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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第55話:望まぬ決着

 カナレと楓が場外で激しくぶつかり合っているその頃、リング上では、如月と正美が真正面からにらみ合っていた。


 空気が張り詰めている。観客の歓声さえ遠くに感じるほど、二人の間に漂う緊迫感がリング全体を支配していた。


 呼吸の音、マットをきしませるわずかな足音。そのひとつひとつが、互いの鼓動を暴くように響く。


 ――50分経過!残り10分!


 リングアナ田辺の張りのある声が、スピーカーを震わせてアリーナの隅々まで突き刺さった。


 その瞬間、観客席がざわめく。長時間に及ぶ死闘が終盤に差し掛かっていることを、誰もが肌で、息で、血の鼓動で感じ取っていた。


 空調の風さえ熱に呑まれ、リング上の空気は濃密に滞っている。熱気と汗とマットの匂い。照明が照り返す白光、選手たちの肌を焼くように照らしていた。


 だが、リング上の二人にとって――制限時間など、もはや意味をなしていなかった。


 この戦いの中で、時間はすでに壊れている。あるのはただ、「倒す」か「倒される」か、その二択だけ。


 今この瞬間が永遠にも感じられ、過去、未来どちらも存在しない。


 ただ、刹那の連続だけが二人を支配していた。


 正美の瞳は獣のように鋭く光り、呼吸の音がわずかに震える。相手の肺の膨らみ、指先の揺れ、踏み込みの角度――。


 その全てを読み取っている。見逃せば終わり、遅れれば潰される。だから、瞬きすらできない。


 筋肉は軋み、全身から噴き出す汗がマットに点を描く。肺は焼けるように痛み、心臓は胸を突き破らんばかりに鳴っている。それでも、動きを止めるという選択肢はない。止まった瞬間に、勝負は終わる。


 如月の視線が鋭く突き刺さる。その笑みは挑発ではなく、静かな自信の表れ。真正面からぶつかる覚悟を帯びた二人の気迫が、リング上でぶつかり、火花のように弾けた。


 (……ここで迷えば終わる)


 正美は、己のギフトをどこで使うべきか、見極めあぐねていた。焦りはない。ただ、冷たい思考だけが脳裏をめぐる。


 ――どこで放つか。どこまで耐えるか。その一手で、勝敗が決まる。


 如月の瞳は、まるで氷のように澄んでいた。ただ、勝利だけを見据える眼。


 その無言の圧力が、正美の背中にじりじりと迫っていた。


 四文字ギフト――以夷制夷いいせいい


 その能力は封殺。 相手の放つギフトを一瞬で読み取り、その根源ごと奪い取ることができる。だが、奪った力を自らが使うことはできないが、相手の数時間で体験した思考を断続的に読み取ることができる。


 それは“模倣”ではなく、“封印”――奪った瞬間、相手はその力を失い、能力者の内でただ沈黙する。


 発動には相手の力が実際に行使される必要があり、仕掛ける側にはなれない。

相手が力を出さなければ奪う術もなく、また奪った力を利用することも許されない。


 発動範囲は「リング内とリングサイド」に限られ、近距離でしか成立しない。相手の強大なギフトを奪えれば決定的な優位を得るが、その力を扱えぬまま抱え続けることになる。


 奪い、封じ、使えず、抱える――それが「以夷制夷」の宿命である。


 ――正美のギフト、は相手に触れる必要はなく、あくまで相手に触れる動作はギフトの発動条件を相手に刷り込ませるためのブラフに過ぎなかった。


 そして、お互いのギフトが持つデメリットを補いながらリングで勝利を積み上げてきた。まさに四文字ギフトのタッグの完成形。


 技が使えない縛りを楓の以心伝心で能力を移し替える。そうすることでギフト自体の能力に迷彩をかけた。


 完璧な攻防と自負していた。


 しかし、正美は、リングで対峙している如月の笑みを見ながら、その奥に潜む意図を感じ取っていた。


 まるで「アンタの次の一手はもう読めている」とでも言いたげな、底の見えない微笑だった。


 ならば――もうギフトに頼る必要はない。


 正美は積み上げてきた修練により完成されたギフトの使用をやめ、己の肉体そのものを信じる決断を下した。


 ――長年、地を這い、血を吐くような練習に耐えてきた己の自身の体を。


 幾万の受け身と、幾度もの怪我を乗り越えてきた体。それが、今この瞬間だけは“技”よりも確かな武器になる。


 如月が、静夜のような静けさでジリジリと間合いを詰めてくる。


 その一歩ごとに、足音がマットを鳴らす。空気が重く沈み、観客のざわめきさえ遠のいていく。


 互いの呼吸だけが、リングの上に残された音。


 その瞬間――正美の瞳がわずかに光った。


 (今だ……)


