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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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二つの戦線

 帳面にメモを取りながら、エルの説明の「穴」を探していた。


 商談の第三段階——「欠陥の指摘」。製品の問題点を見つけて交渉材料にする。父に教わった商人の基本技術だ。どんな商品にも欠陥がある。完璧な商品は存在しない。欠陥を見つけた方が交渉で優位に立てる。最高級の絹にもほつれはあるし、最上の香辛料にも虫食いの粒は混じっている。問題は欠陥があることではなく、欠陥を認めるかどうかだ。


 帳面を見返した。架け橋の設計。神の力を制御して人間界に降ろす導管。一族の血に組み込まれた機能。理屈は分かる。だが——設計図が美しくても、現場で不具合が出ることはある。船の設計図が完璧でも、実際に海に出れば嵐で沈むことがある。


「一つ、確認させてください」


 顔を上げた。エルの灰色の瞳を見つめた。


「バアルが不在になった時、導管はどうなりますか」


 エルの手が止まった。茶を口に運ぶ途中の手が、僅かに。ほんの一瞬の停止。だがアシュタルの目はそれを捉えた。


「……神の力が制御されず流れ込む」


「制御弁が壊れた水路のように?」


「そうじゃ。導管である一族の体に、制御されていない神力が直接流れ込む。負荷がかかる」


 帳面に書いた。冷静に。分析的に。感情を交えずに、事実だけを記録する。


 ——設計上のリスク:主要なバアルの不在時、導管に制御不能な神力が流入。


「その負荷が——弟の味覚喪失ですね」


「……そうじゃ」


「父の血も」


「はい」


「祖父の発作も」


「はい」


「一族が代々抱えてきた原因不明の症状——体の不調、感覚の異常、時には命に関わる発作——全てが、導管への過負荷の結果ですね」


 エルは否定しなかった。灰色の瞳が、アシュタルを見ている。穏やかなまま。だが穏やかさの奥に、何か——硬いものがある。岩のような。動かないという意志のような。


「はい」


 一言だった。弁解も補足もない。


 アシュタルは帳面を見つめた。呼吸を整えた。次の質問を組み立てる。ここからが核心だ。欠陥を指摘するだけなら誰でもできる。問題は——その欠陥が故意なのか過失なのかだ。商品に欠陥があった場合、売り手がそれを知っていたかどうかで、交渉の方向性は根本的に変わる。知らなかったなら過失。知っていたなら——詐欺だ。


「バアルが冥界に囚われた時——想定していましたか」


 長い沈黙が落ちた。


 石の家の中に、川の音だけが聞こえている。二本の川が合流する音。穏やかだが、絶え間ない。水は止まらない。時間も止まらない。


 エルが答えた。


「想定していなかった——と言えば嘘になる」


 アシュタルの目が鋭くなった。商人が詐欺を見抜いた時の目だ。


 想定していた。


 バアルが冥界に囚われる可能性を。それによって導管が暴走する可能性を。一族が苦しむ可能性を。


 分かっていた。


 分かっていて——架け橋を作った。


 怒りが込み上げた。喉の奥が熱くなる。帳面を握る手の指が白くなった。筆記具を握る手に力が入りすぎて、木の軸が軋んだ。


 だが。


 深呼吸した。


 商人は怒りで交渉を壊さない。感情は情報だ。自分の感情も、相手の感情も。だが感情に支配されたら、交渉は終わる。感情的になった方が負けだ。市場の喧嘩と同じだ。先に怒鳴った方が、周囲の同情を失う。


 帳面に書いた。


 ——設計上の欠陥:リスクの転嫁。導管のリスクを一族に負わせた設計。バアル不在時の暴走を想定しながら対策を講じなかった。過失ではなく認識の上での放置。


 筆圧が強かった。紙が凹むほどに。だが文字は整然としていた。商人の帳面は、どんな時でも読みやすくなければならない。父がそう教えた。「帳面は後で読み返すものだ。怒っている時の帳面が読めなければ、冷静になった時に情報を失う」。


「一つ確認します」


 声を整えた。震えを押し殺した。


「想定していた。つまり——一族が苦しむ可能性を、分かっていた。分かっていて、架け橋を作った」


 エルの表情は変わらない。穏やかな微笑み。灰色の瞳。


「はい」


 一言。


 謝罪はなかった。弁解もなかった。「仕方がなかった」とも「苦渋の決断だった」とも言わない。ただ「はい」と。事実を認めただけだ。反省の色もない。後悔の色もない。神は——人間的な罪悪感を持たないのか。


 怒りが、もう一段深い場所から湧き上がってきた。だが帳面を見る。文字を見る。記録を見る。記録に集中しろ。感情は後だ。


 まだだ。まだ怒るな。まだ情報が足りない。


 では——なぜそれでも「架け橋」を作ったのか。


 目的は何だ。リスクを承知で一族を導管にした目的。世代交代のためか。バアルかモトに力を継がせるためか。それとも——


「エル殿」


 帳面から顔を上げた。


「架け橋を作った真の目的を、お聞かせください。世代交代のためですか。バアルかモトに、あなたの役割を継がせるために」


 エルが粘土板を手に取った。最も古い板ではない。だが相当に古い。表面の文字は角ばった書体で、読めない言語だった。


「それも——一つの理由ではある」


 曖昧な答えだ。商人の耳は曖昧さを聞き分ける。「一つの理由」は「全ての理由」ではない。


 まだ隠している。


 帳面に書いた。


 ——真の目的:未確定。「世代交代」は部分的な理由。核心は別にある。追及を続ける。


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