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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第98話:闘争の遺伝子

 「――10分経過」。


 リングアナの硬質な声がアリーナの空気を震わせた。


 ただの10分ではない。観客や実況席にとっても、そしてリング上の二人にとっても、あまりに長く息苦しく、どこか“異質”な時間の流れだった。


 誰もが理解していた。今リングで交わされているのは、レスリングの攻防ではない。技術、駆け引き、どちらもスポーツの枠に収まる何かでもない。


 もっと原始的で、もっと危うく、もっと深いところに触れてしまうような“行為”だった。


 「強烈な10分が経過しました……しかし、リング上には熱気というより……そうですね、殺気が漂っていると言うべきでしょうか」


 古田の言葉は実況席から発せられながらも、どこか自分自身に言い聞かせているような響きを帯びていた。


 この光景を“試合”と呼び続けるために必要な理性の火を、消さぬよう保ち続けるための独白のように。


 そんな古田をよそに、山北はリングを射抜くような視線で見据えたまま、言葉を慎重に選びつつも、低く無骨な声で応じた。


「今の一撃……明らかにプロレス的ではない技でしたね。ですが、致命打にはなっていないようです」


 その声音は実況というより、状況を解析するベテランの直観そのものだった。


 山北の言葉に引き寄せられるように、観客の視線が研美へと集中する。


 閃光のような速度と衝撃で叩き込まれた肘打ち。


 腹部は衝撃の軌跡を物語るように、さらしが部分的に裂け、擦り切れ、布地が細くほつれている。


 だが、そこに生身の肉体が受けたはずの“損傷”は見当たらなかった。


 威力を相殺したような技術は介入させず身体能力のみ。


 あの速度と破壊力のすべてを、真正面からそのまま受け止めている。


 常人なら、いや熟練のレスラーであっても内臓破裂すら覚悟する一撃だ。それを受けてなお、呼吸を乱すことなく立つ研美。


 ただそこに在るだけで異様な雰囲気を放ち続ける研美。


 観客の誰もが、彼女の姿に“人間”という枠の外側の像を重ねずにはいられなかった。


 10分間という時間は、研美のギフト《一騎当千》が本領を露わにするには十分すぎる長さだった。


 このギフトは、リングという限定空間に立ち続けることで、徐々に肉体性能そのものを底上げしていく。


 防御はぶ厚く、衝撃は鈍化し、筋力と反応速度は鋭さを増す。いわば、時間を代償に“戦闘力そのものを積み上げていく”タイプの異能である。


 そして――その積み上げは、研美の内側に潜む殺意と呼応する。


 ダメージを緩和し、防御を強化し、ただ強くなるだけでは終わらない。


 力の増加と比例するように、研美の奥底で燻っていた黒く重い情念が、静かに輪郭を濃くしていく。


 10分という積み重ねは、研美を単なるプロレスラーの域から押し上げ、敵を“屠るための存在”へと変貌させつつあった。


 だが、その獣性を薙ぎ払うように、如月の攻防が途切れず続いていた。


 自らの肉体が持つ限界すべてを受け止め、ねじ伏せ、凌ぎきるという純粋な行為に、如月自身がどこか酩酊するような感覚を覚えていた。


 それは狂気と紙一重の境地であり、人の身でありながら異能に抗う者だけが辿り着く領域だった。


 その執念めいた受けと反撃は、研美の内側にも反響していく。


 応じるように彼女も、これまで制御しきれず封じていた技を次々と解放していった。


 強化された肉体で受けて、研ぎ澄まされた身体で返す。その往復は、ただの攻防ではなく、二人だけの異能的交信のように見えた。


 リング下でその惨烈な光景を見守るカナレは、震えが止まらなかった。


 恐怖で声も出ないほどに震えているのに、視線だけは研美と如月から離せない。


 どこか――惹かれつつあった。


 カナレのギフト《剛腕》もまた、血輝儀宇受女チテルギノウズメからの加護によって与えられた力。


 同じ女神の加護を受け、力を振るう研美。その暴威に、ただ“人”の身で対抗し、受け止め、食らいつく如月。


 その二人の光景が重なった時、カナレ自身の中にかかっていた奥深い“タガ”が、静かに、軋んで外れかけた。


 恐ろしくて、あれほど目を背けようとしていたのに、カナレは今、食い入るようにリングを見つめていた。


 震えているはずの体は、いつの間にか震えの質を変貌させて、その顔には――ゆっくりと、だが確かに笑みが浮かび始めていた。


 まるで如月や研美が辿り着いている“あの領域”へと、自分も引きずり込まれていくかのように。


 その静かで深い慟哭と、高ぶりきった歓喜の衝動が混じり合っていく様を、如月は肌の感覚で理解していた。


(……あの頃と同じだ。――いい匂いだ)


