勝利王の書斎22:忘れてはいけない、許してもいけない
第十一章から第十二章へ——。
《《勝利王の書斎》》は、歴史小説の幕間にひらかれる。
こんにちは、あるいはこんばんは(Bonjour ou bonsoir.)。
私は、生と死の狭間にただようシャルル七世の「声」である。実体はない。
生前、ジャンヌ・ダルクを通じて「声」の出現を見ていたせいか、自分がこのような状況になっても驚きはない。たまには、こういうこともあるのだろう。
ただし、ジャンヌの「声」と違って、私は神でも天使でもない。
亡霊、すなわちオバケの類いだと思うが、聖水やお祓いは効かなかった。
作者は私と共存する道を選び、記録を兼ねて小説を書き始めた。この物語は、私の主観がメインとなるため、《《歴史小説のふりをした私小説》》と心得ていただきたい。
便宜上、私の居場所を「勝利王の書斎」と呼んでいる。
作者との約束で、章と章の狭間に開放することになっている。
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恒例のフランスの慣用句シリーズ、現在進行中の物語にふさわしいのは、間違いなくこれだろう。
"Ni oubli. Ni pardon."
「忘れてはいけない、許してもいけない」
ひどい行為を受けたことを忘れて加害者を許すことは、被害者の苦しみを軽視することであり、同じ加害者からまた同じ被害を受ける可能性を残すことになる。
ゆえに、忘れても許してもいけない。
この慣用句は、私ことシャルル七世が「ジャンヌの異端審問と火刑」をどう考えていたのかを考察する手がかりになるだろう。
フランスをはじめ、ヨーロッパ諸国はキリスト教を国教とし、聖書の教えを重んじている。中でも、「赦し」は重要だ。
だから、読者諸氏は、今回選んだ慣用句を意外に感じるかもしれない。
しかし、この言葉の本質を知ればそうでもない。
日本語ではよく混同されるが、じつは「赦す」と「許す」は別物なのだ。
「許す」とは、相手の申し出を認めること。
「赦す」とは、相手を罰したいという欲求を手放してすべてを神に委ねること。
罪とは、《《赦》》されうるものであって、《《許》》されるものではない。
さて、時間が来たようだ。
これより青年期編・第十二章〈二人のジャンヌの死〉編を始める。
(※)「赦す」と「許す」の混同は、映画や商業出版の翻訳どころか英語の辞書ですら見られます。違いを理解して使い分けている日本人はかなり少ないようです。





