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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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孤児院の夜

 ドゥルジ・ナスの言葉に触発され、記憶が蘇った。


 孤児院。


 暗い廊下。天井が低く、壁が湿っている。石壁には染みが広がり、黴の匂いが染みついていた。松明の光すら届かない角があり、そこに逃げ込むのがキアンの日課だった。年長の子どもたちの靴音が廊下に響くたびに、キアンは身を縮めた。靴音の数で人数がわかる。一人なら逃げられる。二人なら隠れなければならない。三人以上なら──どこに逃げても無駄だった。


 食事を奪われた。配給された麦粥の椀を、年長の少年に取り上げられる。抵抗すれば殴られる。殴られれば、他の子どもたちが笑う。笑い声が暗い廊下に反響し、キアンの耳にこびりつく。空腹は慣れることができた。痛みにも慣れた。だが笑い声には慣れなかった。自分の苦痛が誰かの娯楽になる。その構造が、空腹や痛みよりも深くキアンを蝕んだ。


 寝場所を追い出された。毛布を剥がされ、冷たい石の床に転がされる。冬の夜は長く、寒さが骨の芯まで染みた。眠れない夜に天井の染みを数えた。四十三個。四十三個の染みを何百回も数えた。数えることで恐怖から意識を逸らした。それも一種の嘘だった。「怖くない。ただ染みを数えているだけだ」と自分に言い聞かせる嘘。


 キアンが覚えた最初の嘘──「痛くない」。


 六つか七つの頃だった。年長の少年に壁に押しつけられ、腹を蹴られた。息が詰まり、視界が白くなった。蹲るキアンを見下ろして、少年が聞いた。「痛いか?」。問いではなく、確認だった。痛いと言えば満足して去るのか、もっと蹴るのか。賭けだった。


 殴られた頬が腫れ上がっても、「痛くない」と言った。声が震えていた。嘘だとわかっていただろう。だが殴る側にとって重要なのは、相手が苦痛を見せるかどうかだった。痛みを見せれば、もっと殴られる。弱さを見せれば、もっと奪われる。だから嘘をついた。痛みを飲み込み、涙を堪え、腫れた頬で「痛くない」と繰り返した。


 二番目の嘘──「お前たちのことなんか怖くない」。


 怖かった。毎日が恐怖だった。靴音が聞こえるたびに心臓が跳ね、影が動くたびに身が竦んだ。だが恐怖を見せれば支配される。恐怖は服従の証だ。だから虚勢を張った。嘘が盾になった。嘘の盾は薄かったが、何もないよりましだった。


 やがてキアンは嘘を武器に変えた。盾だけでは足りなくなった。守るだけでは生き残れない。だから攻めることを覚えた。


 年長者の秘密を嗅ぎ出し、交渉材料にする。「お前が食い物を隠してることを、管理官に言ってもいいんだぞ」。相手の顔が強張る。取引が成立する。今日の食事は確保された。敵の噂を操作し、対立を煽り、漁夫の利を得る。「あいつがお前の悪口を言ってたぞ」。事実かどうかは問題ではない。信じさせれば勝ちだ。同盟者を作り、情報を操作し、生存圏を確保する。嘘の網を張り巡らせ、その中心で息をする。


 嘘は生存戦略だった。道徳の問題ではなく、生きるか死ぬかの問題だった。善悪を考える余裕などなかった。善い嘘も悪い嘘もない。生き延びるための嘘があるだけだ。


 アタルに拾われるまで、キアンの世界は嘘で構築されていた。真実を語ったことがなかった。誰にも本音を見せたことがなかった。嘘が世界の全てで、嘘がキアンの全てだった。


 一つだけ覚えている。孤児院を出る直前の夜、管理官の老婆がキアンに言った。「お前は賢い子だよ。だからこそ、嘘に食われるな」。あの言葉が真実だったのか嘘だったのか、当時のキアンには判断できなかった。今なら──真実視で視ればわかる。だが視る必要はなかった。あの言葉が真実だったと信じたい。信じたいこと自体が、既に一つの嘘なのかもしれないが。


 回想から覚めた。


 焚き火の前で一人、膝を抱えていた。夜の荒野が暗く広がり、焚き火の炎だけがキアンの顔を照らしている。炎の色が揺れるたびに、孤児院の松明の光が重なった。あの暗い廊下の光。あの光の下で、キアンは嘘を覚えた。


 少し離れた場所で、アナヒドとアタルが眠っている。アナヒドの寝息が微かに聞こえる。穏やかな呼吸。キアンの傍にいることを選んだ人間の、無防備な眠り。キアンの代償(c)が彼女の自己欺瞞を暴くかもしれないのに、それでも離れない。


 自分の嘘は確かに自分を守った。ドゥルジ・ナスの言葉は正しい。嘘は盾だった。嘘は武器だった。嘘は生存の手段だった。


 だが同時に、嘘が自分を壊してもいた。本音を言えない人間になった。信頼を築けない人間になった。誰かに心を開くことが、致命的に苦手になった。アナヒドの「明日も一緒に歩きましょう」に「ありがとう」と言えない。アタルの教えに素直に頷けない。嘘で作った殻が厚すぎて、中から出られなくなっている。


 嘘は守ったが、嘘は閉じ込めもした。盾であり、檻だった。守られた代わりに、閉じ込められた。


「嘘は俺を守った。でも──嘘は俺を俺にした。嘘を取ったら、何が残る?」


 嗄れた声が荒野の闇に消えた。焚き火の炎が風に煽られて揺れ、キアンの影が地面で大きくなったり小さくなったりする。


 同じ問いが繰り返される。以前も同じことを考えた。だが今は、より深い切実さを帯びていた。ドゥルジ・ナスの言葉が、嘘の意味を肯定してしまったから。嘘が悪だという前提が崩れれば、嘘で構築された自分は──悪ではないのかもしれない。だがそれは慰めにならなかった。悪でないとしても、嘘を取った後に何が残るのかという問いは消えない。


 ドゥルジ・ナスの声が記憶の中で反響する。「あんた、あたしに似てるよ」。嘘で生き延びた者同士。分類された者同士。その共鳴を認めてしまうことが、キアンを最も追い詰めている。敵を理解してしまった者は、もう純粋な敵意を持てない。敵意を持てない者は、戦えない。戦えない者は──味方にもなれない。


 焚き火の薪が崩れ、火の粉が舞い上がった。赤い粒が夜空に散り、すぐに消える。キアンは膝を抱えたまま、火の粉が消えていく闇を見つめていた。孤児院の暗闇と、荒野の暗闇。どちらも同じ暗さだった。だが孤児院の闇には嘘という光があった。今の闇には──何がある。


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