 実際には存在しないはずの“闘争の遺伝子”が、どこかから呼び起こされるように如月の嗅覚を強烈に刺激してくる。


 胸の奥をざらつかせる鉄の匂い。


 皮膚の下が煮え立つような高揚。


 呼吸の隙間に忍び込んでくる、あの濃密な熱気。


 かつて、自分がいたプロレスのリングで芽生えた、あの狂気。観客が見ていない隙間で、あるいは技と技の狭間で、確かに感じ取った、人間ではない何かの気配。


 それが今、ここでもう一度、ゆっくりと目を覚ましつつあった。


 ――19XX年夏。


 日本のプロレス界に、深い裂け目が走った。


 IWAのリングに突然として伝えられたニュース。“IWAのエース”新田明夫が退団。その直後、新団体の旗揚げを宣言。


 掲げられた理念は、既存のプロレスとはまるで異なるものだった。


 従来のグラップリング主体で、ショーアップされたエンターテインメント化されたプロレスから一線を画し、立ち技中心、特に蹴撃を柱とするリアルファイトスタイルの確立。


 新団体の名は UUUトリプルユー


 そして――新田は旗揚げ会見の場で、かつての所属先であるIWAへ明確な“宣戦布告”を突きつけた。


 表向きの理由はこうだ。


 ショー化し続ける団体方針に反発した実力派レスラーたちが、真の格闘路線を求めて独立した。


 だが、その裏側にはもっと深い闇があった。


 IWAの実権を握り続ける社長・陣川。


 彼の取り巻きで固められた経営陣による私物化と放漫経営。その腐敗に業を煮やした一部の役員たちが、内側から体制を覆そうと画策した“クーデター”が発端だった。


 つまり、新田の独立劇は、ただの理念闘争ではない。IWA内部の亀裂が表面化し、爆ぜた瞬間だった。


 事実、この頃のIWAは、どんぶり勘定が祟り、財務状況は急速に悪化していた。


 外から見れば歴史ある大手団体の体裁を保っていたが、内部は慢性的な赤字と杜撰ずさんな管理が積み重なり、もはや崩壊寸前。


 一方、旗揚げしたばかりのUUUは飛ぶ鳥を落とす勢いでファン層を拡大し、格闘路線という鮮烈なカラーで業界に風穴を開けていた。


 勢いを失い失速するIWA。


 加速度的に知名度と信用を獲得するUUU。


 役員の離反、新田明という次期エース候補と主要選手の離脱。これらが重なり、IWAは完全に息の根が止まりかけていた。


 そんな中、UUUの特別顧問として招聘しょうへいされていた、英二の師匠アルフォンスが陣川へ助け舟を差し出す。


 陣川にとってアルフォンスは特別な存在だった。まだ陣川が別団体でエースとして名を馳せていた頃、彼を鍛え上げ、海外遠征まで面倒を見たのがアルフォンスである。


 さらに、陣川がIWAを旗揚げした際にも、人脈づくり、選手の紹介、海外ルートの確立など、アルフォンスは裏方として多大な支援をしていた。


 その恩義の関係がまた、沈みゆくIWAに思わぬ救いの手をもたらした。


 そして、若手の中でも突出した才能を持っていた英二は、ドイツへの海外遠征に際し、アルフォンスが帯同する形で渡欧した。


 寝食を共にし、同じリングで汗を流し、同じ道を歩いた日々。その距離の近さゆえに、英二とアルフォンスの師弟関係は、単なる指導者と弟子の関係を超えた結びつきへと変わっていった。


