表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

57/60

灼ける声

 喉の痛みが引かなかった。


 村を去った翌日も、その翌日も、喉の奥に鈍い灼熱感が居座っている。朝起きて最初に水を飲むとき、冷たい水が喉を通る瞬間だけ痛みが和らぐが、すぐに戻ってくる。炭の上に残った熾火のように、消えたふりをしてじくじくと灼いている。歩きながら軽口を叩こうとすると、言葉の端々で灼ける頻度が増していた。


「今日は涼しいな」


 嘘ではない。実際に風が冷たい。砂漠の朝は気温が低く、外套の襟を立てなければ肌が粟立つ。灼けない。


「まだまだ先は長い──」


 灼けない。これも事実だ。次のヴァラまで二日以上の道のりがある。


「別にどこも痛くない」


 灼けた。喉の奥で火が弾け、キアンは咳き込んだ。嘘だった。喉が痛い。認めたくなかっただけだ。痛みがあることを認めれば、代償が進んでいることを認めることになる。それが怖くて「痛くない」と言った。だが身体は正直だった。嘘は嘘だ。どんな理由があっても。


 以前は嘘をつくときだけ灼けていた。それも、真実視で視た内容に関する嘘に限られていた。だが今は違う。社交辞令でも灼ける。曖昧な返事でも灼ける。「まあまあだ」「大して気にしてない」「問題ない」──日常の会話を滑らかにする些細な嘘が、すべて喉に火を点ける。人間の言葉の中に、どれほど多くの嘘が紛れ込んでいるか。それを身をもって知らされていた。


「大丈夫だ」


 アナヒドに向かって言おうとした。言葉が喉から出る前に、灼熱感が走った。声にならなかった。口を閉ざす。大丈夫ではないのだから。大丈夫ではないのに「大丈夫だ」と言うことは嘘であり、嘘は灼ける。単純な方程式。だがその単純さが、日常を根本から破壊している。


 キアンは黙った。


 沈黙が続いた。街道を歩く三人の足音だけが、砂利を踏む音を立てている。砂利の大きさがまちまちで、足を置くたびに音の高さが変わる。高い音、低い音、高い音。不規則なリズムが三人分重なり、乾いた街道に静かな打楽器のようなものを奏でていた。


 アナヒドが異変に気づいたのは、その日の午後だった。


 太陽が頭上を過ぎ、影が少しずつ東に伸び始めた頃。キアンの声が変わっていた。以前のような滑らかさがない。嗄れている。砂紙で擦ったような、乾いた声。言葉を発するたびに微かな痛みを堪えているような、慎重な発声。かつてのキアンは軽口と皮肉を滑らかに紡ぎ、言葉の端々に鋭い機知を織り込んでいた。その滑らかさが消えている。そして何より──言葉が少なくなっていた。


「喉が……痛むのですか?」


 アナヒドが問うた。深い青の瞳がキアンを見つめ、共感力が微かに反応している。キアンの苦痛を感じ取っているのだろう。彼女の眉が微かに寄り、唇が心配の形に引き結ばれている。


「別に」


 灼けた。


 喉の奥で火が弾け、声が途切れた。咳が出そうになるのを堪え、キアンは口を閉じた。視線を逸らした。砂漠の地平線を見る。何もない大地が広がっている。


 沈黙が答えになった。「別に」が嘘であることを、灼けた喉が証明してしまった。嘘つきの技術は完璧だったはずだ。声のトーン、表情の制御、視線の操作──すべてを組み合わせて嘘を真実に見せかける技術。だがその技術が封じられている。身体が嘘を許さないのだから、いくら技術があっても無意味だった。


