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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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情報の刃

 エルがペンダントを手に取った。


 老いた指が、摩耗した銅の表面をなぞる。文字を読んでいるのだ。アシュタルには三分の二が読めなかった文字を、この老人は指先の感触だけで読んでいる。目で見るのではなく、指で読む。粘土板に文字を刻み続けてきた手は、文字の凹凸を肌で感じ取れるのだろう。


 懐かしそうな目だった。いや——遠い記憶を呼び起こすような、時間の奥底に手を伸ばすような目。何千年もの記憶の中から、一つの場面を引き出そうとしているような。灰色の瞳の焦点が、ペンダントの表面ではなく、もっと遠いどこかに合っていた。


「この文字を刻んだのは、私じゃ」


 静かな告白だった。


 声の温度は変わらない。穏やかなまま。茶の感想を述べるような口調で、世界を揺るがす事実を告げた。だがその言葉の重さは、石の家の壁を揺らすほどだった。


 知っていた。推測はしていた。ペンダントの文字と「血の誓約」の書体が一致した時点で、エルの関与を疑っていた。だが確定した瞬間の衝撃は、推測とは別物だった。推測は頭の中にある。確定は——胸に落ちる。


「……あなたが」


「三百年前、一人の商人がここに来た」


 エルがペンダントをテーブルに戻した。銅が石に触れる乾いた音。視線はアシュタルに向いている。灰色の瞳が——記録者の目になっていた。事実を述べる目。感情を交えない、記録を読み上げる目。


「名をタグム・ウガリと言った。お前の一族の——始祖じゃ」


 心臓が跳ねた。タグム・ウガリ。一族最古の帳簿「血の誓約」に名が残る人物。アシュタルの祖先。その名前を、創造神の口から聞いている。三百年の時間を超えて、祖先の名前がここに響いている。


「彼は取引を持ちかけた」


 エルの声が、記録を読み上げるように淡々と続く。感情がない。良いとも悪いとも言わない。ただ——起きたことを述べている。


「『神と人間の間を繋ぐ役割を、我が一族が担いたい』と。面白い提案じゃった。人間の側から繋がりを求めてくる者は珍しかったのでな。大抵の人間は神に恵みを乞うか、怒りを鎮めてくれと頼むか、どちらかじゃ。繋がりを——対等な関係を——求めてきた者は、あの男が初めてじゃった」


 帳面に書き留めた。手が震えていたが、筆記具を握る指に力を込めた。商人は記録を怠らない。どんな時でも。心臓がどれほど早く打っていても。


 ——タグム・ウガリ。三百年前。エルに「繋がり」を持ちかけた。


「取引の結果、契約が結ばれた」


 エルが続ける。


「一族の血を『架けかけはし』にする契約じゃ。代々、お前の一族の血には神と人間の世界を繋ぐ『導管どうかん』としての機能が宿ることになった。タグムの血に——そしてその子孫の全ての血に」


 エルの指がペンダントの表面を一度だけ叩いた。乾いた音。


「これが——お前の手首にある印の起源じゃ」


 右手首に巻いた布の下が、微かに熱を持った気がした。印が反応している。創造神の——印を刻んだ張本人の前で。


「捧げものの印は——あなたが刻んだ」


「正確には、タグムの血に刻んだ。以降、一族の全員に印が受け継がれる設計にした。血が受け継がれる限り、印もまた受け継がれる」


 設計。その言葉に引っかかった。だが今は流す。


「代償として——一族は常に神の力の影響を受ける体質になった。神の力が安定している時は問題ない。じゃが不安定になれば——」


「体に症状が出る」


 アシュタルが言葉を引き取った。声が硬い。自分でも分かるほどに。


 弟の味覚喪失。父の血。一族が代々抱えてきた原因不明の症状。体の不調、感覚の異常、時には命に関わる発作。全てが——ここに繋がっている。三百年前の、この石の家で結ばれた契約に。


「はい」


 エルが頷いた。淡々と。感情を交えずに。事実を述べているだけだ、という顔で。良いとも悪いとも言わない。ただ「はい」と。


 手の震えを止めた。深呼吸した。帳面に書いた。


 ——捧げものの印の起源:エルとタグム・ウガリの契約。三百年前。一族は「架け橋」としての導管機能を血に刻まれた。代償として神力の影響を受ける体質に。


 ここまで追いかけてきた謎の、最後の一片がここにあった。誰が印を刻んだのか。答えはエルだ。そしてもう一つ——一族の始祖が、自ら望んでこの老人と取引をしたのだ。騙されたのでも、強制されたのでもなく。


 祖父の祖父が、この老人と取引をした。


 一族の運命は、ここで決まった。


 だが——まだ終わりではない。答えが出たなら、次の問いがある。商人は一つの答えで満足しない。答えの先にある問いを追う。


「なぜ『架け橋』が必要だったのですか」


 帳面から顔を上げた。エルの灰色の瞳を真っ直ぐに見た。


「エル殿。あなたは何を目的に、一族をそう設計したのですか」


 エルが微笑んだ。穏やかな、底の見えない笑みだった。


「茶を淹れ直そう。話が長くなる」


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