 この縁もあって、UUUとの対抗戦が決まった際、アルフォンスの強い推薦により、英二がメインに抜擢される。


 対戦相手は――新田明夫。


 ここから英二の“(ことわり)”が軋み始める。


 海外遠征中、アルフォンスは常に数冊の古書を持ち歩いていた。


 観光や練習でも、どこへ行くにも大きなバッグにそれを入れて肩から下げていた。まるでそれ自体がまるで“呪具”であるかのように。


 その古書こそ、日本の名もなき武芸者が敗北によって体を患い、その負の情念だけを原動力に書き連ねたとされる異形の武芸書。


 天地中興伝書。


 内容は武術指南書の体裁を取っているが、その本質は別の場所にある。


 人体の核心となる「心の真理」と「肉体の理」を、天に巡る星の運行になぞらえて解釈し、百練星、游回星、導破星、即落星、解縛星の五系統へと分類した五冊組。


 殺傷のみを目的に徹底して研ぎ澄まされた、異端の書。


 アルフォンスはこれらを常に傍らに置き、まるで取りつかれたように読み耽っていた。


 英二は気づいていた。師匠がページを開くたび、周囲の空気がどこか軋み、温度が微妙に変わると。


 そして、いつしか――その本の頁をめくる音までが、英二自身の心に奇妙な影を落とし始めていた。


 その武芸書は、元々が古い時代に作られたもので、製本技術も未熟だったことから、アルフォンスの手元に渡った時点で既に相当な古び方をしていた。


 彼がことあるごとに読み耽ることで、紙の縁はさらに擦れ、まるで年月そのものが書物へ吸い込まれていくかのように、その“年季”は一段と増していた。


 その時のアルフォンスの目を、英二は忘れられない。暖炉の火が揺らめくホームステイ先の居間。


 炎の赤橙に照らされた師匠の顔は、まるで別の生き物のもののように見えた。


 燃えさしの弾ける音がするたび、炎がページを照らすたび、武芸書は英二を誘うかのように、淡い影を揺らしていた。


 その魔力に、英二もまた取り憑かれ始めていた。


 英二はアルフォンスの目を盗み、寝静まった夜にそっとページを開き、貪るように読み漁る日々。


 解析し、模倣し、自分の中に落とし込みそれを独自に練り上げる行為が、いつの間にか英二の日常になっていた。


 そして気づけば、己の中にある“人としての理”が、まるで安物のメッキのように剥がれ落ちていく感覚に、英二は奇妙な心地よさを覚えていた。


 同時に――。


 その剥落のたびに、取り返しのつかない場所へ落ちていくような恐怖も確かにあった。


 強さそのものは確実に伸びていた。技の精度、判断力、反応速度、すべてが日ごと鋭利に研ぎ澄まされていく。


 その成長を、英二自身もはっきりと実感していた。


 だが、その成長と並走するように、命の尊厳や痛みへの想像力が、少しずつ薄皮を剥がすように希薄になっていく。


 まるで強さそのものが、心の奥底にある危険な部分へ意識的に糧を与えているようだった。


 それでも、英二はプロレスのリングという「理」に身を置くことで、その危うさをかろうじて封じ込めていた。


 ルールがあり、観客がいて、決着の形式が決められ、“プロレスという物語”が人としての枷になっていた。


 だが――。


 内に秘めた狂気は着実に育っていた。深い闇の中で胎動する、この世に生まれてはならない何かのように。


 それは英二の奥深くで、生まれ落ちる瞬間を虎視眈々と狙い、まるで意志を持つかのように、微笑んでいるようにすら思えた。


 そしてついに、その機会が訪れる。


 IWAとUUUの対抗戦。


 全5試合。実力差は歴然としていたが、IWA勢は食い下がり続けた。


 噛み合わない攻防の中でも、必死に応じ、倒されても立ち上がり、時にシュートに特化した熟練選手が意地でUUUの攻勢を跳ね返す場面もあった。


 結果だけを見れば、IWA側の敗北が一方的に続いていた。


 だが、ある意味ではIWAの価値を逆説的に高める、そんな“泥臭い善戦”だった。


 控室のモニターでそれを静かに見つめていた新田は、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。


 そして、長年のルーティンのように肺の底から咆哮し、身体中に気合を注ぎ込むようにして控室を出た。


 こうなることは予測していた。その流れで自分の試合が回ってくることもわかっていた。だからこそ、自らの役割を果たす準備は、すでにできていた。


