火の記憶
街道の野営地で、アタルが初めてまとまった「物語」を語った。
焚き火のそばで、三人が食事を終えた後のことだった。乾いた肉と固い麦餅を噛み砕いただけの粗末な食事。追放令のせいで集落の市場にも立ち寄れず、街道沿いの行商人から足元を見られた値で買い叩かれたわずかな食料が、三人の糧だった。それでもアタルが起こした焚き火は温かく、炎は不思議なほど安定していた。風が吹いても揺れない。薪が湿っていても勢いを落とさない。キアンの真実視が焚き火を視ると──色がなかった。赤でも白でもない。嘘でも真実でもない、ただそこに在る炎。
アタルの声はいつもより低く、遠い時間を辿るような響きがあった。焚き火に照らされた皺の深い顔が、炎の色に染まって揺れている。だがその目は炎を見ていなかった。もっと遠くの、もっと古い何かを見つめていた。
「三千年前、世界が善と悪に分けられた日、最初の炎が灯された。灯した者は──世界が変わることを信じていた」
声が夜の空気に溶けた。焚き火の薪が爆ぜ、火の粉が闇に散る。キアンは膝を抱えたまま、アタルの横顔を見つめた。三千年前。途方もない時間だ。善と悪に分けられた日。世界がそのように作り変えられた日。最初の炎──聖火の起源。
「灯した者って誰だ」
「それは長い話じゃ」
アタルはそこで言葉を切った。焚き火に照らされた顔に──「懐かしさ」が浮かんでいた。老人の懐かしさではない。もっと深い、もっと遠い場所から来る感慨。昨日のことを思い出す者の表情ではなく、千年の記憶を圧縮して一瞬に凝らしたような、疲弊した感慨だった。キアンの真実視が「長い話じゃ」という言葉を視る。赤──嘘。長い話だから語れないのではない。語れない理由が別にある。だが追及する前に、アタルは焚き火の炎に視線を戻してしまった。
アナヒドが銀壺を膝に置いたまま、静かに耳を傾けていた。彼女もまたアタルの声に含まれた古い響きを感じ取っているのか、問い返すことはしなかった。共感力が何かを受信しているのかもしれない。老人の言葉の底に流れる、膨大な感情の残響を。
翌日の旅路の途中で、古い岩壁画を見つけた。
街道の脇の断崖に、風化した壁画が残っていた。赤茶けた岩肌に刻まれた線は細く、千年以上の風雨に晒されて輪郭が薄れている。だが描かれた構図は読み取れた。善悪の分離を描いた古代の絵──二つの力が分かれ、その間に炎が灯されている。先日の廃墟の壁画と同じ構図だが、こちらのほうが遥かに古い。線の一本一本に、刻んだ者の手の震えまで残っている。
キアンの真実視が壁画を視た。嘘の色も真実の色もない。描いた者の意志はとうに消え、岩に刻まれた線だけが残っている。廃墟の壁画と同じだ。千年を超えた意志は、色を失う。だが形は残る。
壁画の片隅に、時間を表す渦巻きの紋様があった。同心円が幾重にも重なり、中心に向かって無限に巻き込まれていくような文様。見つめていると目眩がした。時間そのものが渦を巻いて吸い込まれていくような、不思議な引力がある。
「これは……無限時間?」
キアンが読み取った。壁画の脇に刻まれた古い文字──アヴェスター語の断片が、渦巻き紋様の周囲に散らばっている。風化して判読しにくいが、「ズルワン」の名が確かに記されていた。善と悪が分かれる前の、一なる存在。時間の根源。神殿の教育で名前だけは聞いたことがある。だが詳しくは教えられなかった。触れてはならない名のように、神官たちはその名を避けていた。
アタルが一瞬、息を呑んだ。
微かな反応だった。だがキアンは見逃さなかった。嘘つきの観察眼は、他人の表情の変化を捉えることに長けている。アタルの目が壁画に釘付けになり、唇が僅かに震えた。瞳孔が開き、呼吸が止まった。何かに触れてしまった、という緊張ではなかった。もっと個人的な──何かを見つけてしまった者の、抑えきれない動揺だった。
「ズルワンについて……知ってるのか」
アタルは長い沈黙の後、極めて慎重に口を開いた。言葉を選んでいるのが明らかだった。一語一語を秤にかけ、どこまで語るかを測っている。
「時間の根源。善と悪が分かれる前の、一なる存在じゃ。三千年前に善悪が分離した後、ズルワンは──消えた。あるいは、消えたと思われた」
「消えたと《《思われた》》?」
「それ以上は、わしにもわからん」
キアンの真実視が──その言葉に揺らぎを視た。赤でも白でもない。嘘とも真実とも判別できない色。アタルの言葉にときおり現れる、あの不可解な空白。嘘をつく人間は赤く灼ける。真実を語る人間は白く澄む。だがアタルの言葉は、時として色を持たない。人間の言葉ではないかのように。
「俺の力がズルワンと関係あるのか」
アタルは答えなかった。焚き火の炎がひときわ強く燃え上がり、老人の影が断崖の壁画に重なった。善悪の分離を描いた古代の絵と、アタルの影が一瞬だけ重なり──キアンの目には、それが偶然には見えなかった。
野営地に戻り、夜が更けていく。アナヒドは既に眠りについていた。銀壺を胸に抱くようにして、寝息を立てている。キアンは焚き火の番をしながら、昼間の壁画を思い返していた。渦巻きの紋様。ズルワンの名。善と悪が分かれる前の世界。
アタルが立ち上がり、焚き火から離れようとした。
去り際にキアンを見つめた。その眼差しに──キアンは初めて「懐かしさ」に似た何かを感じ取った。老人の目ではなかった。師が弟子を見る目でもなかった。もっと遠い時間を知る者が、ようやく再会した誰かを見つめるような──そんな目だった。
だがそれは一瞬で消え、アタルはいつもの穏やかな老人の顔に戻った。
「おやすみ、小僧」
「……おやすみ」
喉は灼けなかった。嘘ではなかった。だがキアンの胸には、説明のつかない痛みが残った。あの眼差しに含まれていた感情を、まだ名前で呼ぶことができない。
焚き火が爆ぜる。火の粉が夜空に昇り、星に混じって消えた。この老人は一体何者なのか。嘘が視えない。嘘でも真実でもない言葉を語る。三千年前を知るかのように聖火を語り、ズルワンの名に息を呑む。そんな人間がいるものか。
キアンは焚き火を見つめ続けた。炎は揺れない。風の中でも、まるで時間に守られているかのように、静かに燃え続けていた。




