけらたような笑顔が、ほんの一瞬だけ緩んだように見えた。
すぐに元の笑顔にもどったのだけど、僕はその一瞬を見逃さなかった。
その一瞬に、僕は我に返った。
……なんだよ僕は、マジ信じられないくらいバカだよな。
今朝、あれだけ決心して家を出たのに……何にも出来てないじゃないか。
その上、流されるだけ流されて……自分の意思も示さないで。
朝、教室に入った後は本当に地獄だった。
たった一人孤独なのに周りからは責められ続けて、押しつぶされそうな絶望でいっぱいで、目の前の全てが真っ暗になる気持ちで。
でもそんなとき、先生が助けに入ってくれたと思ったら心の底から嬉しかった。
本当に安心した。
救われたって気持ちになった。
結局救われることはなかったけど……。
だからこそこのままじゃダメなんだ。
先輩も今、同じ気持ちだから。先輩の顔を見ればわかる。
今ここにきた僕に、助けてと思ったはずなんだ。
先輩と同じ絶望の中に落ちたからこそ分かる。
僕は、絶対に見捨てない。
……どんな時も手を差し伸べ続けるんだ。
「凪とさー。俺ってさー。付き合ってんじゃん。それはわかるよなー」
島がゆっくりと口を開く。
「例えばさ、夜とかにさー。電話すんじゃん。付き合ってるしさ、普通にするじゃん。凪と俺もよくやってたよ。つまんねえことで盛り上がったりさ。するじゃん」
島は、その表情をより険しくして
「……今思い返してみりゃよ。いっつも俺からかけてたわ、電話。毎回毎回かけてたわ。一回もよぉ。凪からかかってきたこと無かったんだよ。電話。」
こいつ、何の話をしているんだ……?
島は、ポケットから携帯を取り出していじりだした。
あの携帯は見覚えがある。先輩の携帯だ。
「今まで別に何にも思ってなかったけどよ。こんな状況じゃん。でさぁ、さっきこいつの携帯見たんだよ。そしたらよ。とんでもねーの見ちまってよ」
島は携帯をいじる手を止めて、その画面をこちらに向けてきた。
えっ? なんだこれ……。
その画面を見た僕は、おそらく島と同様の衝撃と困惑を受けてしまった。
「無いんだよ。俺の名前。電話帳に登録されているの、これしかねえんだよ……」
日向 真守
先輩の携帯の電話帳にはたった1件、僕の名前が登録されているだけだった。
分からない。
「どういうことだよ」
どうと聞かれても、僕にもさっぱりわからない。
島の混乱が伝わってくる。僕も同じ気持ちだから。
こんな状況下でも、島の横でニコニコと笑顔を絶やさない先輩。
「何笑ってんだよ……。どういうことか説明しろよ!」
先輩は困ったような笑顔で答える。
「どうしたらいいか分からなくて……」
「わかるだろ? こいつの登録してるくせに分からないなんて通るかよ!」
「そ、そうじゃなくて……」
「何笑ってんだよ! 人のこと舐めるのもいい加減にしろよ!」
「えと……ごめんね……」
怒鳴りつける島。先輩はそれでも笑顔は崩さない。
そしてその怒りは僕にへと向けられる。
「おいチビ! ……昨日どこで何してた、答えろ」
「ほら言えよ!」
浦塚は倒れた僕の頭を引っ張り上げ、無理やり立たせて
「……山で絵を描いていただけです。それだけです」
僕は振り絞った震え声で小さく言った。
ただ正直に。
「そんなわけねーだろこのクズ!」
浦塚は僕の頭を力いっぱいで地面に投げつけた。
僕は地面に這いつくばったまま、島の足元に手を伸ばした。
そのまま島に顔を向けて。
「本当にそれだけなんです……。ですよね、先輩」
そして、先輩の方に顔を向ける。
先輩の笑顔がまた一瞬緩む。
「うん……」
先輩は小声でそう言った。そして、あははと誤魔化すように小さく笑った。
「はぁ……もういいわ。全部。冷めた」
島は冷め切った目でそう言い放った。
その目を先輩に向けて言い続けた。
「凪ってすっげえかわいいからさ、彼女にしてやったのによ……。最初は純粋に嬉しかったよ。こんな町にもいい女いるじゃんって。やっと俺にも釣り合う女がいたって」
こいつ……言ってることがめちゃくちゃだ。
先輩をなんだと思っているんだ。
こんな言葉を向けられても、先輩はその笑顔を崩さない。
「その顔がよ……むかつくんだよ!」
島はそう叫んだと同時に、先輩の顔を強く叩いた。
こいつ……ついに先輩にまで手を上げた……!