 アナヒドの表情が曇った。何か言おうとして、やめた。キアンの沈黙を尊重するかのように。口を開きかけた唇が静かに閉じ、深い青の瞳が一瞬だけ揺れた。


 夜になった。


 野営の焚き火が乾いた荒野を照らし、三つの影を揺らしている。アタルが火の前に座り、老いた手で薪をくべた。乾いた枝が炎に触れ、ぱちりと音を立てて弾ける。火の粉が夜空に散り、星のように一瞬だけ輝いて消えた。焚き火の匂い──焦げた木と灰の匂いが鼻腔に沁みる。荒野の夜は冷える。焚き火の温もりが顔と胸を暖め、背中は夜気に冷やされている。前と後ろの温度差が、身体を二つに分けるようだった。


「力は成長する」


 アタルが静かに語った。赤みがかった瞳に炎の光が映り、数千年の深淵を湛えた目がキアンを見つめている。炎が揺れるたびに、老人の瞳の中の光も揺れた。


「代償も成長する。どちらか一方だけを選ぶことはできん」


 キアンは火を見つめていた。揺れる炎が視界を染め、影が顔の上を這う。薪が崩れ、火の粉が散り、炎の形が変わる。そのすべてが無意味に美しかった。嘘も真実もない、ただの自然現象。


 言葉が灼けるなら、黙っているしかない。


 だが沈黙は苦痛だった。キアンは嘘つきだ。言葉で生き、言葉で戦い、言葉で身を守ってきた。孤児院で食事を奪われそうになったとき、言葉で切り抜けた。年長の子どもに殴られそうになったとき、言葉で逃げた。軽口と皮肉と冗談が、キアンの鎧であり武器であり、世界との唯一の接点だった。


 その言葉が奪われていく。


 嘘をつけない嘘つき。声を失う饒舌家。アイデンティティの根幹が、力の代償によって削り取られていく。炎を見つめながら、キアンは自分が少しずつ壊れていくのを感じていた。壊れるというのは大袈裟かもしれない。だが確実に何かが減っている。言葉という名の武器が一つずつ取り上げられ、裸の自分が露出していく。


 焚き火の音だけが、長い沈黙を埋めていた。薪が爆ぜる音。風が砂を掻く音。虫の声。それらが沈黙を包み、沈黙を許してくれた。


 やがてアタルが立ち上がり、小さな革袋をキアンに差し出した。


「聖火の灰じゃ。喉に塗れ」


 革袋を開けると、灰色の細かい粉が入っていた。聖火の灰。指先に取ると、粉は冷たいが微かに温もりの記憶を含んでいた。かつて燃えていた炎の名残。キアンは指先に灰を取り、喉に当てた。


 灼熱感が少し和らいだ。完全に消えたわけではない。だが焼け爛れた皮膚に冷たい布を当てたような、一時的な緩和。灰が喉の内壁に触れ、熱を吸い取っていく感覚。


「……少しは楽になる」


 アタルの言葉に、補足はなかった。根本的な解決にはならない。灰は痛みを和らげるだけで、代償の進行を止めることはできない。対症療法。だが今のキアンには、それだけでも十分にありがたかった。


 キアンは革袋を握りしめた。灰の温もりが、指先に微かに残っていた。


 隣を見ると、アナヒドが毛布にくるまって眠りについていた。焚き火の光が彼女の横顔を照らし、三つ編みの端が地面に広がっている。寝息が微かに聞こえる。穏やかな呼吸。キアンの真実視が反射的に反応し、アナヒドの内面が色として浮かびかけた。慌てて焦点を逸らす。眠っている人間の内面を視るのは、裸を覗くのと同じだ。


 焚き火が一際大きく爆ぜ、火の粉が夜空に舞い上がった。キアンは革袋を懐にしまい、外套の襟を深く立てた。喉の灼熱感は灰のおかげで和らいでいたが、完全には消えていない。微かな痛みが、呼吸のたびに自己を主張する。


 まるで力そのものが、キアンに問いかけているかのようだった。おまえは嘘をつき続けるのか。それとも黙るのか。どちらを選んでも、何かが削られる。嘘をつけば喉が灼け、黙れば自分が消える。


 答えは出ないまま、キアンは焚き火の番に残った。星が回り、夜が深まり、荒野の沈黙だけが広がっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