嘘の肯定
ドゥルジ・ナスが再び現れた。今度は穏やかな態度だった。
荒野の岩陰で、赤紫の髪を風に揺らしながらキアンを待っていた。夕暮れの光が岩肌を赤く染め、ドゥルジ・ナスの蒼白い肌がその赤を映している。挑発の色はなく、語りかけるような静けさがあった。以前の接触とは空気が違う。試すのではなく、伝えようとしている。そう感じた。
アタルとアナヒドは少し離れた場所にいた。アタルが足を止め、キアンを見た。止めるでもなく、促すでもない。老人の赤みがかった瞳が何かを判断し、そしてキアンに委ねた。キアンは一人でドゥルジ・ナスの前に歩いた。
「あんたの過去の嘘、否定しなくていいんだよ」
翡翠色の目が真摯だった。嘲りも挑発もない。ただ事実を述べるような平坦さで、だが声の底に温度があった。
「あれはあんたが生きるために必要だったんだから」
キアンの真実視がその言葉を視た。白い光が混じっている。嘘ではない──少なくとも、ドゥルジ・ナス自身はそう信じている。穢れの女魔の口から発せられた言葉が、真実の色を帯びている。その矛盾が、キアンの中で静かに軋んだ。
ドゥルジ・ナスが岩に背を預け、空を見上げた。夕暮れの空が赤紫に染まっている。彼女の髪と同じ色だった。
「あたしもね、かつてはただの精霊だったんだよ」
初めて、ドゥルジ・ナスが自分の過去に触れた。声が変わった。それまでの軽い口調が消え、もっと古い声──長い時間を経た声が現れた。
「善でも悪でもなかった。ただ、変わっていくものの側にいただけ。腐るもの、朽ちるもの、形が崩れるもの──そういうものの傍にいた。変化の精霊。花が散る。木が朽ちる。肉が土に還る。あたしはその変化を見守る者だった。誰かを傷つけたことはない。ただ、在っただけ」
声が微かに震えた。キアンの真実視が反応する。言葉の色が揺れている。赤と白が入り混じり、感情の濁流が色彩となって溢れている。嘘ではないが、全てでもない。語られていない層がまだある。だが語られている部分は──真実だった。
「善悪が分かれたとき、あたしは悪の側に分類された。選んだんじゃない。分類されたんだ」
ドゥルジ・ナスの翡翠色の目が、キアンを射抜いた。
「変化は穢れだと言われた。朽ちることは悪だと言われた。あたしの存在そのものが──否定された。あたしは何も変わっていない。ただ在り続けただけなのに、ある日突然、悪になった」
分類によって「悪」にされた存在。変化そのものが穢れと見なされ、排斥された精霊の──悲しみ。アナヒドが言った通りだった。ドゥルジ・ナスは怒っているのではない。悲しんでいるのだ。
キアンの真実視がドゥルジ・ナスの色を視た。赤と白が螺旋を描き、その中心に灰色の核がある。善でも悪でもない灰色。その灰色が──悲しみの色なのだと、キアンは初めて理解した。
キアンの中で共鳴が起きた。抗えない共鳴だった。
ドゥルジ・ナスの言葉を聞きながら、キアンの脳裏に孤児院の記憶が重なった。管理官の老婆が言った。「あの子は嘘つきだから、誰も近づくな」。それだけで十分だった。嘘つきというレッテルが貼られた瞬間、キアンは孤児院の最底辺に落ちた。誰もキアンの言葉を信じなくなった。事実を述べても「嘘つきの言うことだ」と一蹴された。分類が先にあり、真実は後回しにされた。
自分もまた「嘘つき」というレッテルで孤立してきた。孤児院で、嘘つきと呼ばれ、誰にも信じてもらえなかった。火の神殿で、追放令を受け、社会から排斥された。そして今、代償(c)によって人々から避けられている。キアンもまた「分類された」側の人間だった。嘘つきという分類。危険な存在という分類。本人の意思とは無関係に、周囲が貼ったレッテルが人生を規定する。
「頷きたくない」
キアンは嗄れた声で言った。喉の灼ける痛みはなかった。頷きたくないのは本当だ。ドゥルジ・ナスの言葉に共感することは、敵の側に立つことを意味する。それは裏切りだ。アタルへの、アナヒドへの、聖火の側への裏切り。
「おまえの言うことに──頷きたくない」
ドゥルジ・ナスが微笑んだ。その微笑みに嘲りはなかった。理解があった。頷きたくないのに頷きそうになっている者を、正確に理解している者の微笑み。
「頷きたくないのに頷きそうになってる。それが一番正直な反応だよ」
キアンの喉は灼けなかった。ドゥルジ・ナスの言葉は──正しかったから。頷きたくないのに頷きそうになっている。それが今のキアンの真実だった。善の側にいたいのに、悪の論理に説得されている。聖火の光を信じたいのに、灰色の領域が広がっている。
沈黙が落ちた。夕暮れの荒野に風が吹き、砂が舞い上がる。二人の間に、敵意でも友情でもない、奇妙な静けさが漂っていた。嘘つき同士の沈黙。分類された者同士の沈黙。
去り際に、ドゥルジ・ナスが言った。背を向けたまま、振り返らずに。
「おまえの力が深まるほど、おまえは嘘が必要な理由を知るだろう」
不吉な予言のような言葉が、荒野の風に消えた。ドゥルジ・ナスの姿が夕暮れの赤紫に溶け、甘い腐臭だけが残った。
キアンは立ち尽くしていた。嘘が必要な理由。真実を視る力が深まるほど、嘘の必要性を知る。それは──真実が人を壊すことを、もっと深く知るということだ。代償(c)がさらに進めば、キアンの存在そのものが真実の暴力になる。そのとき、嘘がなければ世界は壊れる。
ドゥルジ・ナスは警告していたのか。それとも誘っていたのか。その区別がつかないことが、一番恐ろしかった。
アタルが近づいてきた。老人はキアンの隣に立ち、しばらくドゥルジ・ナスが消えた方角を見つめていた。何も問わなかった。何も諭さなかった。ただ傍にいた。
「師匠」
「なんじゃ」
「あいつは──敵なのか」
アタルは答えなかった。長い沈黙があり、やがて老人は歩き出した。キアンも後に続いた。答えがないことが、答えだった。善でも悪でもない。敵でも味方でもない。灰色。すべてが灰色に覆われていく。




