嘘が必要な人々
街道を黙って歩いた。
三人とも口を開かなかった。キアンは沈黙し、アナヒドは隣を歩き、アタルが先導する。砂利を踏む足音だけが、乾いた街道に響いていた。太陽が頭上にあり、影は短く、熱が乾いた地面から立ち昇っている。だが空気の熱さを感じる余裕はなかった。
自分の存在そのものが人を傷つける。その事実が、キアンの胸の底に鉛のように沈んでいた。意図していない。力を使おうとしたわけでもない。ただそこにいるだけで、人の嘘を壊し、人を傷つける。あの集落の人々は、嘘の下で暮らしていた。嘘に守られて暮らしていた。夫婦の嘘、商人の嘘、親子の嘘。それぞれの嘘が、それぞれの関係を支えていた。脆い均衡。だがそれでも均衡だった。キアンが近づいた瞬間に、その均衡が崩れた。嘘の膜が破れ、隠していた真実が噴き出し、人々は互いの真実に傷ついた。
キアンがしたことは何もない。ただ、いただけだ。
アナヒドが隣を歩いている。銀の水瓶を胸に抱え、視線を前方に向けたまま、何も言わない。だがときおり横目でキアンを窺っている。何と声をかければいいかわからないのだろう。キアンにもわからなかった。慰めの言葉があるとすれば、それは嘘だ。「大丈夫だ」は嘘だ。「気にするな」は嘘だ。大丈夫ではないし、気にしないわけがない。アナヒドはそれを知っているから、嘘をつけない。だから黙っている。
その沈黙が、今のキアンには一番ありがたかった。
アタルが足を止めた。街道脇の岩に腰を下ろし、キアンを見上げた。老人の目に、いつもの穏やかさはあったが、その奥に厳しさが覗いている。
「代償(c)の性質を説明しておく」
老人の声は穏やかだったが、事実を述べる厳しさがあった。避けては通れない話だと、声の調子が告げている。
「おまえの力が深まるほど、近くにいる者は自分の嘘を自覚してしまう。意図していなくとも──存在そのものが真実を強制するのじゃ」
キアンは歯を食いしばった。顎の筋肉が痛むほどに。
「やめてくれ」
嗄れた声が震えた。喉が灼けなかった。本心だった。
「そんな力、いらない」
アタルは黙った。何も答えなかった。答えようがないのだろう。力は選んで得たものではない。代償もまた、選んで背負ったものではない。真実視を与えられたのはキアンの選択ではなかったし、代償(a)の喉の灼けも、代償(b)の色の洪水も、そしてこの代償(c)も、すべてキアンの意志とは無関係に発現した。力が深まるほどに代償が重くなる。真実に近づくほどに、真実がキアンを蝕む。
沈黙が流れた。風が砂利を転がす音だけが聞こえた。
アナヒドが口を開きかけ、閉じ、もう一度開いた。
「……私は、大丈夫です」
小さな声だった。キアンが振り返ると、アナヒドが真っ直ぐにこちらを見ていた。
「私の傍にいても……大丈夫です。私は、自分の嘘を自覚することを恐れません」
キアンの真実視がアナヒドの言葉を視た。白──だが、白の中に微かな震えがある。完全な真実ではない。恐れていないわけではない。だが恐れていても傍にいることを選んでいる。その選択が、白に近い色をしていた。
キアンは何も言わなかった。言えなかった。
再び歩き始めた。足を踏み出すたびに、代償(c)の範囲から離れた場所に安堵を感じる自分がいた。人のいない荒野なら、誰の嘘も壊さずに済む。だがそれは、人を避けて生きるということだ。孤児院で孤立していた頃と何が違う。あの頃は嘘つきだから避けられた。今は真実を暴くから避けなければならない。嘘をついても、嘘をつかなくても、キアンは孤立する。
街道で旅人の家族に出会った。
父親と幼い娘。娘は病を抱えていた。痩せた顔に、不自然に白い肌。頬の骨が浮き出て、目の周囲に暗い隈がある。父親が娘を背負い、ゆっくりと歩いている。父親の背中は汗に濡れ、呼吸が荒い。長い距離を歩いてきたのだろう。だが足を止めない。娘のために、どこかの医師か薬師を探しているのかもしれない。
「すぐに治るからな」
父親が娘に言い聞かせた。優しい声。微笑み。娘の細い手が父親の首にまわされ、小さな頭が父親の肩に預けられている。
「うん」
娘の声は掠れていたが、信じている声だった。父親の言葉を、疑いなく信じている。
キアンの真実視がその言葉を視た。
黒い染み。嘘だった。父親の言葉の周囲に、暗い色が厚く纏わりついている。娘の病は重い。父親はそれを知っている。知っていて、「すぐに治る」と嘘をつく。娘を不安にさせないために。希望を奪わないために。
だが嘘の中に──光が含まれていた。善意の嘘。暗い色の内部に、微かな白い光が脈打っている。嘘の動機が純粋であるとき、嘘の色は完全な黒にはならない。暗いが、光がある。冷たいが、温もりがある。
キアンが近づくと、父親の表情が揺らいだ。目が泳ぎ、口元が歪む。額に汗が浮かぶ。自分の嘘を自覚し始めている。「すぐに治る」が嘘であることを──認めたくない真実が、浮上しかけている。娘の病は治らないかもしれない。その恐怖が、父親の心の底から這い上がってきている。
キアンは慌てて距離を取った。
二歩、三歩、離れる。父親の表情が元に戻った。嘘が修復された。嘘の膜が再び父親の心を覆い、「すぐに治る」という言葉が再び力を取り戻した。娘が父親の背中で眠っている。穏やかな寝顔。父親の嘘に守られた、安らかな眠り。
父親の嘘を壊してはいけない。あの嘘は娘を守っている。あの嘘がなくなったら、娘の世界は崩れる。「すぐに治る」を信じて眠る娘から、その信頼を奪う権利は誰にもない。真実が正しいからといって、すべての嘘を壊していいわけではない。
旅人の家族が去った後、キアンは街道の真ん中に立ち尽くした。父親の背中が遠ざかり、娘の細い手が揺れ、やがて二つの影が街道の先に小さくなっていく。
「嘘がなければ──あの父親は、娘に何と言えばいい?」
嗄れた声が、乾いた空気に落ちた。
答えがなかった。
真実は「病は治らないかもしれない」。だがそれを幼い娘に伝えることが、正しいのか。嘘が娘を守っている。真実は娘を壊す。真実を視る力を持つ者が、真実を伝えることの暴力性を知っている。知っていて、なお真実を選ぶべきなのか。
どちらが正しいのか。答えが出ない問いだけが、乾いた風に吹かれて消えていった。