 そして――本番のリング。英二と新田は、観客の前で初めて相対することとなった。


 スパーリングでは何100回とぶつかり合ってきた二人。


 だが、常に翻弄されていたのは英二の方だ。新田は英二を高く評価しつつも、まだまだ伸びしろの途中にある若手だと見ていた。


 それでも、成長の速度は手放しで称賛できるものだった。


 そんな新田の愚直で、誠実で、そしてどこか人間味のある性格を、英二にとって憧れであり尊敬の対象だった。


 だからこそ――憧れの先輩との一騎打ちという舞台は、英二の心を大きく揺さぶった。


 その興奮、緊張、期待。高ぶる鼓動が血流を早め、胸の奥の何かを叩き起こす。


 そしてついに、英二の中で蠢いていた禍々しい“情念”が目を覚ましてしまった。


 闘争を司り、殺意と渇望を孕む、あの危険な何かが。


 ゴングが鳴った直後だった。英二は構えすら見せず、無造作にタックルへ飛び込んだ。


 新田はその動きに微塵も動揺しない。冷静に距離を測り、ミドルキックを顔面へ叩き込む。音が鈍く響き、観客の息が止まる。撃墜したかに見えた。


 だが、英二の目は死んでいなかった。むしろ、現代において存在してはいけない種類の“怨嗟”を宿していた。


 歓喜と狂気が混じり合い、血を求める獣のように瞳孔が開き、生々しい情念が溢れ出ている。


 蹴りを食いながらも前に出ると、英二は力任せに新田の腰へしがみついた。


 次の瞬間、指を食い込ませ、えぐるように仙骨へと指を差し入れる。


 新田の背筋を、強烈な嫌悪感と痛覚が同時に貫いた。脳天に逆流するような悪寒が走り、身体の芯が一瞬すくむ。


 その隙を逃さず、英二は新田の片足を抱え込むと、無理矢理テイクダウンへ持ち込んだ。立ち技を封じられ、新田は一気に劣勢へ追い込まれる。


 当時はまだMMAという競技体系すら未成熟。寝技での急所攻めや体位支配に関しては、完全に英二の方が異常なほど精通していた。


 それが“技術として”なのか、 “殺意として”なのかは、もはや誰にも分からなかった。


 マウントを奪った英二は、歓喜に震える表情で、執拗に新田の顔面を殴りつける。骨の軋む音がリングに響き、強弱を計算した打撃が容赦なく降り注ぐ。


 腰を使って逃れようとする新田を、英二は嘲笑するかのように封じ、殴り続けた。


 その顔は、人ではなかった。自分が得た知識と練り上げた理を“解放できる喜び”。


 英二は完全に飲み込まれ、快楽者の笑顔を浮かべていた。


 リング下で見守るアルフォンスも、英二の異常な進化に驚愕していた。


 強打と軽打を織り交ぜ、徐々に防御を崩しながら、タイミングを見計らう――。


 完全な一撃のために。


 それは、星と人体の理を結びつけた“天地中興伝書”の技理そのもの。新田の牙城が着実に崩れていくのが見て取れた。


 その時点で英二は、古書に巣食う得体のしれない情念に魅入られていた。


 新田もまたスイッチが入り、IWAで培った格闘魂を燃やして応戦した。腰の入らない打撃でも構わない。倒されても抗い続ける。その姿は観客の胸に迫るものがあった。


 しかし、状況を見誤ったレフリーの遅れと判断ミスが新田に生涯付きまとう致命傷を生んでしまった。


 新田はこの試合で、二度とリングに戻れない深いダメージを負った。


 アルフォンスは即座に判断し、タオルを掴み、UUU側から投げ入れる。


 これで試合は英二の勝利。


 IWAの威信は守られた。


 だが、それ以降――英二の心は完全に壊れてしまった。


 肉体ではなく、理が、魂が、崩れた。


 そして新田というエースを失ったUUUは、半年という短く濃密な歴史を残し、静かに消滅していった。


 英二の勝利は、ひとつの団体の死と、一人の有能なレスラーを破壊した。


 そしてその“狂気の系譜”が、今――再び異世界のリング上で蠢き始めている。


 如月の指が、不自然なほど大きく弧を描く。関節を極端に曲げ、爪を立てるようにして、研美の鎖骨へと深く引っ掛ける。


 えぐる。


 抉る。


 そぎ落とす。


 その動作は、淡々としていながら、確実に相手を破壊するためだけに磨き抜かれた“狂気の技術”だった。


 リングの上で再び息を吹き返したのは、かつて英二の中で蠢いていた、あの禍々しい闘争の情念。


 今は如月の肉体を器として、静かに、しかし確実にその身を現そうとしていた。

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