帳簿の裏
家族が寝静まった深夜、アシュタルは書庫に忍び込んだ。
タグム家の書庫は屋敷の奥まった一角にある。壁一面の棚に帳簿が年代順に並び、床には古い麻袋に入った書類の束が積まれている。祖父の代から三世代分の商取引の記録。ベン=シャハル商会の歴史そのものだった。
松明を立て、棚の上段に手を伸ばした。父の帳簿は中段にある。アシュタルが探しているのはその上——祖父ベン=シャハルの代の記録だった。
埃が降ってきた。咳を噛み殺しながら、古い帳簿を一冊ずつ引き出す。羊皮紙を縫い合わせた帳面。インクが褪せ、端が虫に食われている。だが商人の記録としては丁寧な筆跡だった。祖父は几帳面な人だったらしい。会ったことはない。アシュタルが生まれる前に亡くなっている。
最初の数冊は通常の商取引の記録だった。穀物の仕入れ、布地の輸出、銅の延べ棒の取引。数字と品名と相手先の名前が淡々と並んでいる。商人の帳簿は退屈だ。だがその退屈さの中にこそ、真実が隠れている。異常を見つけるには、まず「正常」を知らなければならない。祖父の正常な取引の流れを頭に入れてから、異常を探す。
二冊目の途中で、穀物の仕入れ先が突然変わっている箇所があった。記憶に留める。三冊目では銅の延べ棒の取引量が急増し、翌月に急減している。投機的な動きだ。祖父も相場を張ることがあったのか。どの帳簿にも、商人の息遣いが残っていた。数字の羅列に見えて、実は一人の人間の判断の軌跡だった。
四冊目で、手が止まった。
帳簿の合間に、不自然な空白がある。三ヶ月分の記録が丸ごと抜けていた。商売をしていなかった? そんなはずはない。港湾商人が三ヶ月も商売を止めたら破産する。
空白の前後を読んだ。空白の直前——「神殿への特別な奉納、銀二百シェケル」。通常の奉納ではない。金額が桁違いだった。空白の直後——帳簿は何事もなかったように日常の取引記録に戻っている。だが字体が変わっていた。空白の前より、筆圧が弱い。
次の帳簿に進んだ。五冊目、六冊目。通常の記録が続く。七冊目を開いた瞬間、紙片が滑り落ちた。
帳簿の裏表紙に挟まれていた。薄い羊皮紙の切れ端。折り畳まれ、端が焼け焦げている。意図的に隠されていた。
広げると、祖父の筆跡があった。だが帳簿の几帳面な書き方とは違う。急いで書いたのか、あるいは——手が震えていたのか。文字が所々歪んでいた。インクの濃さも不均一で、何度か筆を止めた形跡がある。書くことを迷いながら、それでも書き残すことを選んだ。商人の血がそうさせたのだろう。
——血の誓約。バアル神殿の奥殿にて。
アシュタルの指先が冷たくなった。
——我が一族ベン=シャハルは、嵐神バアルの庇護の下、繁栄を約束される。代価として、世代ごとに血の奉納を行う。奉納の形は、印を持つ者の身体を通じて。
「印を持つ者」。アシュタルは右手首の布を見た。銀色の円環紋様が、布の下で微かに脈打っている。
——奉納は命を差し出すものにあらず。生命の一部を、バアルの力の循環に組み込むもの。その対価として一族は豊穣と航海の安全を享受する。
命ではない。生命の「一部」。それが何を意味するのか、祖父の記録は具体的に書いていなかった。だが「捧げものは死への供物にあらず」という粘土板の断片と符合する。
紙片の後半に進んだ。
——この契約はバアル神の存在を前提とする。バアルが不在となれば、奉納は宙に浮き、印を持つ者に負荷が蓄積する。定期的な奉納が行われねば、印は暴走し、持ち主の感覚を蝕む。
アシュタルは紙片を握る手が震えるのを感じた。松明の炎が揺れ、文字の上を影が走った。
ここに書いてあった。全て。答えは神殿の奥にも、粘土板の欠片にもなかった。自分の家の帳簿の裏に、ずっと眠っていた。
バアルがいなくなったから、奉納が届かなくなった。届かない奉納が印に蓄積し、ヤリムや一族の感覚を奪っている。モトの呪いだと思っていたものは——正確には、途絶えた契約の「延滞」だった。
「忘れられた契約ほど、取り立てが厳しいものはない」
声に出して呟いた。商人の格言だ。父がよく口にしていた。まさか自分の一族に当てはまるとは。商人が最も恐れるのは、帳簿に記載されなかった負債だ。帳面の外にある借りは利息を無限に膨らませる。それと同じことが、この一族に起きていた。
祖父は知っていた。この契約のことを。そしておそらく、定期的に奉納を行っていた。帳簿の「神殿への特別な奉納、銀二百シェケル」——あれが奉納の記録だったのだ。そしてその後の三ヶ月の空白。あれは奉納の儀式に費やされた期間だったのかもしれない。
だが父の代で——何らかの理由で途絶えた。祖父が父に伝えなかったのか。伝えたが父が忘れたのか。あるいは伝えられなかったのか。祖父が死んだのはアシュタルが生まれる前だ。急病だったと聞いている。伝える間もなく逝ったのだとしたら——帳簿の裏に挟んだこの紙片が、唯一の伝言だった。見つけてもらうことを祈って。
紙片の最後に、もう一行だけ書かれていた。
——この契約に立ち会いし証人。
その下に名前があった。
だが読めなかった。ウガリットの楔形文字ではない。もっと古い文字。見たことのない書体だった。角張った線と円弧の組み合わせ。人間の文字ではない可能性すらある。祖父はこの文字を読めたのだろうか。読めないまま、ただ書き写したのかもしれない。立ち会った証人がこの文字を書き、祖父はそれをそのまま記録した——商人の本能として、記録だけは残したのだ。
アシュタルは紙片を丁寧に折り畳み、懐に入れた。
帳簿を元の位置に戻す。埃の乱れを手で均した。誰かが来た痕跡を残すわけにはいかない。父に見つかれば面倒なことになる。
書庫を出て、自分の部屋に戻った。
机の上に紙片を広げ、松明の光で改めて読み直す。祖父の震える筆跡。「血の誓約」。バアルとの契約。印の意味。奉納の途絶え。
全てが繋がった。
ヤリムの味覚喪失は、モトの呪いではなかった。バアルとの古い契約が破綻した結果だった。奉納が届かなくなり、印が暴走し、感覚を蝕んでいる。つまり——モトの使者が提示した「治療」は、根本的な解決ではない。症状を一時的に抑えているだけだ。
そしてもう一つ。契約の証人。読めない文字で書かれた名前。人間ではない者が、この契約に立ち会っていた。
あの名前を読める者が一人いる。
神の文字を読める者。
アシュタルは窓の外を見た。夜明けが近かった。東の空が微かに白んでいる。
紙片を帳簿袋にしまい、袋の紐をきつく結んだ。明日——いや、今日だ。アナトにこれを見せる。読めない名前の答えを得る。
そして、契約の全貌を明らかにする。
窓の外が白んでいた。いつの間にか夜が明けかけている。松明が短くなり、炎が小さく揺れている。
アシュタルは目を擦り、立ち上がった。体が強張っていた。一晩中、帳簿と格闘していたことになる。だが疲労は感じなかった。商人が数字の奥に真実を見つけた時の高揚が、体を支えていた。
商人の帳簿が、神々の秘密を暴こうとしていた。




