第48話:望月の涙
バックステージでは、勝者の望月が各メディアからインタビューを受けていた。
勝者としてスポットを浴びているはずなのに、その表情は複雑だった。望月の周囲には記者や報道陣が円を描くように取り囲み、カメラのフラッシュが絶え間なく光を浴びせる。
全力を出し切った充足感がうっすらと浮かぶ一方で、どこか納得できないという表情を抑えながら平常心を保っている。
笑顔を作ろうとしても、口元がわずかに引きつり、居心地の悪さが隠せない。
「望月選手、今回のデビュー戦を島村選手と戦って勝利しましたが今の心境は?」
その中でも、他社の記者たちを強引に押しのけて陣取った『週刊リング王』の記者が問いかける。無遠慮な声が、まだ整理のつかない思考を切り裂くように響いた。
週刊リング王――。
週間グラップルと双璧をなす女子プロ専門誌の大手である。関西に拠点を置き、強引な取材を敢行しての記事作りで読者の心をつかむことに定評がある。編集長のラーマン南場は、KDPの息がかかっているとも囁かれていた。
その姿勢は部下たちにも色濃く受け継がれており、記者の視線はどこか挑発的だ。まるで「失言を引き出してやろう」とでも言わんばかりに、質問の一言ごとにわずかなトゲが潜んでいる。
カメラマンも半歩ずつ前に詰め寄り、フラッシュを浴びせて望月の表情を逃すまいとする。勝者であるはずの彼女は、記者たちの円陣の中央で、居心地の悪い包囲網に押し込められていた。
差し出されたマイクが彼女の口元へ迫り、背後ではカメラのシャッター音が断続的に響く。
バックステージの狭い空間は、熱気というよりも獲物を追い詰めるような圧で満たされていた。
望月はほんのわずかに視線を逸らし、答えを探すように唇を引き結んだ。勝ったはずなのに、胸の奥には釈然としないものが残っていた。
「ただの勝利報告」では記事にならない――そう言わんばかりに、マイクを握る手には微かな力がこもっていた。
――勝ったはずなのに、胸の奥は重い。脳裏に浮かぶのは、必死に食らいついてきた島村の姿だった。
やがて望月は顔を上げ、遠くを見るような眼差しで口を開いた。
「そうですね……私としては島村選手のすべてを抑えたわけではないので、完璧な勝利とは思っていません」
その言葉に反応するように、フラッシュが一斉にたかれた。バックステージの狭い空間が光に焼かれ、望月は思わず目を細める。
「では、近く再戦はあるということですか?望月選手ご自身もそれを望んでいると?」
記者が間髪入れずに畳みかける。言葉尻を捉えようとする鋭さに、周囲の空気が一段と重くなる。
望月は煩わしそうに眉をひそめ、吐き捨てるように自分の思いを述べた。
「それは団体が決めることで、私の一存ではどうすることもできませんので……」
カメラのレンズが突きつけられるように目の前で光る。そのたびに、彼女の心に溜まる澱が少しずつ膨らんでいった。
記者はそれを見逃さず、さらに前のめりに身を乗り出す。口を開きかけたその瞬間――。
「すみませんが、そろそろ選手を戻してやりたいので、お引き取り頂けますか?」
背後から低く、よく通る迫力のある声が響いた。
――斎藤だった。
その姿が現れた瞬間、バックステージの空気が一変する。
鋭い視線が記者たちを射抜き、まるで全身を貫かれたように誰もが口をつぐんだ。さっきまで強気にマイクを突き出していたインタビュアーも、声を失い、視線を泳がせる。
重苦しい沈黙ののち、記者やインタビュアーは気まずそうに顔を見合わせ、「ありがとうございました……」と気のない挨拶を残して退散していった。
シャッター音とフラッシュは消え、先ほどまでの喧噪が嘘のように静まり返る。
「まったく……」
斎藤が吐き出したため息。
その横で望月は背筋を伸ばし、硬直している。まるで上官に直立する兵士のようだった。
そんな望月の様子をちらっと見ると、斎藤は声を落として静かに言った。低く落ち着いた声音は、叱責や慰めでもなく、ただ揺るぎない事実を告げるようだった。
「何をそんなに緊張している。お前はQueen Beeの選手で、デビュー戦を勝利したんだ。胸を張れ」
短く簡潔な言葉。しかしその一言には、団体を背負ってきた者だけが持つ重みが宿っていた。
望月の胸にじんわりと沁み込み、背筋をさらに伸ばさずにはいられない。
斎藤は、それ以上語らず、肩をポンと優しく叩くと、そのまま背を向けて歩き出した。去り際の背中は大きく、包み込むような安心感を残していった。
そして、遠巻きで様子を見ていた如月たちが、ようやく安心したように近づいてくる。
「お疲れさん!いい試合だったぜ」
気さくに声をかける如月。肩を軽く叩く仕草には、仲間としての労いと、気恥ずかしさを隠した照れが混じっていた。