 反射のように、正美の身体が弾ける。掌底の連打が閃光のように走り、如月の上体がわずかに仰け反る。重心が崩れた刹那、正美は一歩踏み込み、身体を正面へ滑り込む。


 ――フロントスープレックス。


 腰を切り、軸を通し、爆発的な力で如月の体を宙へと持ち上げた。金属のような衝撃音がマットを揺らし、観客席が一瞬息を呑む。正美の動きに一分の隙もなかった。まさしく“完璧”なスープレックスだった。


 そのままリングに倒れ込むと、正美は即座に立ち上がった。如月が上体を起こし始めた、その刹那――視線が交錯する。


 正美は助走を取るためロープへと駆け出した。足音がマットを叩き、ロープの弾力が全身に返ってくる。


 トップロープへと軽やかに飛び乗り、反動を利用して高く跳躍。空中で身体をひねり、前方回転――180度。


 その瞬間、観客の視界が一瞬止まった。正美の体が宙に描く弧はまるで一輪の花のように美しく、そして鋭かった。


 そのまま開脚した状態で如月の両肩に乗り、両脚でその頭部をがっちりと挟み込む。如月の体がわずかに揺れた、その瞬間――正美が体をひねり、腰を軸に一気に回転する。


 シュッ!


 空気を裂くような鋭い音が鳴り、如月の体が宙に舞う。上下が反転したまま、マットへ。


 ――ドオォン!


 重い衝撃音がアリーナの空気を揺らした。


 フランケンシュタイナーの要領でそのまま丸め込み、フォールの体勢に入る。動作は一瞬、しかし研ぎ澄まされた流れに無駄がない。


 ――正美のオリジナル技。


 崩雪花ほうせつか


 マットが震え、スポットライトが反射して閃光を放つ。観客席からどよめきが爆発した。


「うおぉっ!」


「決まったぁぁッ!」


 光が一斉に弾け、フラッシュの雨がリングを包み込む。


 その渦の中で、正美の動きだけが静止して見えた。息を殺し、如月の肩を押さえ込む両腕に、細かな震えが走る。歓声か、はたまた悲鳴なのか、誰も区別できない。


 ただ、アリーナ全体が“崩雪花”という名の技から繰り出された衝撃に呑み込まれていた。


 フォール!


「――ワンッ!」


「――ツーッ!」


 如月、驚異の切り返し!弾かれたように肩を跳ね上げる!


 正美はすぐさま立ち上がる。逃がすものかと――。


 その気迫が全身から噴き出していた。如月の膝を狙い、低く沈み込むようにタックル!


 教科書のように正確なフォームで、重心を一点に集中させる。


 マットが震える音と共に、如月の体が再び倒れ込む。正美の息は荒く、額には汗が滝のように流れていた。それでも瞳の光は消えない。


 ――ここで決める。そんな闘志が、リングの空気を灼くほどに燃え上がっていた。


「正美選手、完全にスイッチが入りましたね!」


 実況席の古田がマイクを握りしめ、声を張り上げる。


「ええ、完全に“捕まえた”と確信している表情です」


 山北の低い声が重なる。


「如月選手は防御も上手いですが、今のは避ける間もなかった。これは正美選手の読みの勝利ですよ」


「一切、如月のターンは作らせない!そんな気迫が正美には宿っています!」


 古田の言葉がアリーナの轟音に溶ける。


 間髪入れずに膝十字が極まる。


「出たっ!正美の膝十字!速い、深い、完璧な角度だ!」


 古田が叫ぶ。


「……いや、如月も動いていますよ。あれは――」


 山北の声がわずかに震える。


「足首を……取った!ヒールホールドです!」


 如月は、決まる寸前に正美の足首を捉えて、ヒールホールド”で返す。


 正美の膝十字が極まる――しかし、如月の体が一瞬で反転する。自らの脚を軸に、正美の足首を抱え込み、膝裏に圧をかけた。鋭い痛みが走り、正美の顔が歪む。


「早い!まるで時間が巻き戻ったみたいだ!」


 古田が叫び、山北がかぶせる。


「どちらも技の深さを熟知している。ほんの一瞬の遅れが命取りになります」


 “危ない!”と判断した正美が即座に脚を放した。


 しかし、如月はその反動を逃さず、体をひねって逆方向から正美の脚を絡め取る!一瞬で下から上への体勢を切り返し、逆膝十字を狙いにいった!


