鈴の音
南方への街道を進む中、キアンの真実視に奇妙な色が視えた。
人間ではない。ダエーワでもない。視えたのは澄んだ灰色──善悪のどちらにも偏っていない、中立的な色彩だった。これまで視てきたどの色とも異なっている。人間なら赤か白か、その混濁が視える。ダエーワなら禍々しい黒紫。だがこの灰色は、どちらの範疇にも入らない。善でも悪でもない場所に立つ存在の色。存在感が極端に薄く、意識を向けなければ気配すら捉えられなかった。
遠くから、かすかに鈴の音が聴こえた。
乾いた風の中を流れてくるその音は、金属の鈴が鳴らす物理的な音というより、空気そのものが振動しているかのような透明な響きだった。キアンの真実視が反応する。鈴の音と共に、あの灰色の色彩が微かに揺れた。街道の砂埃が風に舞い、乾いた空気が肺を擦る。南方に向かうほど気候は乾き、街道沿いの草木は疎らになっていた。荒涼とした風景の中で、鈴の音だけが不自然に澄んでいる。
「何か聴こえないか」
キアンが嗄れた声で言った。アナヒドが足を止め、耳を澄ませた。
「……鈴の音でしょうか。とても微かですが」
アタルは何も言わなかった。ただ、老人の目が街道の先を見据えている。その表情には何かを予感した者の──いや、何かを知っている者の静けさがあった。
街道の脇に、細身の青年が座っていた。
銀がかった薄茶色の髪が風に揺れ、灰緑色の目がどこか遠くを見つめている。薄い灰色の旅装束は地味で、街道の砂埃と同じ色をしていた。肩に小さな鈴がついていて、風が吹くたびにかすかな音を立てる。あの音の出所だった。座っている姿が──まるで最初からそこにあった石のように自然で、気づかなければ通り過ぎていただろう。存在感が空気のように薄い。人間の目には、風景の一部としか映らないかもしれなかった。
だが真実視には視える。澄んだ灰色の色彩が、青年の輪郭を淡く包んでいた。
アタルが足を止めた。
「……スラオシャか」
老人の声に驚きはなかった。確認の響き──旧知の者を見つけた者の、穏やかな認識だった。キアンはアタルの横顔を見た。この老人は、またしても知らない名を口にした。ヤザタの名を。アタルがなぜ神格と旧知なのか。問い詰めたい衝動を飲み込んだ。今はそれよりも、目の前の青年の方が気になった。
青年が立ち上がった。動作は緩やかで、音がなかった。足音すらしない。
「お久しぶりです、アタル殿」
穏やかで静かな声だった。聴く者の耳にだけ届くような、不思議な通り方をする。大声ではない。むしろ小さな声だ。なのに言葉の一音一音が明瞭に耳に入ってくる。アタルとスラオシャが旧知であることは、互いの口調から明白だった。敬意と親しみが混在する、長い時間を共有した者同士の空気。
スラオシャが自己紹介した。チンワトの橋の守護者。聴従のヤザタ。死者の魂が渡る橋を守り、魂を導く者。橋が不安定になり、原因を調査するために地上に降りてきたのだという。
キアンは真実視で言葉の色を視た。嘘の赤はない。白──真実だ。だが白の中に微かな灰色の曇りがあった。すべてを語っていない。調査のためだけに地上に降りたのではない──何か別の理由がある。あるいは、理由が複数ある。キアンは灰色の曇りを追及しなかった。自分も嘘で多くを隠す人間だ。語らないことと嘘をつくことの違いくらいは、わかっている。
スラオシャの灰緑色の目がキアンに止まった。焦点の定まらなかった目が、初めて一点に集中する。微かに尖った耳が揺れた。
「あなたが──真実を視る方」
声に畏れはなかった。純粋な確認。だが次の言葉が、キアンの背筋を強張らせた。
「……あなたの声、聴こえます。言葉の裏にある、本当の声が」
キアンは身構えた。嘘が通じない相手がまた一人。アタルは嘘を見抜いても指摘しない。その沈黙が、ある種の居心地の良さを生んでいた。アナヒドは嘘を感じ取っても受け止める。共感力が嘘の奥にある感情に触れ、責めるのではなく理解しようとする。だがこの青年は──嘘の裏にある本音を「聴く」と言った。見抜くのでも感じ取るのでもなく、聴く。それはキアンにとって未知の領域だった。
アナヒドがキアンの表情を見て、僅かに眉を寄せた。キアンの内面に不安の色が走ったことを、共感力で感じ取ったのだろう。だがアナヒドは何も言わなかった。
スラオシャの灰緑色の目が遠くを見つめた。青年の表情が──穏やかさの奥で微かに翳った。守護者としての焦りが、一瞬だけ表に滲んだ。
「橋が──内側から罅割れています」
スラオシャが静かに言った。穏やかな声に、微かな切迫が混じっている。三千年守り続けてきたものが壊れていく──その恐怖を、抑制された声の奥に聴いた。
「何かが、世界の内部で変わり始めている」
聖火の消滅。チンワトの橋の罅割れ。世界の構造そのものが内側から崩壊に向かっている。キアンの真実視が暴いた聖火の衰弱と、スラオシャがもたらした橋の危機。二つの崩壊が同じ根を持っている可能性を、キアンは直感した。善悪の二元論が世界の骨格であるならば、その骨格が軋んでいる。聖火という柱が折れ、橋という梁が罅割れている。世界は──内側から、静かに崩れている。
鈴の音が微かに鳴った。風に揺れた肩の鈴が、澄んだ音を立てる。その音がキアンの耳に届いたとき、真実視の色が一瞬だけ静まった。赤い色彩の残響が和らぎ、視界が僅かに澄む。ほんの一瞬だったが、確かな変化だった。
キアンは鈴の音の余韻を追った。だがそれはすぐに消え、再びいつもの色彩が視界を満たした。
新しい同行者が、旅に加わった。澄んだ灰色の色彩を纏う、空気のように静かな守護者。善でも悪でもない色を持つ者が、嘘つきの旅路に加わった。
キアンは歩きながら、背後のスラオシャの気配を意識した。足音がしない。振り返らなければ、いることすら忘れそうになる。だが鈴の音だけが、等間隔で、確かにそこにいることを告げていた。聴く者が傍にいる。嘘の裏にある声を聴く者が。それは脅威であり──まだ認めたくはなかったが──微かな救いでもあった。




