私を知る人2
うだるような夏の暑さに負けずセミの鳴き声が響く。
前を歩く栄史は初めて会ったあの日のような気遣いを見せることはなく、柚姫は先導するだけと語たる背中にただついていく。
待ち合わせた場所は柚姫の家の最寄り駅だった。
合流した栄史が目的の人物はそこから出るバスで30分、さらに15分ほど歩いた先の市の境にある施設にいるという事前情報をもらい乗車したバスが発車した直後のことだった。
一番後ろの座席の左端に座った柚姫の隣一つ分開けて座った栄史がふと柚姫を見て口にしたのである。
「жжжжはжんだんだな・・・」
柚姫から見てその瞳に少し落胆の色が乗っているように感じた。
けれど、その言葉は柚姫の耳に正しく届くことはなかった。
まるで栄史が自分の知らない言語を口にしたかのような違和感を覚えた柚姫はとっさに聞き返した。
「えっと、今なんて言ったんですか?」
柚姫にとってはただ聞き逃しただけだと思い問い返したのだが、栄史ははまるで予期していなかったのように柚姫を見つめたままぴたりと動きを止めた。そして少しの沈黙のあと、もう一度ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「жжжж」
「・・・それどういう意味ですか」
先ほどよりもさらに理解できず柚姫を眉を顰めどうしたらいいのかわからず困惑する。
「・・・そうか」
そう言って、栄史はそのまま口を閉ざし柚姫から視線を外した。栄史の言葉の意味を尋ねようと思ったがその硬質な雰囲気に言葉をかけることができず、その後はただひたすら沈黙を保つしかなくなってしまった。
目的にのバス停を降りた今も沈黙は続いたが、目的は変わらないようで栄史の足取りに迷うそぶりはなかった。
降りた場所は人気のない山道に差し掛かる場所で木々が生い茂っており、栄史が向かう先は舗装されていない獣道のようであった。
木々の香りがむせ返りじわりと感じる夏の暑さに目を細める。ペースは早くたびたび置いて行かれそうになり、その態度に理不尽に覚えふと足もとに視線を伏せる。
足元には今日は遠出する可能性も考えて履いてきた運動靴が目に入る。
自分がもしサンダルできていたらこの人はどうしていたのだろうかと疑問に思い、振り返らない背中にこのまま立ち止まればおいて行かれるのであろうかと思ってその背中をぼんやり見つめていた。けれど不意にそれも仕方がないと思えてしまった。
理由は昨日柚姫が思い出したばかりの今確かなものだと確信できる数少ない真実によるものである。
1つは自分が本当のリル・リトルでないこと。
もう1つは目の前にを進む人物は本当の自分を封じた張本人であるということ。
そして最後の1つ。
それを望んだのは紛れもなく”自分”であったこと。
そこに至る理由は分からなくてもこれだけは確かな真実であったから。
栄史を責める権利はない。それ以前に柚姫の要望に応える必要すら初めからないことにいまさらながらの思い知る。
他人に頼ってばかりの自分が情けなくなり、けれど今さらどうすることもできず、どうにか平静をを保とうとペースを緩めるえゆっくを下ろそうとしたとき、ふいに栄史が振り返る。
柚姫が思わず目を見開くと栄史は少しこちらの様子を窺い近づいてきた。そして徐にカバンから何かを柚姫の目の前に差し出した。
差し出されたのはペットボトルであった。それは有無を言わさない視線を前にして柚姫の手に収まった。
受け取った手にはひんやりとした感触がし気持ちがいい。
一度凍らされていたであろうスポーツ飲料水の中にぷかぷかと大きな氷の塊が浮かんでいる。
もう一度栄史に視線を戻すと一歩離れた場所で柚姫のほうを見ていた言葉にしないがその目は飲むことを促しているのが分かった。
冷たい態度をとったかと思えば気遣いのようなものも見せられ、そのちぐはぐな態度に困惑しつつも柚姫は渇きに負けてキャップを外しそれを口にする。常温よりも甘く冷たいそれが口に広がり体の中にすっと染み込む。
柚姫がペットボトルの半分を一気に飲み干しへ大きく息をつく。のどが潤うと先ほどの不満は簡単に霧散してしまう。
「・・・ありがとうございます」
一言小さく礼を言うと栄史の表情がわずかにふっと和らぐ。
柚姫は何とも言えない気持ちになる。
理不尽な人ではない。冷たい人でもない。自分が選んで頼った人だったと実感し胸のあたりが苦しくなった。
リル・リトルだと思っていた時の柚姫はずっと知りたいと思っていた。
前に進むための過去を知ろうとしていた。
けれど本当に知りたいものは過去をではない。それはあくまで手段であって目的ではなかった。
これから”柚姫”は今信じたいものを信じるために過去に会いに行くのだ。
柚姫は当たり前のことを忘れていたことに自分自身呆れながらも吹っ切れたような心持しで深く深呼吸して栄史に告げた。
「もう、大丈夫です。案内お願いします」
今一度はっきりとした意志を乗せて柚姫がそう言うと栄史は少し目を見張った後小さくうなずいて背を向ける。
その後姿を見つめて柚姫は少し微笑んだ。自分のリュックにも入っていた水筒を出さないでよかった思いながらもう一度足を踏みしめ歩き出した。