 古田と山北がリングを見入るようにヘッドマイクを握り締めながら叫ぶ。


「うわっ、入れ替えた!如月が逆を取った!逆膝十字で……返しにいったぁ!」


「正美が攻めていた流れを、完全に返しました。ここが如月の恐ろしさです」


 逆に、正美へ逆膝十字を極めた!


「ぐっ!……」


 正美の額に脂汗がにじむ。レフリーが駆け寄り、叫ぶ。


「正美!まだいけるか!?」


「これは危険です、角度が深い!」


 山北の声に焦りが混じる。


「もう少しで関節が限界を迎える――!」


 その問いに、正美は首を横に振った。


 強烈な逆膝十字が極まっている――だが、如月はなぜかそのロックを解く。


「えっ!?なぜか外しました!?」


 古田が、一瞬戸惑ったような仕草でリングを見る。


 理解できない正美。


 だが、迷いは一秒たりとも許されない。正美は反射的に体勢を立て直し、助走も取らずに跳び上がる。


 フライングニールキック!


 マットを蹴る音が「ドッ」と響いた瞬間、如月の前に閃光のような膝が迫る。


 だが如月はまるで見えていたかのように、その足を両腕で受け止めた。


 衝突の振動が空気を裂く。正美の足首を逆方向へねじり上げると、そのまま如月は体をひねり、ねじり上げる。


 ギュルンッ!


 ドラゴンスクリュー!


 空気がうなり、マットを叩く音が一瞬遅れて耳に届く。正美の体が宙を舞い、強烈な回転が脚をえぐるように襲った。


 しかし、倒れ込む寸前――正美の視線が動く。


 痛みに耐えながらも、意識的に如月の近くへ身体を倒す。転がりながらも、腕を取れる位置をキープするように体を滑らせた。


 けれども、その判断すら見透かしていたかのように、如月は倒れることなく――。


 パシンッ!


 跳ね起きる。その反動を利用してロープへ一直線に走り出す。


 正美はその姿を視界に捉え、即座に反転。如月の軌道上から外れるように身を翻し、膝をつきながら立ち上がる。呼吸が荒い。


 だが目は死んでいない。


 狙いを定めた――が。


 如月の姿が、そこにはなかった。


(……どこ!?)


 空気が、一瞬――止まった。


 観客のざわめきが、まるで誰かがスイッチを切ったかのように消える。耳鳴りだけが、世界の底で微かに震えている。


 正美の背筋を、氷の刃のような冷たさが駆け抜けた。血の気が引く。肌が総毛立つ。リングの上に漂う空気が、異様に重く、粘つくようにまとわりつく。


 ――背後に、気配。


 反応するより早く、心臓が跳ね上がる。呼吸が詰まり、時間の輪郭がにじむ。


 スパァンッ!


 風が頬を裂き、視界の端が白く閃いた。ロープの反動を最大限に利用した如月の影が、対角線上から音もなく迫る。


 その動きは――まるで一瞬だけ、重力の法則から外れたようだった。助走をつけて放たれた膝蹴りが、弧を描くように走り抜け、正美の顎を正確に貫く。


 ゴッ!


 乾いた衝撃音と共に、正美の頭が跳ね上がる。顎を伝って汗が飛び散り、リングライトの光が細かな粒になって宙を舞った。脳が揺れる。視界が瞬間的に真っ白に弾ける。


 ――視穿ち(みうがち)。


 ギフト神眼。


 その副作用として、まれに他者の思考の残響を“拾い上げる”ことがある。如月はその一瞬の残響を利用し、あえて虚の隙を作った。見えない“幻のタイミング”を先に植え付け、そこから現実の一撃を重ねる――。


 それは、フェイントの究極系。見た者すら、今何が起こったのか理解できない。


 ただ、ひとつだけ確かなのは――如月の膝が、王者の顎を穿ったという事実だけだった。


 正美は意識を必死に繋ぎ止めながらリングに倒れ込む。それでも、王者としての意地を見せるように手を伸ばす。


 如月は、瞬発力を爆発させながら滑るように動き、正美の両脚をすくい取った。そのまま軸を入れ替え、流れるように――足四の字固め!


