第21話 最初の試練
決心は固く、家を飛び出したのは良いが……。
ダメだ……。
今の状況に飲み込まれそうになる僕がいた。
いかに人の心が脆いのか……身を持って体感している。
学校に一歩、一歩、近づくたびに逃げ出したくなる気持ちが膨らんでいく。
……でも、先輩もそんな気持ちかも知れない。
今の僕と同じ。
それをずっと一人で……。たった一人で戦ってきたのかもしれない。
今思えば、あの絵。
先輩が僕の絵に惹かれた理由。
それは、自分の忘れてしまっていた本心からの表情がそこにあったからなのかもしれない。
無意識に、その表情を取り戻したいと求めていたから、僕に絵をお願いしたのかも。
……全部僕の憶測にすぎないけど。
でも、分かったんだ。
あの二人だけの場所で。
先輩の笑顔は……嘘なんだって。
だから僕は手を伸ばす。
イジメられていた時より状況は悪い。
それでも、立ち向かわなきゃいけない。じゃないと、先輩は……。
もうここまできたらヤケクソだ。
登校時間はいつもより遥かに短く感じられた。
そして校門の前に立ってみて思うこと。
もう着いてしまったのか……。
もっと登校時間が長ければよかったのに……。
いつもは15分の登校時間が本当に煩わしかった。
でも今はその2倍以上の時間が欲しい。
もっと考える時間が必要なんだよ……。
いざ学校という強敵を前にすると、さっきの勢いも薄れてしまう。
無理やりにでもいい方向に考えてみる。
……テスト週間も終わって、今日はそのテストの返却日。
それが終われば、明日は終業式だ。
そこさえ乗り気ってしまえばもう夏休み……。
しばらく学校には行かなくて済む。
しばらくの間。
……はぁ。なにも解決になっていない。
先延ばし先延ばしじゃん。
より一層沈んでしまった心でゆっくり、ゆっくりと学校に入っていく。
とりあえず、余計な面倒は避けていきたい。
いつもなら少し足を止める一階、三年の教室が並ぶ廊下。
誰にも見られないように、駆け足で通り過ぎる。
幸運にも蒼井先輩、そして島はいなかった。
姿も見られていなかったはず。
でも何故か、僕は更に足を速めて階段を上っている。
いないことは分かっているんだ。もう通り過ぎたんだ。
なのに……島の顔が頭から離れない。先輩の笑い声が聞こえる気がする。
高まる心臓を必死に整える。
落ち着け、三年の教室の前を通るだけでこんな調子でどうする。
難関は……まだこの先にもあるんだ。
目の前に……。
自分の教室の扉。
建付けの悪く、開き辛い扉。
今日はいつもに増して開き辛い。
物理的にではなく精神的に。
その扉を開けることが、僕にとって最初の試練。
扉の先に更なる試練が待っていることは分かり切っている。
僕の姿を見たあいつが、飯崎が黙っているはずがない。
そのまま浦塚の暴力、そしてクラス中の非難が集まるだろう。
簡単に想像ができる……。
ヤバい。想像してしまうともう泥沼。脂汗が噴き出てくる。
気づくと僕はカバンの中を漁り始めていた。あるはずのないイヤホンを求めて。
無意識に逃げ始めていた僕。
……やっぱり、帰ろうかな。
情けないけど、ここを開ける勇気が湧いてくるにはまだ時間が足りない……。
教室の前で、モタモタと煮え切らない僕。
それがまずかった。
ガラッと開かれた扉。
その先には飯崎が。
僕を見るなり、表情は不愉快なものへと変わっていく。
「お前……。来るなって言っただろ……!」
決心も固まらず、何もかもがブレブレな僕。どんな顔したらいいのかも定まらない。
もちろん言葉もでない。
そんな状態だ。僕を教室に投げ入れるのは簡単なことだろう。
勢いは強く、巻き込まれた椅子が大きな音を立てて倒れ散る。
