↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
宛所  作者: 真核生物
PR
1/8

第一章 申込書

四月の二週目の月曜に、局長の原田さんに呼ばれた。


配達から戻って、赤いバイクを車庫に入れ、区分棚の前で翌日の分をそろえていたときだった。局長は事務室の奥の机から、紙を一枚持ってきた。


「水野さん、日向台の団地、あなたの区だったよね」


「はい。五号棟から八号棟まで」


「じゃあ、これお願い。みまもり訪問」


紙は、申込内容の控えだった。サービス名の欄に「みまもり訪問サービス」とあり、その下に、みまもられる方の名前と住所が印字されていた。


宮下トシ子。八十四歳。日向台団地五号棟三〇五号室。


申込者の欄には、別の名前があった。宮下健一。住所は東京都で、続柄は長男。報告先の欄には、メールアドレスが一つだけ書いてあった。


「月に一回、行って、話を聞いて、タブレットに入力する。三十分くらい。報告は、システムが息子さんにメールで送るから」


「わかりました」


「研修の資料、机に置いとくね。むずかしいことはないよ。決まりどおりにやってくれれば、それでいい」


局長はそう言って、自分の机に戻った。


*


この局に勤めて、二十年になる。


市の北のはずれの、集配をする局だ。社員は二十人ほどで、わたしはそのうち十年あまり、日向台の区を受け持っている。坂の下の商店街から、県営団地のある丘の上まで。一日に四百軒ほどを回る。


仕事は、決まりを覚えることから始まった。


郵便物は、宛名のとおりに届ける。宛名にない人には渡さない。中身は見ない。封筒が透けていても、読まない。書留は、判をもらってから渡す。不在なら、不在票を入れて持ち帰る。決まりがあれば、迷わなくていい。二十年、迷ったことはほとんどない。


家に帰れば、一人だ。市の南の古いアパートで、台所と六畳が一つずつある。母は八年前に亡くなった。施設に入って二年目の冬だった。施設からの連絡は、いつも電話で来た。お変わりありません、と職員の人は言った。最後の電話だけが、違った。


そのことを、仕事と結びつけて考えたことはない。結びつける決まりはない。


研修の資料は、薄い冊子だった。


訪問の前に電話で日時を約束すること。玄関で社員証を見せること。部屋に上がるときは、本人の許可を得ること。質問は十項目。七つは決まっていて、三つは申込者が選ぶ。答えは本人の言葉のまま入力する。訪問員が判断したことや推測したことは入力しない。お金や物を預からない。頼まれごとは、原則として引き受けない。


最後のページに、太い字で書いてあった。


本サービスは、ご本人のご様子をご家族にお伝えするものです。


わたしは冊子を閉じて、ロッカーにしまった。


ロッカーの扉の内側に、配達区の地図が貼ってある。十年前に自分で貼ったものだ。日向台団地のところに、鉛筆で丸がつけてある。何のための丸だったのか、もう覚えていない。


*


最初の訪問は、その週の木曜の午後にした。


電話をかけると、宮下トシ子は、はいはい、と二度言ってから、息子から聞いています、と言った。声はしっかりしていた。二時にうかがいます、と言うと、じゃあお茶を用意しておきます、と言った。お気遣いなく、と言ったが、聞こえなかったようだった。


日向台団地は、坂の上に八つの棟が並んでいる。


五階建てで、エレベーターはない。建ってから五十年近くたつと、管理人の佐野さんから聞いたことがある。坂を上りきったところに、郵便ポストが一本立っていて、その横に、各棟の集合ポストがまとめて置いてある。団地の人は、町へ下りるときも、町から帰ってくるときも、必ずそのポストの前を通る。


