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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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商人の切り札

 帳面を開いた。


 ヤムの碧い目が帳面に向いた。渦潮の瞳が、インクの染みだらけの紙面を映した。神が人間の帳面を見つめている。奇妙な光景だった。だがアシュタルにとって、帳面は剣と同じだ。商人が戦場に持ち込む、唯一の武器。


「まず、現状を整理させてください」


 声は震えていた。だが言葉の選び方は震えていなかった。ここからは商談だ。商談の席についたら、恐怖は経費として計上し、頭は別の仕事をする。


「あなたはこの海域を支配しています。通過する者には関税を課し、払えない者は沈める。結果——」


 帳面のページを示した。


「この海域を通る船は、過去十年で九割減っています」


 港町で集めた数字だった。古老の証言、船乗りたちの記録、港の帳簿から拾い上げた交易量の推移。全て帳面に書いてある。


「かつてバアル——嵐の神が健在だった時代、この海域は主要な交易路でした。年間三百隻以上の船が通過し、沿岸の港町は潤っていた。あなたも『関税』という形で、その恩恵を受けていたはずです」


 ヤムの眉が動いた。バアルの名前が出た時、渦潮の回転が微かに乱れた。だがアシュタルは構わず続けた。


「バアルが消えてからあなたが海域を完全支配し、関税を厳格化した。結果、船が来なくなった。誰もあなたの海を通らない。通らないから関税を取る相手がいない。恐怖で全てを追い払った結果——あなたの海域は静かですが、からです」


 ヤムの指が肘掛けを叩くのを再開した。だがリズムが変わっていた。先ほどまでの余裕のある波のリズムではなく、苛立ちを含んだ不規則な打音だった。


「つまり——収奪しているようで、実は何も得ていない。それが現状です」


 沈黙。


 ヤムは答えなかった。答えないことが、図星だと告げていた。商人は沈黙を読む。否定の言葉が来ないということは、相手が反論を組み立てられていないということだ。


「ここからが提案です」


 帳面の次のページを開いた。


「あなたの海域を、正式な交易路として各港町に認めさせます」


 ヤムの目が細くなった。


「現在、船はあなたの海域を避けて遠回りしています。遠回りは時間と費用がかかる。もしあなたの海域を安全に通過できるなら、商人は喜んでこの航路を使います。近い。速い。商人にとってはそれだけで価値がある」


 帳面の数字を指で示した。


「遠回りの航路と直行の航路の費用差。一隻あたりの節約額。年間の通過隻数を仮に百隻として——」


 アシュタルは数字を読み上げた。港町の帳簿から計算した、具体的な金額と日数と物量。商人の武器だ。抽象論ではなく、数字で語る。


「——この通行料を各船から徴収すれば、あなたには継続的な利益が入ります。一隻を沈めて全てを奪うより、百隻から少しずつ通行料を取る方が儲かる」


 略奪より商売。


 一回限りの収奪より、継続的な利益。


「船を沈めれば、その船の積荷は手に入ります。ですが次から船が来なくなる。通行料なら、船は何度でも来る。来るたびに払う。あなたの海域を通ることが、恐怖ではなく《《習慣》》になれば——海域の価値は比較にならないほど上がります」


 帳面を閉じた。


 言い切った。


 謁見の間に沈黙が降りた。天井の海水がゆっくりと流れている。真珠の壁が静かに光っている。


 ヤムは玉座に深く腰を掛けたまま、動かなかった。


 指が肘掛けを叩くのを止めていた。


 考えている。


 商人は、相手が考えている時に口を挟まない。沈黙は圧力ではない。検討だ。検討中の相手に追加の言葉を投げれば、思考を邪魔する。黙って待つ。これも商人の作法だ。


 長い沈黙だった。


 アナトが後ろで微かに身じろぎした。戦闘の間合いを取り直している気配がした。だが剣は抜かない。アシュタルが「まだです」と言ったのを、まだ守っている。


 ヤムが口を開いた。


「……悪くない」


 低い声だった。先ほどの怒りの残滓はあったが、別の色が混じっていた。吟味の色だ。


「筋は通っている。確かに——船が来なくなってからこっち、退屈で死にそうだったのは事実だ」


 退屈。


 あの古老が語っていた「バアルが消えてからヤムが海域を完全支配した」という話。ヤムにとって、それは勝利だったはずだ。邪魔者がいなくなり、海域を独占できた。だが独占した海に、誰も来なくなった。支配する相手がいない支配は、空虚だ。


 ヤムはそれを、「退屈」と表現した。


「だが——」


 ヤムの碧い目が鋭くなった。


「口だけなら何とでも言える。人間の約束など海の泡だ。お前が港町に戻って『ヤムの海域は安全です』と触れ回ったところで、誰が信じる。海神を恐れて十年も遠回りしてきた人間が、商人の小僧の一言で航路を変えるものか」


 正しい指摘だった。


 信用の問題。商人の世界でも同じだ。取引の約束は、履行できる裏付けがなければ紙切れ以下の価値しかない。アシュタルが提案する交易路の正式化は、港町の商人たちがヤムの海域を信頼しない限り実現しない。


 だが——ヤムは提案を完全に否定しなかった。


 「口だけなら何とでも言える」は否定ではない。「証明してみろ」だ。商人の耳には、そう聞こえた。


「おっしゃる通りです」


 アシュタルは頷いた。


「口だけでは信用されません。だからこそ——実績が必要です。最初の一隻を通すこと。それが証明になります」


 ヤムの眉が上がった。


「面白い提案だ」


 渦潮の瞳の中に、先ほどとは違う光が浮かんでいた。怒りでも嗜虐でもない。好奇だった。値踏みの好奇。


「だが——口だけの商人なら、この海に腐るほど沈んでいる」


 ヤムが玉座から身を乗り出した。


「実力を見せてもらおう」


 その一言の重さは、海水の壁よりも重かった。


 試される。


 提案は通った。論理は刺さった。だが信用がまだ足りない。ヤムは商人の提案に興味を持ったが、商人の実力をまだ信じていない。当然だ。信頼は取引の回数で積み上がるものであり、一度の商談で完成するものではない。


 アシュタルは帳面を懐にしまった。


 膝はまだ震えていた。掌の汗が帳面を湿らせていた。心臓が肋骨を叩いている。


 だが——生きている。


 海の神の前で「略奪だ」と言い放ち、対案を提示し、数字で説得し、まだ生きている。沈められていない。珊瑚の壁にはひび割れが走っているが、自分の体にひびは入っていない。


 ヤムの碧い目を見た。渦潮が回っている。その回転の中に、ほんの微かな——退屈に飽いた者が面白いものを見つけた時の、あの輝きがあった。


「お申し付けください」


 アシュタルは商人の礼を取った。右手を胸に当て、頭を下げた。


「商人は、口だけでなく実績でお応えします」


 ヤムが鼻を鳴らした。


「威勢だけは買ってやる」


 侮辱ではなかった。少なくとも、完全な侮辱ではなかった。「威勢だけは」の中に、一欠片の——本当に微かな——評価が混じっている。商人の耳は、そういう機微を拾う。


 試しが来る。


 何を求められるのかはまだ分からない。だが商談の席は維持できた。追い出されてもいないし、沈められてもいない。交渉は続いている。


 帳面の角を指で撫でた。


 ここまでは——商人の仕事だ。


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