14
夢を見ているのかと思った。
そうでないとわかるのは、視界に何も映らないからである。男の目の前は真っ暗で、その瞳は何の像も結んではいなかった。つまり、瞼が降りているのだ。
ねぇポチ。呼び掛けてくるあの子供の、声だけが聞こえる。
「僕、嘘を吐いてたんだ」
男の意識がはっきりしていないせいか、言葉の語尾がぼやけていた。トキの声は子守歌だ。眠い、と思う。
「ポチには帰る場所があるんだよ。今ならまだ、間に合う」
一定時間以上身体から魂が離れると、戻れなくなっちゃうんだ。本当に死んじゃうんだよ。
(意味わかんねぇよ、トキ)
思考脳力の低下した頭では、何も考えることができなかった。ただ子供の声が心地良い。羊水に漂う水母のように、彼の意識はぷかぷかと揺れていた。
「幽体離脱、ってやつだよポチ」
(何が?)
「ポチ、聞こえてる?」
(きーてるよ、)
ゆっくり瞼を持ち上げた。渾身の力を込めた男の視線の先、茶色い小さな頭が見える。やっぱりそこにいたのか、思っても声までは出なかった。
「ホントは、ずっと一緒にいれたらって思ったけど」
ねぇ、アンタは、生きる人。穏やかな声と共に男の頬を小さな掌が撫でた。冷たいのは彼だろうか、それともトキだろうか。
「お別れだね、ポチ」
すっかり力の抜け切ってしまった身体を奮い起こそうとして失敗した。切なげに歪められた表情に、手を伸ばすことも出来ない。
生きるんだよ、ポチ。僕は、それを――。
視界の端の方から靄のようなものが侵食してくる。酷く眠い。眠ってなるものかと捻り出した彼の声は、ほとんど擦れて聞こえなかった。目蓋が重い。全てが曖昧に揺らいでゆく。
名前を、呼びたい。
「さよなら、ポチ」
「……トキ」
「…………さよなら、」
さよなら 、 ぷー太 。
* * * * *
ひゅう、
ひゅう、
ひゅう。
風が強い。吹き荒れながら、冬の寒さを残したまま、それでも春の訪れを知らせる為にやってくる。
通い慣れた中学からの帰り道だった。
黒い指定鞄は半分口が開いていてかぱかぱと開閉を繰り返す。学ランの裾は擦り切れていたが、気にすることなどなかった。この年頃の子供など皆そうだ。
少年はいつも通りの家路の途中、ふと視線をやった先に目を奪われた。そこには年老いた男がオーナーを勤める薬局があるのだが、古い灰色の壁に亀裂が走っていたのである。
前々から小さな傷があるのは知っていた。それが何時の間に、こんな大きな裂け目になったのだろう?
少年は興味津々で近づくと、それをそっと指でなぞってみた。存外に深い。もっと奥に指を入れて見ようとして、風が吹いたのはその時。
( ぷー太 )
誰かに呼ばれたような気がした。風の音に交じって、微かに。
ひゅう、ひゅう。
春一番の吹き抜ける中、聞こえたそれは単なる耳鳴りだったのだろうか。
( ぷー太 )
ひゅう、
( ぷー太に、 )
ひゅう、
( もう、会えないんだ )
ごおぉぉぉ。
突風は木々の葉や塵と共にその音を巻き上げて消えた。後にはぽつり、少年が一人残される。
気のせいかな、と彼は思った。
首を傾げても、もう何も聞こえない。
( 君のことが、好きだった )