その椅子に足を取られた僕は、前方にいた男子生徒に大きく倒れこんでしまった。
「うわ! 触んな!」
その男子生徒にも大きく突き飛ばされて、今度は机と共に床に倒れてしまう。
静まり返る教室。
全員が僕を注目している。
飯崎が、散乱した机を掻き分けて僕のところに駆け寄ってくる。
「あれだけ言ったのに! なんなんだよお前はさぁ! 空気読めよ!皆迷惑してんだよ! なぁ!?」
小さく上がる声が聞こえる。
そうだよ。キモイし迷惑だ。死ねばいいのに。
クラス中。それこそ全員から聞こえてくる。僕への誹謗中傷。
全てが重く伸し掛かる。
そして、浦塚。あいつが僕へ近づいてくる。
「お前、全然懲りてないんだってな。そんで何? 島さんの彼女取ろうとしたって? んでボコボコにされたって?」
そう言って、浦塚は倒れる僕の腹を蹴飛ばした。
何度目だろう……。決して慣れることはない痛み。
昨日の痛みも引かないうちに。吐きそうなぐらい限界が近い。
「マジで殺されなかっただけマシだな。で、普通その後学校くるか?」
飯崎が答える。
「だよなー。俺ならもう自殺してるよ」
「マジで頭湧いてんじゃねーの?」
そして飯崎が顔を近づけてきて、低い声で脅すように。
「なに? それとも自分は悪くないとか思っちゃってんの?」
そうは思っていない……。
ただ、逃げたくないだけ。
「なぁ! 思ってんだろ! 悪いのはお前らだって!」
飯崎は、僕の胸倉を掴み上げ、また叫ぶ。
「なあ皆! 誰が悪いか教えてやれよ!」
その飯崎の問いかけに一人、一人と声をあげていく。
「ヒカゲが悪い」
「キッモイ」
「犯罪者だろ」
「えっ? 泣いてない?」
「もしかして喜んでんじゃないの」
「変態すぎじゃん。最悪」
口々に、僕に対する嫌悪が教室中に広がっていく。
逃げたくないと思っていたが……本当は逃げられないだけかもしれない。
罠にかかった小鹿のように僕は悟る。
逃げ場なんて無い。
「分かったかよ。自分の立場がさぁ! マジで帰れよ! 帰れ!」
すると飯崎の叫びにつられるように、教室中から帰れの叫び声が上がり始めた。
それは次第に大きくなり。そして一つになり。
教室中は帰れの叫びに包まれ、異様な雰囲気に。
耐えられない。こんな状況。とてもじゃないけど耐えられない。
本当に……本当に僕が悪かった。
だからお願いだ。
僕を助けてくれ。
心は簡単に折れる、誰かを救う前に。
僕にこそ救いが必要だ。
助けて。
じゃないと、本当に壊れてしまいそうだ。
助けて。
「何やってんだお前ら!」
教室の扉からの一声に、異様な叫びはピタリと止まる。
その声の主は、先生だった。
飯崎は手を放し、僕は床に倒れこむ。
先生は一目散に僕に駆け寄って
「大丈夫か? 何があったんだ。おい飯崎!」
助かった……。僕は安堵した。
これで、少しでも状況が良くなれば……。
「こいつが悪いんだよ。俺はけじめをつけてやっただけだから」
飯崎は何の躊躇もすることなく、自分は絶対正しいという自信を持った表情でそう言い放った。
そしてそれに続くように再び教室中から声が上がる。
「そうだ! 悪いのはヒカゲだ!」
「ヒカゲの自業自得だ!」
「飯崎は何も悪くない!」
それはまるで声援のように飯崎の行動を正当化させる。
鳴りやまないその声の中、飯崎は先生に向かって一言。
「先生。もうこいつとは話ついてるんで……いいっすか?」
チャイムが鳴る。
授業の始まりの音。
そして先生は言う。
「まあ、ならいいけどよ。あんまり大きく騒ぎすぎんなよ。外まで聞こえてたぞ」
「気をつけま~す」
「じゃあ授業始めるからな。おい日向。さっさと席座れよ~」
救いなんてなかった。




