海神の試し
指が鳴った。
乾いた音が謁見の間に響いた——と思った瞬間、世界が裏返った。
珊瑚の天井が消え、翡翠の床が消え、海水の壁が消えた。代わりに叩きつけてきたのは、暴風と、海水と、雷鳴だった。
嵐の海だ。
アシュタルは膝をついていた。岩の上だ。ごつごつした黒い岩礁が足元に広がり、波飛沫が容赦なく全身を打つ。塩辛い水が口に入った。目を開けようとすると風が瞼を押し返してくる。耳元で風が唸り、遠くで——いや、すぐ近くで雷が炸裂した。空が白く光り、一瞬だけ周囲が見えた。
海。どこまでも海だ。黒い波が山のようにうねり、白い飛沫が風に千切れて横殴りに飛んでくる。空は分厚い雲に覆われ、昼なのか夜なのかも分からない。岩礁は直径十歩ほどの小さな島で、その周りを波が殴りつけている。
隣にアナトがいた。赤い髪が暴風に煽られ、金色の目が嵐の暗闇の中で燃えるように光っている。剣の柄に手をかけていたが、斬る相手がいない。嵐は斬れない。
「——ヤム!」
アナトが叫んだ。声は風に攫われ、半分も聞こえなかった。だが怒りの調子だけは風を突き破って伝わってきた。
笑い声が返ってきた。
嵐の中から——海の底から——空の上から——全方位から同時に響く声。ヤムの声だ。宮殿で聞いた時より、ずっと大きい。ここはヤムの領域だ。海そのものが彼の声帯だった。
「そう殺気立つな、戦女神。これは殺し合いじゃない。試しだ」
アナトの腕の紋様が赤く発光しかけた。神力が反応している。だがヤムの声が続いた。
「手を出すなよ、アナト。これは人間の試しだ。お前が剣を抜いた瞬間、この海域の通行権は永久に失われる。——分かるだろう?」
アナトの手が止まった。紋様の光が、怒りに脈打つように明滅している。だが剣は抜かなかった。歯を食いしばり、唇の端から低い呻きが漏れた。
「……商人。聞いたな」
聞いた。聞きたくなかったが、聞いた。
アシュタルは岩に両手をつき、風に押し戻されながら立ち上がった。膝が笑っている。寒さと恐怖の区別がつかない。商人の服はびしょ濡れで、帳面の入った腰袋だけが辛うじて布に包まれて濡れを免れている。
「聞きました」
嵐に向かって叫んだ。喉が痛い。
「ちゃんと聞こえませんでしたけど、たぶん『俺の試しに合格しろ、さもなくば通行権はやらん』みたいな話でしょう」
ヤムの笑い声が返った。嵐の音に混じって、面白がっている響きがあった。
「度胸はあるな」
雷が落ちた。近い。岩礁の端が砕けた。破片が飛び、アシュタルの頬をかすめた。熱い——いや、冷たい。海水と血の区別がつかない。
「あそこを見ろ」
ヤムの声と同時に、稲光が走った。
白い光の中に、船が見えた。
嵐の海を漂う一隻の商船だった。帆が引き裂かれ、マストが傾き、船体が波に翻弄されている。横波を受けるたびに大きく傾き、甲板から海水が溢れ出していた。船上に人影が見える。二つ、三つ——五つ。乗組員が必死にロープにしがみついている。
沈む。
商人の目で見て分かった。あの傾き方は復元力を超えている。次の大波で——あるいはその次で——船は転覆する。
「積荷と乗組員。どちらを取る」
ヤムの声が嵐を切り裂いた。
「積荷を海に捨てれば船は軽くなる。浮力が回復し、乗組員は助かる。だが積荷は沈む。——逆に、乗組員を先に岩礁に引き上げれば命は助かるが、無人の船は次の波で沈む。積荷ごとな」
間を置いて、ヤムの声が続いた。
「両方は無理だ。時間がない。——さあ、商人。お前は何を選ぶ」
アナトが動いた。一歩前に出て、嵐の海を見つめた。
「私が船に飛べば両方救える」
「手を出すなと言っただろう、戦女神」
ヤムの声に、初めて凄みが混じった。海が応えるように大波が岩礁を叩き、膝下まで海水が押し寄せた。
「この人間の試しだ。お前の力で解決するなら、お前の通行権だ。この商人のものにはならない」
アナトの拳が白くなるほど握り締められた。金色の目がアシュタルを見た。そこにあったのは——苛立ちと、それから、もっと別の何か。信じていいのか分からないものを信じようとする時の、あの不安定な光。
「……」
アシュタルは嵐の海を見た。
船が傾いている。時間がない。
積荷か、命か。
商人にとって、積荷は金だ。金は命の次に大事だ。いや、商人によっては命より大事かもしれない。父はそうではなかった。「金は稼ぎ直せる。人は稼ぎ直せない」と言っていた。だから答えは命だ。命を選ぶ。
——本当に?
それは正解なのか。ヤムが求めているのは、そういう答えなのか。「命を選ぶ」が正解なら、試しにならない。誰だってそう答える。
ヤムは商取引の論理を理解する神だ。さっき謁見の間で、アシュタルの提案に耳を傾けた。「略奪より商売」の論理を検討した。数字を見て考え込んだ。そのヤムが出す試しの答えが、「命を選ぶ」という単純な道徳論であるはずがない。
考えろ。
二択を突きつけられた時、三つ目の選択肢を探すのが商人だ。
船がさらに傾いた。乗組員の叫び声が風の中に混じった。遠い声だ。嵐にかき消されて言葉にならない。だが悲鳴の色は分かる。死を目の前にした人間の声は、言語を超えて伝わる。
大波が岩礁を越えた。腰まで海水に浸かった。冷たい。骨まで冷たい。歯が鳴る。指先の感覚が薄れかけている。足が滑った。岩の表面が海藻で滑る。膝を打った。痛い。
時間がない。
目を閉じた。
嵐を閉め出した。塩辛い飛沫が顔を叩く。風が耳を塞ぐ。雷が空を割く。全部遠くなれ。今は考える時間だ。
父の声が聞こえた気がした。
「考えるな、計算しろ」。
商談が行き詰まった時、父はいつもそう言った。感情で考えるな。数字で計算しろ。損得を並べろ。並べた瞬間に、見えていなかった隙間が見える。
積荷。価値がある。金になる。だが金は数字だ。数字には——記録がある。
乗組員。命がある。命は数字にならない。命には——替えがない。
では、替えがある方を手放し、替えがない方を残す。それが合理だ。
だが手放した方を——完全に失わない方法はないか。
記録。数字。価格。損害。復元。——復元?
帳面。
目が開いた。
「ヤム様!」
嵐に向かって叫んだ。
「一つお伺いしてもよろしいですか!」
風が一瞬だけ弱まった。ヤムの声が返る。
「何だ」
船が傾いている。次の大波が来る。
アシュタルは嵐の中で、唇の端を持ち上げた。商人の顔だ。取引の突破口を見つけた時の、あの顔。
だが言葉は、次の波にかき消された。




