遠い雷鳴
追手を振り切り、巡礼路から外れた山間の隠れ家に辿り着いた。
岩壁に囲まれた窪地だった。三方を切り立った崖が覆い、残る一方だけが細い獣道で外に繋がっている。窪地の底に古い炭の跡があった。黒く焼けた石が輪を描き、その周囲に朽ちた木杭の残骸がある。かつて巡礼者か、あるいは盗賊が使った野営地だろう。崖の隙間から細い水流が染み出しており、苔むした岩肌を伝って小さな水溜まりを作っている。しばらくは身を潜められる。
アタルが杖を突いて窪地を見回し、満足げに頷いた。
「しばらくここで身体を休めよ」
三人とも疲弊していた。追手との戦闘、荒野の行軍、水と食料の不足。アナヒドは岩壁に背を預けて座り込み、銀壺を膝の上に置いていた。目を閉じている。眠っているのか、あるいは力を使い果たした後の放心か。褐色の肌に血の気が薄く、唇が乾いていた。疲弊が顔に刻まれている。
キアンは窪地の縁に腰を下ろし、崖の上に広がる空を見上げた。声は戻りつつあったが、嗄れ方が以前より深くなっていた。以前は囁き声でも明瞭だったものが、今はかすれて途切れがちだ。言葉を発するたびに喉の奥で何かが擦れる感覚がある。紙やすりで声帯を削っているような──不可逆の摩耗。使えば使うほど、戻りにくくなる。首筋の瘢痕が、前より広がっていた。指で触れると、火傷の跡のように硬く盛り上がっている。
日が傾き、窪地に影が落ちた。アタルが乾いた枝を集めて小さな焚き火を起こした。崖に囲まれた窪地なら、煙は拡散して追手の目印にはならないだろう。炎が揺れ、岩壁に影を落とす。アタルの顔が炎に照らされ、深い皺の間に赤い光が沈んでいた。
老人が改めてミスラについて語り始めたのは、焚き火の炎が安定した頃だった。
「都市での騒動は、もうミスラの耳に届いておるだろう」
キアンは焚き火を見つめていた。炎の揺らぎに、真実視は反応しない。炎は嘘をつかない。炎はただ燃えている。嘘も真実もなく、ただ燃焼がある。その無色の揺らぎが、嘘と真実の色彩に疲れた目には安らぎだった。
「次に動くのはミスラの直接の手下じゃ。契約の審判者は──真実を裁きの道具としてしか見ておらん」
アタルの声に色はなかった。いつもの透明な空白──ではなかった。このとき、キアンの真実視が微かな揺らぎを捉えた。色ではない。色になる前の何か。アタルがミスラの名を口にするとき、老人の声には感情の残響のようなものが混じる。以前もそうだった。ミスラという名が、アタルの中の何かに触れている。個人的な──感情。
「俺みたいな目を、裁きに使うってことか」
嗄れた声で問うた。喉が引っかかり、語尾がかすれた。だが灼けなかった。問いは嘘ではない。
「おまえの目は、あらゆる嘘を暴ける。ミスラにとって、それは完璧な裁定装置じゃ。善悪を裁くために──おまえを使う」
使われる。道具として。
キアンは焚き火を見つめた。炎が風に煽られ、揺れ、また立ち上がる。嘘つきの少年が、正義の道具にされる。嘘を暴く力を、裁きの武器として振るわされる。それは──キアン自身が都市でやったことの延長線上にあった。怒りで真実を武器にした、あの暴走の延長線上に。神官長の腐敗を叫んだとき、キアンは真実を裁きとして使った。ミスラがやろうとしていることは、あれをもっと大きな規模で、もっと精密に、もっと容赦なく行うことだ。
あのとき感じた空虚を思い出した。暴露の後の、怒りが抜けた後の、何もない感覚。正義を行使した後に残る灰のような虚しさ。あれが──ミスラの世界なのか。真実で裁き続ける者の世界。嘘をすべて灼き尽くした後に残る、灰色の荒野。
「ミスラって──どんな奴なんだ」
声がかすれた。問いは短かった。長い言葉が出せない。代償が言葉を削っている。だが問いの核は残っている。
アタルは長い沈黙を置いた。焚き火が爆ぜ、火の粉が舞い上がった。老人の目が炎を見つめている。その眼差しに──キアンは、数千年の歳月の影を見たような気がした。気のせいかもしれない。だがアタルがミスラを語るとき、老人の中の何かが──遠い過去に引き戻されているように見えた。
