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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第97話:狂気

 如月はリング下で静止したまま、研美を凝視していた。


 その眼差しは、まるで凝縮した熱が一点に収束するような凄みを帯び、視線そのものが研美の輪郭を焼き切らんとするほどの圧を放っている。


 リングマット越しに立ちのぼる微かな熱気が、二人の間にゆらぎをつくっていた。しかし、その揺らぎすら如月の集中を乱すことはなかった。


 カナレは、隣で息を呑んだまま動けずにいた。声を掛けるどころか、一歩踏み出すことすらためらわれる。


 如月の気迫は、言葉を差し挟む余白を許していない。背中から伝わるものがあまりにも強すぎて、カナレの胸は自然と締めつけられた。


 如月は、カナレの存在を認識しているのか――それすら判然としない。


 まばたきの間隔すら極端に少ないその目は、《神眼》の発動直前特有の深い沈黙を湛え、すでに未来の分岐を見据えているかのようだった。


 研美の動き、気配、呼吸のリズム。


 そのすべてを如月の視界がひとつずつ分解し、静かに吸い込んでいく。


 まるで、まだ始まっていない“未来の試合”を、ただ一人だけ先に目撃しているようだった。


 カナレは一瞬、まだ整理しきれていない思考の深層で、試合の筋道を組み立てようとした。


 このまま如月がリング下から研美を誘い込むか――あるいは、いつもの機転で一瞬にして引きずり落とすか。


 どちらも如月なら実現可能だ、と反射的に確信へと変わった。


 そうすれば、研美のギフト《一騎当千》が積み上げ続けるバフを、強制的にリセットできる――そのはずだった。


 だがその仮説は、次の瞬間には自ら否定するしかなかった。


 それらは結局、局面を引き延ばすだけの小細工に過ぎない。そう思考を軌道修正せざるを得ないほど、目の前の現実は残酷だった。


 試合開始からまだ一分足らず。自分がギフトを使用した上で全力以上の力を振り絞っても届かない領域を、研美は“生身のまま”容易く踏み越えていた。


 技術やギフトといった計算された攻防ではない、ただ純然たる肉体の出力で。


 その事実が、カナレの胸の奥に冷たい重さとなって沈んだ。


 今の研美の前では、さきほど思い描いたような搦め手は、一手目から粉砕される――そう悟らざるを得なかった。


 一瞬、如月がカナレの方へ視線を投げた。


 瞬きほどの一瞬。けれど、その短さとは裏腹に、全身の血がひやりと縮むほどの圧が宿っていた。


 だが如月はすぐに研美へと視線を戻すと、ロープに手をかけ、ゆっくりとした足取りでリングへと戻っていった。


 背中の動きひとつ、呼吸の深さひとつに、もう迷いはなかった。


 さきほどカナレを見たその目に、言葉の影がわずかに揺れた。


 しかしそれは、いつものように諭すような穏やかさではなく――ただ闘争の本分だけを携えた、静かで決定的な覚悟の色だった。


 思い返すだけで身がすくむ相棒の目。


 研美と向き合う時だけ、如月の奥底からあらわれる良心で覆い被せていた“本来の目”。


 ――怖い。


 その視線を思い出した瞬間、今すぐにでも会場から逃げ出し、バックステージへと駆け込みたい衝動が込み上げた。


 その間、研美も追撃する素振りを見せることはなかった。


 ただ、リングへ上がってくる如月を、どこか余裕のある姿勢で静かに見守っていた。


「いつもの搦め手をつかわないのかい?」


 研美が問いかけたその声は、穏やかで、柔らかくて、まるで本道場で選手を諭すときのような“いつもの研美”だった。


 その一瞬だけ、張りつめていた空気がわずかに緩む。


