12.15 聖女の声(3)よすが
火刑のあと、ルーアンの町では奇妙な噂がささやかれた。
「例えば?」
「炎の中から白い鳩が飛び出して、天へ向かった……とか」
「そうか」
「王のもとへ向かったという話もある」
ジャンヌが火刑に処されてから8ヶ月経つが、その間、黒い大鴉のコルネイユならともかく、ジャンヌらしき白い鳩を見た記憶はない。火刑の日、私はフランスにいなかったからすれ違ってしまったのだろうか。
「噂話は当てにならない」
私の弱い心は、罪悪感と傷心を慰めるための「よすが」を求めているが、強引に振り払った。
「実際に見たのか?」
「俺は火刑の火加減を調整していたからわからない」
ジャンヌは骨も残らず、白い灰塵となった。
薪の残骸なのか、人体を形作っていた残骸なのか。
すべて一緒くたにして、その日のうちにセーヌ川に流された。
聖女の信者が「聖遺物」を崇めないように、火刑の舞台となった広場は徹底的に清められた。
「何も残っていない……が、渡したいものがある」
顔を上げると、死刑執行人は暖炉にたてかけた斧の反対側、目立たない祈祷台に手を伸ばした。小さな十字架と燭台がふたつ、手前に薄っぺらな聖書が置かれているかと思ったが。
「もし、遺族に会えたらと。こっそり取っておいた」
よく見ると本ではない。手のひら大に折り畳まれた織物だ。
「受け取ってくれ」
「旗か……? いや、違うな」
一見すると絹のようだが、手触りが違う。
丈夫な毛織物の特徴と、絹織物の光沢を併せ持っている。
広げると、くすんだ緑色の片袖だとわかった。
当時の衣服は、「身頃」と「袖」が分離しており、汚れやすく傷みやすい袖を外して、洗い替えができる仕立てになっていた。
身頃1着に対し、付け替え用の袖が複数ついている。
季節や好みに応じてコーディネートを楽しんだり、親しい人におしゃれな袖をプレゼントすることもある。時には、戦地へ行く恋人に、自分の身代わりとして「着用していた袖」を贈った。
読者諸氏の時代と違って、衣服は既製品ではない。
糸を紡ぎ、布を織り、一針ずつ縫う。
すべての工程が手作業で、すべてが一点ものだ。
衣服は貴重であると同時に、持ち主の記憶を呼び覚ます。
だから、少々傷んでも修復しながら何年も着用する。
故人を思い出して、残り香にすがることもある。
身近な人なら、袖の特徴で持ち主がわかる。
「これは、刺草織りの……!」
鮮やかだった緑色はだいぶ退色したが、鳶色がかった枯葉色も悪くない。
暖炉の炎が揺らめくたびに、不思議な輝きを放つ。
私は、オルレアン包囲戦に勝利した褒美として、ジャンヌに刺草織りの布地を贈った。アザミの茎の繊維を紡いで織った厚みのある布で、漂白すると絹のような光沢が出る。オルレアンの職人は「救国の聖女」のために腕を振るい、丹念かつ濃厚な染色と、技巧を凝らした刺繍を施してくれた。
最高級の絹織物ではなく、絹まがいの刺草織りを選んだのは、山育ちのジャンヌには素材も色合いもこちらの方が似合うと思ったからだ。
もし、絹織物を希望するなら変更しようと考えていたが、ジャンヌは首を横に振り「これがいいです」と言い張った。
あのときは、故郷に婚約者がいると聞いていたから……。
私に会うためにシノン城へ旅立ったときに婚約破棄されたとは知らなかったから……、私は残酷にも「婚礼衣装に仕立てたらどうか」と勧めた。
すると、ジャンヌはまた首を横に振った。
あの子は、私の言うことなどまるで聞かない。
そして、ランスの聖別式に合わせて男装用の服を新調した。
ジャンヌが異端判決を受けた後に再び男装したのは——。
無意味な再犯を犯したのは、たぶん私のせいだ。
ジャンヌは自分が死ぬことよりも王の名誉を守ることを最後まで譲らなかった。その強い想いが、忠誠心だけではなく淡い恋心を孕んでいたとしたら。
異端審問は、想像を絶する過酷さだ。
孤立無援のジャンヌを慰め、勇気を奮い立たせる「よすが」となったのが、刺草織りの男装衣装だった。ジャンヌは私との繋がりをどうしても手放せなかった。二度と会えないならば、なおのこと。死んだ方がマシだと思うほどに。
……うぬぼれだろうか?
私には神の声もあの子の声も聞こえないから、ただの推測だ。
叶うなら、私の何がいいんだと小一時間問い詰めたい。もっと自分の命を大事にしろと説教してやりたい。でも、きっとあの子は言うことを聞かないのだろう。
死刑執行人は、「再び男装したのは『ジャンヌ自身の意志』だ。本人がそう証言している」と言った。
また、義弟のシャルル・ダンジューはこうも言っていた。
「ぼくの見立てでは、ジャンヌは陛下に求愛されるのを待ってましたよ。使命が終わったのに、なぜ陛下のそばを離れなかったのか。なぜ泣きながら戦い続けるのか、傷つきながら戦いをやめないのか……? 真実はひとつしかありません」
だが、もう遅い。
火刑のいきさつやジャンヌの本心を知ったところで、何もかもが手遅れだ。
王国の最高権力者であろうと、時間を巻き戻したり、死んだ人間を生き返らせることはできない。
あの子のために、私がしてやれることは本当に何もないのか……?
「そろそろ……、潮時だな」
無茶をしてルーアンを占拠したが、今の戦力では長くもたない。
フランスに駐留するイングランドにとって、ノルマンディーの首府ルーアンはパリに次ぐ拠点だ。雪が積もって、撤退後の行軍が難しくなる前に引き上げなければ。
「処刑人よ、私たちはひどい時代に生まれた。だが、どうか長生きしてほしい。これらの証言が必要になる日が必ず来るから」
外に出ると、空も大地も灰色だった。
天は分厚い雪雲に覆われて一筋の光も見えない。
暖炉の火を借りて小さな松明をつけた。
自然の光には敵わないが、それでもないよりマシだろう。
ラ・イルとともに冷たい歩みを踏み出すと、外で待機させていた護衛がやってきた。私は一人ではない。
ほどなくして、フランス軍はルーアンから撤退した。
しかし、同年中にすさまじい勢いでボーヴェを奪還。司教のピエール・コーションが逃亡したため、私はランス司教にボーヴェの司教職を兼任させることを決定した。
(※)第十二章〈二人のジャンヌの死〉編、完結。
一般的に、シャルル七世はジャンヌのために何もしなかったと思われてますが。
火刑翌年にルーアンを攻撃して一時的に占拠したことと、異端審問を主導したピエール・コーションが司教を務めるボーヴェを奪って、司教職を別の人に与えていることは、シャルル七世なりの「筋を通した報復」だったのではないかと。