「正義の化身じゃ」
短い答え。だがアタルは続けた。
「そしてそれが、最も恐ろしいのじゃ」
正義が恐ろしい。善悪二元論の世界で、正義そのものが恐怖の対象になる。キアンの中で、都市の神官長の嘘と、ミスラの正義が奇妙に重なった。神官長は嘘で人を支配した。ミスラは真実で人を裁く。手段は正反対だが、構造は同じだ。上から下へ。力ある者から力なき者へ。支配の形が違うだけで、支配であることは変わらない。
嘘による支配と、真実による支配。そのどちらが善で、どちらが悪なのか。善悪二元論は、その問いに答えを持っているのか。
焚き火の向こうで、アナヒドが目を開けていた。眠っていなかったのだ。アタルの話を聞いていた。青い瞳に炎の光が映り、水面のように揺れている。何か言いたそうにしていたが、言葉は発さなかった。ミスラの名を聞いたとき、彼女の表情に一瞬だけ──畏れが走ったのをキアンは見た。契約の審判者。巫女として育った彼女にとって、ミスラは信仰の上位に位置する存在だ。その存在が脅威として語られることへの──信仰の軋みが、表情に出ていた。
山間から見える遠くの空に、不自然な暗雲が広がっていた。昼間は見えなかったものだ。夜になって、暗雲の中で稲光のような光が断続的に走っている。だが雷鳴は聞こえない。遠すぎるのか、あるいは──雷ではないのか。
「第二の聖火が弱っておる……」
アタルの呟き。老人の声が、このときは明確に震えていた。透明な空白が崩れ、その奥にある何かが──悲嘆に近い何かが──漏れ出していた。聖火の守護者にとって、聖火の衰弱は自分自身の衰弱でもあるのか。キアンにはわからなかった。だがアタルが聖火について語るとき、老人の声が揺れることだけは確かだった。
キアンの真実視が遠方に意識を向けた。南東の空。暗雲の向こうに──かすかだが──大規模な嘘の色彩の揺らぎを感知した。嘘ではない。これもまた衰弱の色だ。聖火が弱ると、その周囲の秩序が揺らぐ。秩序が揺らぐと嘘が増える。嘘が増えると、その地域全体が赤い靄に覆われる。遠方の赤い揺らぎは、第二の聖火の衰弱が周囲の世界に波及している証拠だった。
世界の異変が加速している。旅の速度を超えて、崩壊が進行している。聖火が消えるたびに、善悪の秩序が弱まり、嘘が蔓延し、世界は灰色に近づいていく。キアンたちが歩く速度では、消えゆく聖火に追いつけない。
「……先に進むしかないだろ」
キアンが嗄れた声で言った。喉は灼けなかった。先に進むしかない。それは嘘ではなかった。戻る場所はない。立ち止まる余裕もない。追手が後ろに、ミスラが前方に、消えゆく聖火が世界の各所に。進むしかない。声が消えても、喉が灼けても、前に進むしかない。
だがアナヒドは──キアンの声の嗄れ方に、取り返しのつかない何かの予兆を感じ取っていた。
岩壁に背を預けたまま、アナヒドが銀壺の蓋を開き、中を覗いた。水面が低い。月光が銀壺の底近くまで差し込んでいる。以前は蓋を開けただけで水面が見えた。今は覗き込まなければ見えない。聖水が涸れていく。治癒の力が失われていく。キアンの喉を癒す手段が、一つずつ削られていく。
アナヒドが銀壺の蓋を静かに閉じた。その音が、窪地の岩壁に反響して消えた。
焚き火の残り火が暗くなっていく。三人はそれぞれの沈黙の中にいた。アタルは遠い空の暗雲を見つめている。アナヒドは銀壺を胸に抱いている。キアンは嗄れた喉を押さえている。三人とも何かを失いかけていた。アタルは聖火を。アナヒドは聖水を。キアンは声を。
遠い空で、雷鳴のない稲光がまた一つ走った。第二の聖火が──藻掻いている。消えまいと、消えまいと。だがその光は、前の夜よりも弱かった。確実に弱くなっている。
キアンは崖の上の空を見上げ、星を探した。星は白い。嘘のない光。だが今夜は暗雲が広がり、星は半分しか見えなかった。残りの半分は、衰弱する聖火の余波に覆われて、闇の中に沈んでいた。




