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「ん」
「…………何これ。どゆこと」
差し出された掌をみて男は絶句する。念願叶って外へ出ることになった、その第一歩を踏みだそうかという時だった。アパートの薄い扉を前に思わず彼は視線を泳がせる。トキは真直ぐ手を伸ばしたまま、丸い瞳でじっと男を見つめていた。
この子供の言いたいことはわかる。わかるが、なぜ。
「……手を繋ぐ必要が、どこにあるんデスカ」
俺、もう良い大人なんだけど。言いながら彼の背を嫌な汗が伝う。
いくら記憶喪失という爆弾を抱えていても、手を引いてもらう必要などないはずだ。断じてないはずだ。トキが同伴するという時点で迷うことはありえないし、現段階で男の帰る家はここだけなのだから、逃げ出すのではと心配される必要もない。
「いやいや、これは無いんじゃないかな」
リードの代わりと言う意味だろうか。本気で悩んで悲しくなっている男の手を、待つのに飽きたのだろう、トキは無理矢理握った。
「絶対おかしいってこれ」
絵的にさ。と懸命に説明しても相手の子供は何処吹く風、「仲の良いきょーだいに見えるかもしれないじゃん」などと飄々と言い放つ。少女誘拐の犯人の間違いではないだろうか。想像して男は青くなった。
「良いから繋ぐの。繋がなきゃ、行かない」
ついにトキが不機嫌に顔を歪めた。頑固者め、心中で舌打ちしたのち、とうとう男は諦める。
トキは淋しい子供だ。そしてきっと、うまく甘えられない子供なのだ。そう考えればこの行動も可愛く思えてくる。どうせこの家の“法律”に逆らっても彼にメリットはないのだから、珍しい体験ができると思って妥協することにした。
「……ホントに外、行きたいの?」
この後に及んで乗り気でない様子のトキに男は曖昧に笑う。この子は何故、こうも外の世界を嫌うのだろう。
「ポチは何にも覚えてないんだ。この家を出てもわからないものが増えるだけなのに」
「そうかもな」
「外を歩いて、自分のことを知ってる相手が運良く見つかると思ってんの? 警察行くにしたって、一人暮らしの子供の家にいます、なんて言えないくせに」
「な……っ」
こいつ、わかってやがったのか。男は思わず舌打ちしそうになる。彼が世話になっているのは子供、親は別居、おまけに女子中学生だ。言葉だけ並べれば犯罪の臭いがぷんぷんする。
警察はまずい、それは彼の中で一つの答えとして導きだされようとしていたことだった。トキはそこをピンポイントで抉ってくる。ハァ、彼は小さく溜息を吐いた。
「そんなに外は嫌か……」
「……別に」
「まァ聞け」
男は子供の頭をぽんぽんと撫でた。トキがくすぐったそうに身を捩る。
「どうも俺な、全部を忘れてるわけじゃないらしい。自分の酒癖は覚えてたし、歳もわかる。お前が読んでた教科書、アレにだって見覚えがあった」
些細なきっかけで思い出せるかもしれないんだ、と彼はトキに言い聞かせる。
「外に出ることはきっと俺にとってプラスになる――頼むよ、トキ」
「……しょーがないなァ」
行くよ、ポチ。言いながらきゅっと握られた手はお互いひんやりとしていた。そういえば自分は平熱が低かった、それを思い出して彼は笑う。ほら、また一つ思い出したじゃないか。
(役に立たねーけど)
トキも体温は低いほうらしい。子供は温かいというイメージを持っていた彼にはそれが意外だった。
トキの空いているほうの小さな手が扉を開いて、閉鎖された世界は外と一つになる。何処か硬い表情を浮かべた子供の横顔を、男は前に見たことがある気がした。




