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知っている。
直観的にそう思った。トキの母親は灰色の壁と花壇をバックに立っていて、その壁には『く』の字型の亀裂が入っている。男はそれを、よく知っている気がした。
(何処だ?)
見ていたのだ、ほぼ毎日。乾燥に耐え切れず生まれたその亀裂に指を這わせ、なぞった記憶もある。
「トキ、これ何処だ?」
「お母さんがお仕事してた場所だよ。……どこにあるのかは、知らない」
撮影したのは母親の仕事仲間であったという。母の写真が欲しいとせがんだ子供の為に、忙しい合間を縫って一枚だけ。
「お母さんの仕事、見に行ったことないんだ。いつも働いてたから……邪魔になるし」
「母親の仕事って?」
「お母さん、薬剤師だったよ」
トキの答えに男は腕を組んだ。薬剤師ならばその仕事場は病院か調剤薬局、ドラッグストアぐらいだろう。そこに行けばあるいは、この子供の母親の行方は掴めるのではないか。
(何処だった? 思い出せ、俺)
全てを失ったわけじゃない。断片的に覚えているものもある。教科書であったりバイクであったり、自分の酒癖の悪さだとか。それは男の“記憶喪失”が世間一般のものとは違い、身体から魂が引き離されたことによって起こったものだからなのだろう。
ずきり、鈍い痛みに顔をしかめる。最近この頭痛は酷くなる一方で、時には起き上がるのさえ辛かった。一番症状が顕著になるのは今のように、何かを思い出そうとする瞬間である。
「ポチ、やめて」
考え続けろと念じた、心の声が子供に聞こえたらしかった。真剣な顔で制止をかけられるが、こればかりは聞く耳をもてない。だって思い出せば、トキは母親に会える。
「何考えてんの馬鹿、頭痛いんでしょ」
「うるせー黙ってろ。俺ぜってぇ、この場所知ってっから……」
「良いよそんなの!」
必死の形相のトキを不思議に思って首を傾げれば、子供はキッとこちらを睨み付ける。余計なことはするな、という意味だろうか。そんなの知るかと男は無視を決め込む、その時だった。
「だって僕、見つけても、もう会えないんだ……!!」
細い声が男の鼓膜を揺さ振った。もう会えないんだ。頭に響く。もう、
『もう、会えないんだ』
あ、と思った。瞬間何かが洪水のように頭に流れ込んでくる。目まぐるしく回転して有りもしない脳を揺さ振る、一瞬でそれは何だかわからない。
それでも男は思い出した。もう会えないんだと、遠い昔彼に告げた人がいる。毎日通った学校からの帰り道、あの古ぼけた薬局の壁に指を這わせていた自分に。
風のもたらした幻聴だと思っていた。
それが“さよなら”なのだと、知らなかった。
「トキ! わかったぞ!」
手を叩いて声を上げる。今男の脳裏には一つ、古びた建物が浮かんでいた。あれは確か薬局だ。何処にあったのかはわからないけれど、周りの景色は思い出せる。きっと、彼が昔暮らしていた家の近く。
あそこに、辿り着ければ。
「行くぞ、トキ!」
今すぐ、に。
言い掛けた男の身体に異変が起こったのはその瞬間だった。
がくん。突如膝から崩れ落ちて目を見開く。何とか横倒しになるのは堪えて、四肢の力が入らないのに愕然とした。視界が端から黒く侵食されてゆく。声が、出ない。
(何だ?)
「ポチ……ッ!」
遠くのほうであの子供の、切羽詰まった声が聞こえた。泣くなよ、と思う。思っただけだ。もう自分がどんな体勢かも、彼にはわからない。
「もう、時間がないんだ……」
男に駆け寄って膝を付く、トキの声は震えている。何とかそれが伝わってくるだけで、言葉の意味は理解できなかった。
「限界だね、ポチ……終わりにしよう」
何をだ。思ったところで男の意識は、完全に沈む。