だが望月は、首にかけていたスポーツタオルで額の汗をぬぐいながら、小さく「ありがと……」とだけ返す。
その声音は低く、表情も曇ったまま。労いの言葉を受け止めながらも、心はどこか遠くへ置き去りにされているようだった。
タオルを握る指先にはまだ力がこもり、額を拭う仕草もぎこちない。視線は如月たちに向けられていながらも、焦点は定まらず、心ここにあらずといった様子だった。
声の調子や表情もどこか硬いままで、どこか遠くに意識を置いているように見える。
勝利の余韻よりも悔やむ色が濃く、その胸の奥に渦巻く煮え切らない気持ちが、言葉の端々から透けていた。
如月たちは互いに目配せを交わし、無理に深く踏み込むことはせず、軽く挨拶だけ済ませてその場を後にしようとした。
しかし――望月は去ろうとする如月の手を、不意に摑んだ。
突然のことに如月も一瞬だけ動揺したが、すぐに気にも留めず、いつもの調子で「どした?」とだけ口にする。
その視線の先、望月の目には涙があふれていた。頬を伝う滴は、勝利の余韻とはかけ離れた色を帯びている。
状況を理解できずに戸惑うカナレとSAKEBI。
しかし如月は、どこか思うところがあるのか、真っ赤に泣き腫らした望月の瞳を優しく見つめ返した。
望月の胸に渦巻くのは、言葉にできない思い。喜びとも悔しさともつかないその感情は、彼女自身にも整理がついていない。
涙に揺れる視界の中で、如月が静かに答える。
「……まぁ気にすんな。今は自分を誇れ」
その言葉に望月は胸を突かれ、強く握りしめていた如月の腕がふっと緩む。
そして、先ほどの斎藤と同じように肩を軽く叩くと、そのまま背を向けて歩き出した。
理由もわからないまま、残されたカナレとSAKEBIは望月を心配そうに見つめる。だが下を向き、涙をこぼす望月を後に、二人は如月を追いかけていった。
途端に、喧騒の中に取り残されたような感覚が望月を包む。
アリーナからは次に控える選手の入場曲が重低音を響かせて壁を震わせ、観客のあおり声や歓声が押し寄せてくる。
けれど、その熱狂の渦とは裏腹に、この場だけが切り離されたように冷たく、空虚だった。
一人残された望月は、ついに立っていられず、その場にしゃがみ込む。両手をついた床は冷たく、さっきまでリングで燃やしていた熱が嘘のように奪われていく。
その冷たさが、胸の奥の虚しさと重なった。望月は膝を抱え、俯いたまま動けずにいた。
その背後に、ふと柔らかな足音が近づいてくる。照明の明滅に合わせるように、影がゆっくりと伸びていく。
望月は違和感に気づき、恐る恐る顔を上げた。そこには、柔らかな光をまとったように、優しく微笑む島村の姿があった。
お互いに臨まぬ結果となった手前、望月はどう接していいか分からず、ただ顔を伏せたまま肩を震わせる。堪えようとすればするほど、また涙があふれ出す。
そんな望月に、島村は静かにしゃがみ込み、手にしていたスポーツタオルを差し出した。
ためらいもなく、その涙を拭い取る仕草は実に自然で、まるで姉が妹を慰めるような優しさがあった。
「勝者が泣いてちゃだめですよ。」
耳元で響いた声は柔らかく、それでいて芯が通っていた。その一言が胸を突き、望月は堪えきれず、さらに泣き崩れてしまう。
島村は何も言わず、ただ黙ってその背を摩り続けた。一定のリズムで繰り返されるその温もりは、望月の震えを少しずつ和らげていく。
「私……如月に悪いことした!……ゆいにも……中途半端な気持ちでリングに上がって……」
言葉が途切れ、嗚咽で喉が震える。涙と一緒に胸の奥に溜め込んでいた思いがこぼれ出し、望月は自分を抑えられなかった。
試合後の安堵と後悔、憧れと罪悪感――それらが絡まり合い、言葉にするたび心臓を締めつける。
島村は静かに望月の隣に座り込み、傍を離れようとはしなかった。何も言わず、ただ背に手を添える温もりだけで答える。
その沈黙は涙を流すことを許すような優しさだった。
――その頃。
如月はカナレと割り当てられた控室に入ると、心の澱を吐き出すように大きく息を吐き、パイプ椅子に腰を下ろした。
背もたれに体を預ける仕草には、戦いの疲労以上に、どこか言葉にできない重さがにじんでいる。
すぐ後を追ってカナレとSAKEBIも入ってくる。二人とも息を整えながら、島村達の試合を見届けた直後の高揚感をまだ引きずっていた。
だが、如月の様子を目にした瞬間、その空気は一変する。
「どうしたんッスか?如月さん」
SAKEBIが首をかしげて声をかける。
だが如月は答えない。ただ口元に、かすかに笑みを作ってみせただけだった。
それは笑顔というより、仲間を心配させまいとするための仮面に近い。目の奥には光がなく、吐き出せない言葉だけが澱のように沈んでいる。
カナレとSAKEBIは顔を見合わせた。
