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久々に吸った外の空気は別段変わった味もせず、ただ太陽だけが眩しかった。男は思い切り伸びをする。彼の片手は繋がれたままだったので、空いているほうだけで。
長い間室内にいたせいだろうか、一瞬くらりときて顔をしかめる。どうも身体が重いのだ。気分転換でもすれば改善されるかと、男は外の世界にもう一度目をやった。
狭いアパートの階段をゆっくり下りると(手を繋いだ状態だったので骨が折れた)細い路地になっていて、それが商店街まで続くようだ。意外と活気のある場所らしい。トキの家が静かなので気が付かなかったが、沢山の人間がそこを行き来しているのが男にも見えた。
「こっち」
「え」
しかしトキが進んだのは、商店街とは真逆の方向である。男の見ていた賑やかな場所とは違い、そちらには人影もなかった。
何処へ行く気だろう、彼はぼんやり思う。最早この子供に逆らう気など起こらなかったので、身体はおとなしく引かれるままになっていたが。
「そっち誰もいねェけど」
「良いの」
人混みはダメなんだよ。強い調子で言い切るトキを、男はただ見つめることしかできなかった。
路地を抜けた所にあったのは閑静な住宅街だ。街路樹の美しい並木道を、時折老人や買い物袋を提げた主婦がぽつぽつと通る。
どの景色にも見覚えはなかった。わかってはいてもやはり辛いと、男は小さく嘆息する。それを耳聡く聞き咎めたのか、トキがさっと彼の顔を仰いだ。
「疲れた?」
「いや」
平気だ、と笑ってみせるとトキはふいと顔を逸らしてしまう。そんな様子に苦笑を零しつつ、男は子供の綺麗な旋毛に視線を落とした。
常識的に考えて成人の男が疲れるほど、この散歩をはじめてから時間は経っていない。それでも彼を気にする素振りを見せる、この聡い子供はきっと気付いているのだろう(照れ臭いのか態度はそっけないが)、男の体調が何処か優れないことに。目を覚まして以来ずっと身体が重たいのは、落としてしまった記憶に関連しているのかもしれなかった。
「トキ。お前さ、学校は」
何となく手持ちぶさたで、男は気になったことを問い掛けてみる。何か喋っていれば気分も紛れるだろうと思った。ゆっくりとした歩みは二人とも止めないまま。
「行ってたよ」
「…………え、今は?」
二度目の質問は無言で拒絶された。まさかサボりなのか、はたまた登校拒否なのか。前者ならきっと自分のせい、後者ならどうにかしてやらねばならないと男は頭を悩ませる。すっかり兄貴分のような心持ちだ(実際は居候兼ペットの扱いなのだから笑わせるが)。
あまり触れられたくない話題なのか、トキはさらりと会話の方向を転換した。
「何か思い出しそう?」
「んー。まだ特には……あ」
ふと目に入った物体に男は足を止める。道路の端に一台のバイクが停めてあった。触りたいな、と思う。何故かはわからないが、今は本能に忠実に従うべきだろう(野生動物になったみたいだ、と彼は自嘲した)。
彼がそちらに歩み寄ろうとすると突然、トキがぎゅっと握る手の力を強めた。
「……え、何」
「ねこ……」
言われて見てみれば、バイクの影に茶色い毛玉が丸まっている。よく見ればその表面が穏やかに上下していた。なるほど、確かに猫だ。
「何、猫ダメなのかよ」
「別にどっちでも……でも、ポチは」
ポチは猫、好きだよね。柔らかく言われて考えてみる。何故質問ではなく断言なのか、不思議に思いつつも確かに彼は猫が嫌いではないような気がした。好きかもしれない、どちらかというと。動物全般が好きなような気までしてくる。
「……言われてみるとそうかも」
「やっぱね」
「何でわかンだよ」
「そんな気がしただけー」
トキはコロコロと笑う。その笑顔は歳相応で可愛らしかったが、どうも男は釈然としなかった。見透かされているようで面白くない。そんなに自分はわかりやすいだろうか。
「何だよ……俺、お前と会ったことあるっけ?」
「……冗談」
軽いジョークのつもりで言ったら一刀両断された。低レベルなナンパみたいなこと言わないでよ、と止めまで刺される。女の子は手厳しい。
気を取り直して男は再びバイクに歩み寄った。すぐ傍まで近づいても、猫は全く目覚める気配が無い。人慣れしているのか、熟睡のあまり気が付かないのか。後者ならかなりの大物だ。
男はバイクに手を伸ばす。触れる寸前、またトキが手に力を込めた気がした。
「……っ」
それに指が届いた瞬間ぴりりとした痛みを感じた、ような気がした。それはほんの一瞬で、直後男は頭の内側を金属バットで殴られたような衝撃を覚える。
「ポチ?」
遠くで声が聞こえたが返事などできなかった。これを、このバイクを何処かで俺は?
誰の物かもわからない(仮に自分の物だとしてもわからない)バイクの、座席に触れた指先が震える。この感覚を知っている、漠然と男は思う。知っているのに思い出せないのだ。考えれば考えるほどわからない。
(畜生、)
心の中で精一杯の悪態を吐いた。胸が苦しい、と彼は思う。頭が痛い、息苦しさも増している。身体が重くて自分のものじゃ無いみたいだ。
「――ポチ!」
切羽詰まったような声が聞こえて、同時に無理矢理指を引き剥がされた。その声の主が隣の子供だということに気が付くまで時間が掛かる。驚いて目を瞬いた男の視界一杯に、泣きそうな顔が映り込んだ。
え、なに、何で? 不意を突かれて動揺する男に、震えを押さえたような細い声がかけられる。
「アンタ、疲れてるんだよ。ちょっと、休憩しよ……ね、ポチ」
公園があるから。そういって歩きだした子供に再び手を引かれ、男はその場を後にした。
「トキ……?」
どうしてしまったんだろうか、とそれだけを思う。真実を知る瞬間が近付いていることに、その時まだ彼は気が付いていなかった。