佐野さんは、七十くらいの男の人で、毎朝、そのポストのまわりを竹ぼうきで掃いている。


「水野さん、今日は制服で歩き?」


「訪問なんです。五号棟の宮下さん」


「ああ、トシ子さん。息子さんが頼んだの」


「そうみたいです」


佐野さんは、ほうきの手を止めた。


「息子さん、来たことないよ。わたしがここに来て十年になるけど」


わたしは、そうですか、と言った。


*


三〇五号室のチャイムを鳴らすと、すぐに戸が開いた。


宮下トシ子は、背の小さな人だった。白いブラウスに、紺のカーディガンを重ねていた。髪は短く切りそろえてあって、耳に補聴器をつけていた。


社員証を見せると、老眼鏡をかけて、しばらく眺めた。


「水野さん。いつも郵便を持ってきてくれる人ね」


「はい」


「顔は知ってたの。名前は知らなかった」


わたしも、トシ子さんの顔は知っていた。坂の上のポストの前で、何度かすれ違ったことがある。手提げを腕に掛けて、ゆっくり坂を下りていく人だった。名前は、郵便受けの名札で知っていた。顔と名前が、この日はじめて一つになった。


窓の外に、坂の下の町が見えた。商店街のアーケードの屋根と、その向こうの駅と、線路。坂の上のポストの赤い頭が、窓枠の端に小さく写っていた。


部屋は二DKで、よく片づいていた。台所のテーブルに、湯のみが二つと、個包装の最中が四つ、並べてあった。奥の和室に仏壇があって、男の人の写真が飾ってあった。


「主人。五年前に」


トシ子さんは、写真のほうを見ずに言った。


わたしは、ご愁傷さまです、と言った。五年たっていても、そう言うことになっている。


わたしはテーブルの端に座って、局から持ってきたタブレットを出した。


最中を一つ勧められて、わたしは断った。お客さまのお宅で飲食をしないこと。研修の冊子の、三ページ目に書いてあった。お茶は、手をつけずに置いておいた。画面を開くと、質問が一つずつ出てくる。


体調はいかがですか。


「いいわよ。どこも痛くない」


わたしは、良い、を選んだ。備考の欄に、どこも痛くない、と入力した。


食事は、一日に何回とっていますか。三回。何を食べましたか。朝はパンと牛乳、昼はうどん。睡眠。よく眠れる。夜は九時に寝る。外出。週に二回、坂の下のスーパーへ。月に一回、バスで駅前の内科へ。


トシ子さんは、どの質問にも、はっきり答えた。わたしは、答えたとおりに入力した。


三つの選択項目のうち、一つは「心配事はありますか」だった。息子が選んだ項目だ。


「心配事ねえ」


トシ子さんは、湯のみを両手で包んだ。


「ないわね。何にもない」


わたしは、なし、を選んだ。


*


三十分は、思っていたより短かった。


タブレットの画面の右上に、訪問を始めてからの時間が表示される。二十八分、と出ていた。研修の冊子には、最大三十分を目安に、と書いてあった。


最後に「入力内容の確認」の画面が出て、わたしが送信のボタンを押すと、報告は局のシステムに送られた。あとは、決まった時刻にまとめて、息子のアドレスへ送られる。


帰り支度をしていると、トシ子さんが、ちょっと待って、と言って、和室の引き出しから封筒を一つ出してきた。


白い封筒で、切手が貼ってあった。宛名は東京都の住所で、宮下健一様、とあった。裏に、トシ子さんの住所と名前があった。


「これ、出しといてくれる? 坂の上のポストでいいから」


冊子には、頼まれごとは原則として引き受けない、と書いてあった。


ただ、郵便を出すことは、頼まれごとだろうか、とわたしは思った。わたしがポストに入れても、トシ子さんが自分で入れても、郵便は同じように運ばれる。わたしが運ぶ前に、別の誰かが運ぶだけだ。


「お預かりします」


わたしは封筒を受け取った。


玄関で靴を履いていると、トシ子さんが、毎月書いてるの、と言った。


「あの子、電話が嫌いだから。手紙なら、読むでしょう」


坂の上のポストに、封筒を入れた。取集は四時だった。


局に戻って、タブレットを返す前に、申込内容の控えを、もう一度見た。


報告先のメールアドレスを、一文字ずつ確かめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。