さっき望月が涙を流していた姿と、今の如月の沈黙――2つを重ね合わせれば、何かがあるのは明らかだった。
だが問い詰めることもできず、ただ互いの視線に「やっぱり……」という思いを宿す。
控室の狭い空間に広がるのは、戦いの熱気とは正反対の、重たい沈黙。時計の秒針の音すらやけに大きく響き、三人の間に見えない隔たりを形作っていた。
普段から共に行動する仲間で、特に表立った素振りは見せない二人。
しかし、何となく漂う違和感は消えなかった。
――時間は流れ、NEXT QUEEN’S GATEの第二、第三試合が終了した。
斎藤の感じたとおり、豊作揃いの選手たちは、第一試合の望月と島村の激闘に奮起し、自らのポテンシャルを超える力を発揮した。
極限の精神力から繰り出される力と技の応酬が次々と観客の心をとらえ、歓声がアリーナを揺らした。
その一瞬に、観客の視線と祈りが注がれ、リングは単なる勝敗を決める場ではなくなっていた。
そこに立つ選手たちは、観る者にとって偶像であり、希望であり、あるいは信じるに足る存在そのもの――。
いつしかリング上は、一種の「信仰」の舞台と化す光景。
そんな熱気が漂う中、控室のドアがノックされる。低く短いその音が、外の歓声と重低音に満ちた空気を切り裂くように響いた。
ハニーハンドの進行役が顔をのぞかせ、如月たちに出番を告げに来たのだ。
如月は座ったまま背伸びをし、緊張をほぐすように肩を回すと、そのまま立ち上がり、カナレを見据えて言った。
「それじゃ、行きますか!」
その一言は静かでありながらも、確かな重みを帯びていた。カナレは反射的にピクリと肩を震わせる。背中を汗が一筋流れ落ち、リングへ向かう実感が一気に全身を駆け抜けていく。
SAKEBIも心配そうに見守る。仲間の間に、どこかよくない流れが渦巻いていると感じたからだ。
普段なら軽口を叩いて場を和ませる彼女も、この瞬間ばかりは言葉を選んでいた。
「何やってんだ?」
準備もせず立ち尽くすカナレに、如月が声をかける。
だが返事はすぐには返ってこない。カナレの唇がかすかに震え、ようやく搾り出した声は小さく曇っていた。
「うん……」
その歯切れの悪い返事が、室内にひときわ重く響く。如月は小さく首をかしげると、表情を引き締め、真剣な面持ちで一歩踏み出した。
「また気落ちしてんのか?」
その声音は厳しさよりも、心配と気遣いの色を濃く含んでいた。
そう言うと、カナレは小さくうなずいた。目は伏せられ、握りしめた拳がわずかに震えている。
(……浮き沈みの激しい子だ。まぁ、その不安定さも、ひとつの花かもしれんな……)
如月は心の中でそうつぶやき、軽く息を吐いた。
「よし!こんな時にはとっておきの方法があるんだよ」
わざと大げさに言うその口ぶりに、SAKEBIは首をかしげつつも、どこか聞き覚えのある気配を感じ取る。
――このセリフ、前にも聞いたような……。デジャブが脳裏をかすめた。
如月がカナレの掌を取ると、指先で素早く「米」の字を書き入れた。かつてカナレ自身が島村や望月に得意げに教えていた、間違った緊張ほぐしの方法だ。
「ほれ、飲んでみ」
口元でニッと笑いながら促す如月。
カナレは一瞬きょとんとしたが、やがて真剣な面持ちで小さくうなずくと、両手を合わせるように掌の文字を口元へと運んでいった。
促されるまま、カナレは掌に描かれた「米」の字を飲み込む仕草をする。
その所作は妙に真剣で、まるで本当に何かを体内に取り込んだかのようだった。
その様子にSAKEBIは思わずケラケラと笑い声をあげる。緊張に張りつめていた空気が一気に崩れ、つられて如月も吹き出し、ついにはカナレ自身まで笑ってしまった。
笑いの余韻の中、如月が「元気でたか?」と軽く肩を叩きながら尋ねる。カナレはにっと笑顔を見せ、力強くガッツポーズを返した。
その仕草は先ほどまでの弱気を吹き飛ばし、彼女本来の勢いを取り戻したように見えた。
「よーし!行くぞ!」
カナレは気合いを入れるように声を張り上げ、その場で勢いよく着替えにかかろうとした。
しかし如月はすかさず手を伸ばし、慣れた手つきでカナレの背中を押し、更衣室へと半ば強引に押し込んだ。
「ったく、ここで脱ぐなっての……」
苦笑混じりの一言に、カナレは「へへっ」と照れ笑いを返す。
そんな二人のやり取りを、SAKEBIはニヤリと笑って見守っていた。仲間同士の何気ない掛け合いに、重苦しかった空気はすっかり和らいでいた。
だが、このあと待つのは新人にして最大の試練――。
今宵、如月とカナレという新星コンビは、現役BHCタッグチャンピオンと拳を交える。
控室の壁越しに、観客の歓声と入場曲のビートが地鳴りのように伝わってくる。
二人の胸には、すでにゴングの音が鳴り響いていた。