 がっちりと組み上げ、完全に正美をロックした。


「ぐあっ!……」


 悲鳴とも唸りともつかぬ声が漏れる。膝関節が悲鳴を上げ、筋繊維が千切れそうなほどに引き伸ばされる。正美の顔が苦痛で歪み、額から汗が滝のように流れ落ちる。


 それでも、腕は止まらない。ロープを目指し、這うように手を伸ばす。


 ――だが、動くたびに痛みが波のように押し寄せ、全身を焼く。


「ぐぅぅっ!……」


 呼吸が乱れ、声にならない嗚咽が漏れる。それでも、正美はあきらめなかった。


 レフリーが駆け寄り、叫ぶ。


「正美!ギブアップか!?」


 歯を食いしばり、首を横に振る。その瞳にはまだ光が宿っていた。


 ――その時。


 アリーナのスピーカーから、無機質なカウントが流れ始めた。


「10秒前――!」


 観客のどよめきが再び広がる。試合終了を告げる、運命のカウントダウン。


 ――あと10秒。


 この痛みに、あと十秒だけ耐えればいい。NMACのルールでは、60分経過で時間切れ引き分け――タイムアップ・ドロー。


 勝ちではない。だが、負けでもない。


 それが、今の自分に残された唯一の“生存条件”だった。


 だが、その十秒が、果てしなく遠い。


 呼吸の一つひとつが爆ぜるように苦しく、視界の端が白く滲む。関節から火花が散るような痛み。脳を焼き、全身の神経が軋みを上げている。


 ――たった十秒。


 けれど、指先を動かすことさえも遠い。時計の針が止まったかのように、世界が遅く流れている。


 心臓の鼓動が、ドクン、ドクン、と耳の奥で鳴り続ける。痛みが、時間を押しとどめる。


 (……絶対にタップしない!)


 心の叫びだけが、意識の底で揺らいでいた。


「9……」


 マットが汗で滑る。指先が空を掴む。如月の腕の力が微かに締まり、痛みが倍増する。


「8……」


 世界がゆっくりと歪む。音が遠のき、心臓の鼓動だけが耳に響く。


「7……」


 額の汗が吹き上がり、歯を食いしばる音がリング上にこだまする。顎の奥が震え、血の味が口に広がった。


「6……」


 如月の表情には、焦りはない。あるのは静謐。まるで感情そのものを封じ込めたような、研ぎ澄まされた冷静さ。


「5……」


 極めにいくでもなく、壊すでもない。


 ただ、相手を“この場所に留めておく”ことだけを目的にしたような淡々とした動き。それが、かえって不気味なほどの支配力を放っていた。


「4……」


 リング下から、カナレの声が響く。


「如月っち!思いっきり極めろ!」


 だが、その声は遠く霞んでいた。カウントだけが、無情に響く。


「3……」


 痛みに耐えながら、遠くで響くカウントの声を、正美はまるで夢の中の残響のように聞いていた。


 意識が霞む中で、それでも彼女の胸にはひとつの思いが浮かぶ――。


 ――これが王者の戦いなのかと。


「2……」


 そして、正美は、灼けるような痛みの奥で気づいた。足四の字のロックに妙な違和感があることを。


 ――これは、如月が最初から描いていた結末なのではないか。勝利よりも“決着”を拒む、静かな選択。自分をギブアップさせることもできるのに、あえてしない。


「1……」


 観客の声援が爆発する。


「行けぇぇッ!」


「耐えろォォッ!」


 ――歓声と悲鳴が入り混じる。


 ――そして。


 カン!カンカン!カン!


 金属の音がアリーナを貫いた瞬間、60分の激闘が終わりを告げた。


 如月は、静かに手をほどき、足四の字を解いた。正美の脚が、力なくマットへと落ちる。


 リングアナ田辺の声が、熱気を裂くように響き渡った。


 「60分経過により――時間切れで、両者引き分け!」


 観客席から大きな拍手と歓声が沸き起こる。勝者はいない。


 だが、敗者もいない。残ったのは、限界を超えてなお闘い抜いた二人への、純粋な敬意だけだった。


 タッグチャンピオンのベルトは動かず。


 試合は――魂と誇りを賭けたまま、静かに幕を閉じた。

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