 リング下で見守っていた選手たちの顔に、重圧という現実から一時的に解放されたような安堵の色が広がった。


 ああ――まだ、人の温度を残している、と。


 だが、そのわずかな平穏は、次に映った研美の表情を見た瞬間に、音もなく掻き消えた。


 声は優しい。言葉の選び方も、確かにいつもの研美そのものだ。


 ――なのに、顔だけがまるで別人だった。


 地の底から這い出た悪鬼のように鋭く尖った目。


 微笑みではない。明らかに何かを欲しているような飢えに飢え、ようやく目の前に獲物を見つけた獣のように、不自然に吊り上がった口元。


 人間らしい声音と、異様に歪んだその表情。


 その致命的な不協和音が、周囲にいた誰の胸にも、氷を押し当てられたような戦慄を走らせた。


「先輩とはサマなしでやりたいんで……」


 研美の異様な空気に呑まれることなく、如月は静かに言い返した。


 だが、その声音の下では、空気そのものが“刃”のように鋭く切れ味を帯びているようだった。


 もうこれ以上の舌戦は不要――互いにそう理解するほどの緊張が、リングの中央に凝縮していく。


「じゃあ、私から行くよ」


 研美が一歩踏み込み、右の手のひらがわずかに開いた。


 何の変哲もない……はずの張り手。


 本来なら、相手の動きを止めるつなぎ技として使うだけの軽い一撃。


 だが、この瞬間だけは違った。


 研美の掌が振り抜かれた軌道は風を裂くように重く、速く、そして抗いようのない迫力を帯びて、一直線に如月の顔面へと飛び込んだ。


 如月は反射的に腕を上げ、ブロックに徹した。


 だが――今回の張り手は“技”ではなく“殺意の塊”だった。


 受け止めた腕ごと衝撃が貫通し、骨を揺さぶり、脳まで直接叩きつけてくる。


 体勢が崩れ、そのままキャンバスへ倒れ込む。視界の端が白く弾け、世界が一瞬だけ反転した。


 脳震盪。


 久しく味わっていなかった、“あの”重い衝撃が、頭蓋の奥で鈍く弾ける。


 そして――その痛みの奥で、鳥肌が総毛立つような歓喜のみ、電撃のように全身を支配していく。


 張られただけなのに、身体が歓ぶ。理性をいとも簡単に飲み込む、危険な高揚。


 如月は、倒れたまま自分の奥底が震え上がるのを止められなかった。


 研美は、リングに膝をついたまま意識を揺らす如月の髪を無造作に掴み、そのまま強引に引き上げた。


 如月の首が軋む音だけが聞こえるほどの力だった。


 次の瞬間、研美の掌底が下から突き上がる。かち上げの張り手――だが、ただの打撃ではない。


 如月の身体は、衝撃で空中へと投げ出された。


 ただ吹き飛ばされたように見えるその軌道にも、研美の側には明確な意図がある。


 受ける側の体勢と攻める側の打点――その配置を一瞬のうちに入れ替え、衝撃の質そのものを変えてしまう。


 研美の必殺技、五月雨。


 連続する雨粒が角度を変えて落ちるように、衝撃のベクトルを細かく散らし、“致命傷だけを回避しつつ痛みと失神寸前の衝撃を最大化する研美独自の技だった。


 本来は最小限のダメージで相手を気絶させるだけの技が、研美の意思で凶器と化した。


 如月はそのまま、キャンバスへ叩きつけられた。


 リング下で見ていたカナレは、咄嗟に如月の名を叫ぼうとした。


 だが喉の奥に硬い何かが詰まり、声帯そのものが凍りついたように動かない。


 息は出るのに、声だけが外へ出ない。


 恐怖なのか、焦りなのか、あるいはもっと深い衝撃なのか――自分でも判別できなかった。


 倒れたまま動かない如月。


 ただ見ていることしかできない己の無力さに耐えきれず、カナレは歯を強く食いしばった。


 呼吸が喉で千切れ、胸の奥で何かが爆発するような感覚のまま、両の掌をマットへ叩きつけた。


 バンッ、バンッ!


