最終話
「ん……」
バラの香りで目が覚めた。
どうやら病室の隅に置かれた加湿器の水を、看護師が交換したらしい。噴出孔から湯気とともに溢れ出るバラの香りは、水と一緒にバラのエキスを入れた証だ。
消毒薬の匂いを消し、患者の心を落ち着かせる効果もあるため、最近ではこういう病院も多い。
僕の目の前には、ベッドに横たわる30歳のめぐるがいる。
5年前に結婚した、僕の最愛の妻。
けれども今は呼吸器を口につけ、目を瞑ったまま穏やかに眠っている。
3週間前に交通事故に合い、今なお昏睡状態だ。
医者が言うには、いつ死んでもおかしくない状態だという。
こうして面会を許されているのも、助かる見込みがないからという病院側の特別な配慮らしい。
「めぐる」
僕は、彼女のきれいな頬を撫で、その額に手を置いた。
「さっき、不思議な夢を見てたよ。大学生の頃の僕が、今の君と出会う不思議な夢。君は相変わらず、可愛かった」
ベッドの中の彼女は、微動だにしない。
僕の声を聞いているのか、いないのか。
もしかしたら、夢を見ているのかもしれない。
僕は、続ける。
「夢の中でね、君は言ったんだ。私も、一目惚れでしたって。今の会社に君が入社してきた時、僕と全然目を合わせてくれなかったけど、あれは恥ずかしがってたんだね?」
しゃべっていくうちに、夢の中の出来事が鮮明に思い出されてくる。
まるで過去に実際にあったかのような、とてもリアルで不思議な夢だった。
「それでね、君はこうも言った。私が死んだら、素敵な人を見つけて幸せになってくださいって。あれは、キツかったなあ。だってそうだろ? 僕は君以上に素敵な人なんて知らないし、見つけられる気がしない。僕は、君じゃなきゃ幸せになんてなれないよ……」
気が付けば、僕は夢の中の出来事を滔々(とうとう)と語っていた。
その額からは、確かに今生きているという温かさが伝わってくる。
夢の中の彼女は言った。
自分はもうすぐ、死ぬと。
それがどうしても信じられなかった。信じたくなかった。
そして、彼女の額に手を置きながら、僕は泣いていた。
泣きながら語りかけていた。
「ねえ、めぐる。君は本当に死んでしまうのかい? 消えてしまうのかい? お願いだ、生きてくれよ、頼むよ」
僕には、現実を受け止める自信はなかった。
勇気もなかった。
死んでほしくない、それだけが僕の望みだった。
どうして今になってあんな夢を見たのか、不思議でならなかった。
彼女が死ぬからなのか?
彼女がいなくなるからなのか?
わからなかった。
僕は何かにすがるように必死に祈った。
どうか、どうか死にませんようにと。
心から祈った。
夢の中で天に召される彼女が想い起こされる。
彼女は泣きながら「また会おうね」と手を振っていた。
あの時の情景がまざまざとよみがえる。
と、次の瞬間、白い光が彼女の身体を包み込んだ。
ほんわかした、温かな光だった。
夢の中で見た……
あの光だった。
「……?」
光は彼女の身体の中に吸い込まれ、消えていった。
不思議に思って眺めていると。
「ん……」
めぐるが、目を覚ました。
「め、めぐる……!?」
思わず声をかける。
彼女は、うっすらと目を開き、うつろな目を僕に向けてきた。
「めぐる!? めぐる!!」
なんてことだろう。
昏睡状態で、いつ死んでもおかしくないと言われていた彼女が、目を覚ました。
夢の中で10年後には死んでしまうと言って消えて行っためぐるが……
目を覚ました。
「めぐる!」
僕はもう一度、名前を呼んだ。
彼女は僕の存在に気づき、口を開いた。
「す……ぐる……?」
「めぐる!」
「すぐる」
「ああ、よかった! 目を覚ましたんだね!」
身を乗り出して声をかける僕に、彼女は静かな声で言った。
「ごめんね、すぐる……。心配かけたね」
「謝らなくていいよ! すぐに誰か呼んでくるから待ってて!」
病室を飛び出そうとする僕に、彼女は「待って」と声をかけた。
「あのね、私不思議な体験をしてきたの。10年前の過去に戻って、昔のあなたとデートをするっていう不思議な体験……」
「え?」
僕は病室から飛び出そうとする姿勢で振り向いたまま、かたまった。
トクン、と胸が高鳴る。
「それって……」
言いかけて口をつぐむ。
どういうことだ?
10年前の過去に戻って僕とデートをする?
それって、僕がさっきまで見ていた夢の内容と同じじゃないか。
もしかして、彼女も同じ夢を見ていたのか?
いや、あれは夢じゃなかった……のか?
呆然としていると彼女は続けて言った。
「それでね、もう死んじゃうって時に、神様が言ったの。もしも……、もしもね。すぐるが消されたはずの過去の記憶を呼び戻したら、それは歴史が変わった瞬間だから、私が死ぬことはないって」
「僕の記憶が?」
「10年前に私と会った記憶、思い出したんでしょう?」
言われて気づく。
そうだ。
そういえば、夢の中で彼女が消えたらその記憶は一切消えると言われていた。
でも、今はこうしてその内容を鮮明に覚えている。
そうか。
やっぱりあれは……夢じゃなかったんだ!
「きっと、想いが強かったんだね。ありがとう、すぐる……。あなたに助けられちゃった」
「めぐる!」
僕は思わずベッドに横たわる彼女に覆いかぶさると、その華奢な身体をギュッと抱きしめた。
温かい。
確かに、生きている彼女がここにいる。
めぐるは、そんな僕の頭に手を置いて、優しくつぶやいた。
「ただいま、すぐる。また、会えたね」
きっと、今の僕は泣き虫の彼女よりも大号泣しているだろう。
ベッドが涙で濡れてしまうけれど、構うものか。
僕は泣き声でかすれているであろう声で彼女の耳元でささやいた。
「おかえり、めぐる。また、会えたね」と。
拙いお話でしたが、最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
未熟な私が最後まで書き切れたのは、他ならぬ皆様のおかげでございます。
本当に心から感謝いたします。
なお、このお話は「一目で恋に落ちる春」企画参加作品として書かせていただきました。
素敵な作品ばかりですので、ぜひ、タグで検索してみてくださいませ。
ここまで読んでくださった方々に、幸せな春が訪れますように。