4
(みはる? ミハルって)
……誰だよ。小さく呟いて首を横に振る。わかるわけがない。
教科書に書かれたその名前を見つけて以来、男の脳内にはエンドレスでその問いが回っていた。トキトウミハル、はあの教科書の持ち主に違いない。名前の響きからして、おそらくは。
(……女、だよなァ)
トキに姉、もしくは妹でもいるのだろうか。または友達のことか――そこまで考えて、待てよ、と男はひとりごちる。
十三歳。一番最近得たトキの情報がそれだ。トキは中学二年生、あの教科書は、二年の生徒が使用するもの。
(……待て待て待て)
男はその可能性に気が付いて身体を強ばらせた。あの教科書が、トキ本人の持ち物だとしたら? そう考えたほうが自然だ。ただ一つ、彼の見落としていた点を除けば。まさか、あの子供。
「……お、」
女の子!?
叫びだしそうになった口を両手で押さえ付ける。男の中で全てが繋がったような気がした。
本がトキの物ならば、あの子供は名をミハルと言うらしい。カタカナ表記であった為に漢字はわからないが、先刻から述べている通りその響きは女児の名に多いものだった。今の世の中に中性的な名が流行っているからといっても、おそらく間違いはないだろう。
僕、という一人称と俺様全開の毒舌に騙され疑いもしなかったが、考えれば考えるほどそれは真実味を帯びてくる。細い手足、白い肌と丸い瞳。中性的な顔立ちの美少年(に見えていた)、は女顔と言ってしまえばそれまでだ。今や男は自信を持って確信していた。あれは、少女なのだと(女顔? そうとも、女なのだから!)。
だとすれば、トキ、というのは姓の“トキトウ”(字は時任、に違いない)から派生したあだ名と言うことか。何故トキが本名を名乗らなかったのかはわからないが、それが本名を知られたくないという意味ならまずいことをしたと彼は思う。
(薄々感じてはいたが)
……マジかよ。小さく零した声は誰に聞かれることもなく消える。
今更ながら、この状況に男は焦りを感じた。トキの性別が女である、それは常識的に考えて非常にまずい。
いくら事情があるからといって、一人暮らしの年頃の少女(というには些か早いかもしれないが)と赤の他人である成人男性が一つ屋根の下。男にやましい考えはこれっぽっちも無い。無いが、これが世間に露呈したときの事を考えると恐ろしかった。
「何ぼーっとしてんの、ポチ」
「……え、あ、イヤ」
昨日の約束通り出かける支度を整えているトキを見て、男はばれないように溜め息を吐いた。その華奢な体は少年の着るような緩いトレーナーに覆われてはいるものの、よく見れば上半身に男には無い滑らかな凹凸がある。
「何? さっきから人のことジロジロ見て」
「な、んでもねーよ」
「嘘だ。何なの? 言わなきゃヘンタイがいるって警察に突き出す」
お巡りさァァん、ここにヘンタイがいますぅぅ!
次の瞬間、トキは表情を全く変えずに声を張り上げた。言っている本人が無表情とは思えぬほどその声は演技がかっていて、近所の人間が聞けば誤解を招きそうだ。まずいな、と思っていたところにこの仕打ち。勘弁してほしい。
言う、言からやめろ! 叫慌てて叫んで制止する男を見て、トキは満足そうに口を閉じる。
「で?」
「……お前さ、」
ミハルって名前なの?
言った瞬間、しまった、と男は思った。トキの表情がみるみるうちに凍り付いて、さっと影が過ったからだ。
「……なんで」
何で知ってるの。硬い声で問われたので慌てて教科書のことを説明する。彼がざっと話終えた後には不思議と、子供の表情は幾分か和らいでいた。
「……そ。良いんだ、僕はトキだよ」
違う名前で呼ばれても、僕って気がしないんだよね。そう言って笑った子供が最後、良かった、と小さく呟いたのを男は聞いていた。何が良いのかは、全くわからなかった。