 乾いた音がアリーナの空気を裂き、リングの床板がわずかに跳ねる。


 揺れはすぐにロープへ伝わり、その震えが視界の端にまで波紋を広げた。そのひとつひとつに、カナレの悔しさ、怒り、恐怖、全部が混ざっていた。


 声にならない叫びが、掌から直接リングへ叩き込まれていくようだった。


 そのカナレの姿を見た研美は、ふっと、ほんの一拍だけ眉尻を落とした。


 顔の筋肉の動きは微細で、気づける者はほとんどいないような変化。


 しかし、それは確かに“笑い”や“挑発”でもなく、研美の中のどこか――触れてはならない層が揺らいだ瞬間だった。


 悲しそうに見えた。その色は、瞬きひとつで消えるほど脆く、ひどく不可解で、かえって異様さを際立たせた。


 圧倒的な暴力の只中で、突然覗いた“人としての陰り”。それが、かえって今の研美を形作る得体の知れない深淵を強く印象づけていた。


 レフリーの羽鳥が如月の前に身をかがめ、耳元へ声を落とした。


「如月!いけるか!?」


 呼びかけに対し、如月の身体はぴくりとも反応を示さない。


 しかし羽鳥は、すぐに試合を止めなかった。


 この局面で止めるべきか、否か――。


 それは、長年レフェリーとして培ってきた経験を総動員して、一瞬で判断しなければならない問題だった。


 如月の落下姿勢、呼吸の乱れ、研美の距離、次に来るであろう攻防の余白。そのすべてを瞬時に見極めた上で、まだ続行可能と判断したのだ。


 ――そのときだった。


 研美が踏み出した。


 一歩、また一歩。まるで万物を踏み潰すかのような、重く鋭い圧力を帯びた足取り。リングが軋む音だけが、アリーナ全体にじわりと染み渡る。


 羽鳥は即座に判断し、研美の進路を邪魔しない位置へ横へとスライド。その動作の途中、もう一度振り返り、倒れた如月に問いかける。


「如月!いけるか!?」


 今度は先ほどよりも深く、鋭い声。意識があるなら、この声に反応するはず――羽鳥はそう判断していた。


 しかし如月は、まだ動かない。その沈黙が、かえって場の緊張を極限まで引き絞っていく。


 羽鳥の脳裏に、「試合続行不可能」という判断が一瞬かすめた――その瞬間だった。


 タンッ!