そう思った瞬間、僕の体は無意識に動いていた。
島に掴みかかろうと飛び出した。
もうどうなってもいい。
だけど先輩に手を上げることは許さない。
一発だけでもいい。
あいつをぶん殴ってやる。
でも、僕の拳は島に届くことはなかった。
「大人しくしてろヒカゲ!」
飯崎に掴みかかられ、背中の上から伸し掛かられ押さえつけられた僕。
もう身動きも取れなくなってしまった。
そんな僕の決死の行動も、島の眼中には全く入っていない。
「何でも笑顔でハイハイ答えるから良かったのによ……内心俺のことバカにしてたんだろ!」
「ごめん……。でもそんなことないよ。与一郎君のことは好きだよ」
「ほんとにそう思ってんのか?」
「ほんとに思ってるよ!」
先輩は変わらない笑顔で答える。
「じゃあ、こいつと行った秘密の場所。俺も連れてけよ」
「えっ……」
こいつ……最悪の展開……。
「好きなんだろ俺のこと。じゃあ行けるよな」
その場所だけは行っちゃダメなんだ。
「うん。いいよ!」
先輩の唯一の居場所なんだ。
そこを荒らしてしまうと、先輩の逃げ場が無くなってしまうんだ。
たまらず、僕は声を上げる。
「それだけは……」
「黙ってろ! ヒカゲはしゃべんな!」
僕の声は、飯崎の怒鳴りによってかき消されてしまう。
「じゃあ、今から行くからさ。先、出とけよ。こいつらにちょっと話あるからよ」
「わかったよ」
美術室の扉に手をかけた先輩、そのままこちらに振り返って。
「じゃあ待ってるからね」
そう言い残して、美術室を出て行った。
その言葉におう、とだけ返事を返す島。
でも島は気づいていない。
言葉は島に言ったものじゃないんだ。
僕の方へ顔を向けて言ったんだ。
先輩なりのSOSを僕に向けて放ったように感じた。
その言葉を、僕は重く受け止める。
島はその姿を見届けた後、僕の方へと顔を向ける。
「もう凪いいわ。俺のこと裏切るしよ。捨てるわ」
こいつ、いつまでも先輩を物みたいに……許せない。
「でもよ。凪って見た目は冗談抜きで良いじゃん。どうせすぐ誰かの女になるって思うとムカついてくるんだよ」
島は笑みを見せた。
「だからよ。二度とまともに付き合えねえようにしてやるよ」
その笑みは、邪悪さを増していく。
次の言葉なんて一言も聞きたくない。
もう口を開かないでくれ。
でもやつは、そのニヤついた顔で話を続けた。
「その例の場所行ってよぉ。凪のこと犯してやるんだよ! めちゃくちゃによぉ! そうすりゃもう男なんて怖くて近づけないよなぁ! そんでさぁ、凪の携帯で動画撮ってメール箱入ってる全員に送ってやるんだよ! な! 名案だろ!?」
狂ってるよ。
島の異様な高揚感に美術室全体が飲み込まれていく。
「無理やりヤられてるのに必死に腰振って声上げてる姿をよぉ! そうなりゃもう二度と町歩けないよなぁ!」
島はそう叫びながら、先輩の携帯をいじり始めた。
「おい浦塚来いよ! ほら見ろよ、アドレス表記だから誰が誰か分かんねえけど、結構な人数いるよなぁ?」
「……そっすね」
「なんだ、このチビに最初に送ってやろうかと思ったけど、番号だけでアドレス登録してないじゃん。まぁ、また誰かに見せてもらえよ」
笑い交じりでこんな最低なこと口にできる神経がわからない……。
悪魔のような男だ。絶対に許せない。
「なに寒いこと言ってんすか」
突然、美術室の扉から冷切ったような声が聞こえてきた。
「山口、お前いつから……!」
島が少し焦ったように叫ぶ。
山口は気にすることなく、続けて言った。
「あんだけ叫んでたら外まで丸聞こえだって」
「おい、口の聞き方きをつけろよ」
浦塚の言葉も届いていないようだ。山口はさらに続けた。
「今時レイプだけって……。ぬるいっすよ。そのまま孕ませればいいんっすよ。そんで流産でもさせりゃもう終わりっしょ」
山口は淡々と、何事もないかのような口調で話し終えた。
その場にいた全員が凍りつくように黙り込んだ。
なんだよそれ……本当に同じ人間かよ。
そして、沈黙を破るように島が一言。
「お、おう……。マジでやべえよそれ……。名案じゃねーか。なぁ、名案だよなぁ?」
飯崎と浦塚はその返答に戸惑いながらも「いいっすねぇ」と肯定をする。
お前らマジで正気かよ……。
「じゃあよ……。妊娠するまでヤリまくって来るわ。こいつ見張っとけよ」
そして、美術室を出ようとする島。先ほどまでの狂った高揚感はない。嫌にまで落ち着いた目をしていた。
「あ、そうだ。俺が終わったらお前らもヤっていいからな。まあ俺の中出しした後だけど。」
絶対に行かせない。
これ以上先輩を傷つけさせない。
「……まてよ! まてよ!」
力の限りそう叫ぶ。
今までの僕からは自分でも信じられない行動。
でも先輩のことを思うと、閉じ込めたままにはできない叫び。
島は僕の叫びも無視したまま、教室を出て行ってしまう。
絶対に止めないといけない……!
僕の持てる全ての力を絞り出す。
「……黙ってろって言ってるだろ!」
でも力及ばず、またしても飯崎に阻止されてしまう。
非力な僕では伸し掛かった飯崎さえ振りほどくことができない。
最悪だ。なんでこんな時も何もできないんだよ……。
美術室の外、島の歩く音が遠ざかっていく。
何とかしないと本当に取り返しのつかないことになってしまう……。
「島さんヤバすぎだよな……」
飯崎が小さくつぶやく。
「おぅ……マジすげえよ。てかお前何でいるんだよ」
「別に。もう終わったか様子見に来ただけ。いつまでつまんないことやってんの」
2人の会話も耳に入ってないのか、飯崎はブツブツと呟き続けている。
「蒼井さん犯すって……。そこまですげえ人だと思ってなかったよ」
そして飯崎は……僕に向かって最低の言葉を言い放った。
「……なあヒカゲ。お前も興奮してんじゃねーのか……? ほんとはちょっと勃ってるだろ」
「飯崎……自分が何言ってるか分かってんのか!」
もう我慢なんて出来なかった。する気も無かった。
今まで出したことのないような声で叫んだ。
周りなんて気にしなかった。
大雨のように流れる涙を隠すつもりもなかった。
ただ、湧き上がる感情をそのままぶつけた。