 乾いた踏切音とともに、如月の身体がまるで影を脱ぎ捨てるように宙へ跳ね上がった。


 リング中央へ飛び出したその姿が視界に現れた瞬間、観客席からは息を呑んだ後、一転して歓声が爆発した。


 如月は軽やかに着地すると、さっきまで倒れていたとは思えない静かな立ち姿で研美を見据えた。


 ダメージの色を一切感じさせない。ただ、凪のような眼差しで相手を射抜いている。


 天地合戦術――転乱。


 外から受けた衝撃をそのまま身体に通さず、体内を“満ちる水”に見立てて衝撃を分散し、波立ちの方向を意図的に乱して逃がす。


 打撃が体表に当たった瞬間、如月の身体の内部は、水面を揺らす無数の小波のように衝撃を反転・拡散させていた。


 そのため、表向きは倒れたように見えても、致命的なダメージを一切残さない。


 転じて乱す――その名の通りの術。


 研美の五月雨と対極的な技ではあるが、如月の経験値が勝り、完全にその技を封殺したかに見えた。


 如月は、まだ息を整えることすらしなかった。まるで何事もなかったかのように、静かに研美と向き合っている――。


 だが外見の静けさとは裏腹に、身体の奥では冷気がじわりと背骨を這い上がっていた。


 皮膚の下を冷たい指先で撫でられるような、逃げ場のない“異常”の気配。


 さきほど受けた研美の打撃は、単なる強打ではなく、むしろ精密機器のように異様な正確さを持っていた。


 如月は転乱によって、意識消失の致命的な深度だけを的確に“切り取り”、身体の奥へ到達する前に消した。


 だがその一方で、表皮すれすれをかすめた痛みと、刃先のように細く鋭い恐怖だけは、寸分の誤差もなく残されていた。


 それはまるで、衝撃の核心だけを意図的に抜き取り、痛みと恐怖だけを丹念に研ぎ上げて渡してきたかのようだった。


 その感覚が、如月の体内でいまだ微かに震え続けている。


 肉体は守られたのに、心の深部だけが“むき出し”のまま晒されたような、奇妙な不安と寒気が残っていた。


 その残滓が如月の胸の内側で微かに震えながら、恐怖の刺激を徐々に別の感覚へと変質させていく。


 ――高揚。


 ――昂ぶり。


 そして、歓喜。


 逃げ場をなくした恐怖心が、むしろ如月の奥底に潜む衝動を押し上げていく。心臓が早鐘を打ち、こめかみが熱を帯び、血流の速度がわずかに跳ね上がる。


 如月はまだ冷静を装っていた。


 だが、その内側はすでに“戦いを求める自分”が顔を出し始めていた。


 観客たちは、リング上の攻防をただ見守るだけで、誰一人として声を発しなかった。


 応援やざわめき、そして歓声も消え、アリーナ全体がまるで息を潜めた洞窟のような静けさに包まれている。


 プロレス的な演出や派手さは一切ない。


 あるのは、確実に相手を嬲り、追い詰めるためだけに研ぎ澄まされた技巧と、自然の理をそのまま体現したような狂気じみた精度の攻防。


 まるで研美の体から発せられる禍々しい毒気と呼応しているかのように、試合前の冷静な表情から一変し、狂気に支配されつつあった。


 その異様さが、観客の喉元を掴むように沈黙を強いていた。


 耐えきれないほどの静寂が続き、実況席の古田は自分が呼吸をしているのかすら分からなくなりながら、我に返るようにマイクへ口を寄せた。


「……観客席からも声が消えております。これは……まるで、強要された沈黙のようにすら感じます」


 その言葉がアリーナ全体の緊張をさらに固くした直後、研美がゆっくりと如月の方へ目を向けた。


「器用だねぇ……」


 笑顔。


 だがその表情は、人間が浮かべるそれとは何かが決定的に違っていた。


 口角だけが不自然に引きつり、頬の筋肉がぎこちなく盛り上がる。


 対照的に、目は微動だにせず鋭く光り、まるで獲物が自ら立ち上がるのを期待している捕食者の視線だった。


 観客席からは、再び沈黙すら吸い込むような圧力が落ちた。


 ――その瞬間。


 研美の視界から、如月の姿がふっと消えた。


 正確には“消えたように見えた”。視認できる速度の領域から、如月の動きが一気に外へ跳ね飛んだのだ。


 次の刹那、アリーナに凄絶な衝撃音が響き渡った。


 重く、鈍く、体を鈍器で殴りつけたかのような、生理的嫌悪を呼び起こす“骨と肉が爆ぜる音”を連想させる生々しい音。


 如月は体勢を極限まで低くし、まるで地を這う獣のようにリングを滑り込んでいた。床との摩擦音すら発生しない速度で横合いへ潜り込み、肘を前へ突き立てる。


 その軌道は直線ではなく、研美の急所を正確にえぐり取るための曲線を描いていた。


 肘が研美の腹部下段――そこから心臓へと向かう急角度のラインを、まるで“下から魂ごと引き抜く”ように突き上げる。


 空気が爆ぜ、リング全体が低く震えた。


 突き上げの一撃が研美の胴をえぐったその瞬間、如月の顔つきが研美と酷似した“人ならざる色”へと変貌した。


 歓喜――。


 だがそれは闘争の喜びではない。何かを得るために何かを切り捨てるような、人としての理性の層を一枚ずつ剥ぎ落とした末に残る、危うい原初の表情。


 アリーナ上部の大型スクリーンに、その歪んだ顔が鮮明に映し出された。


「ヒィッ……」


 押し殺した悲鳴が観客席のあちこちで漏れた。


 誰も大声を出せない。


 ただ、耐えきれず漏れた声だけが、静まり返った空間に刺さった。


 リング下で見守るカナレは、その顔を真正面から見てしまった。


 如月の顔――。


 自分が知っている如月ではない。


 優しさも、慈しみすら感じない。かつて言葉の届いた相棒の気配は、その場から完全に消えていた。


 それは、恐怖のあまり目を逸らしたくなるのに、どうしても逸らせない“理解不能な表情”だった。


 カナレは、自分の喉が勝手に鳴るのを感じながら、それでも視線を外せなかった。


 見たくない。


 けれど――見ていなければいけない。


 そんな義務感ともつかない感情が、カナレの足をその場に縫い付けていた。


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