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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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審問の影

 山間の隠れ家を出た三人は、夜明け前の薄闇の中を歩いた。


 巡礼路の裏道は、岩壁に挟まれた細い獣道のような経路だった。苔むした石の上を踏むたびに足が滑り、キアンは何度も体勢を崩しかけた。先頭を行くアタルの足取りだけが確かで、老人の背中は薄闇の中でも揺らぐことがない。その歩幅に合わせてアナヒドが続き、キアンは最後尾で息を切らしながら二人の背を追った。


 追手は組織的に動いていた。各地の神殿に手配が回り、異端者キアンの人相書きが巡礼路の要所に掲示されている。アタルが昨夜の焚き火で語った情報は、キアンの胃の奥に冷たい重みを落としていた。手配書には名前と容姿が記されている。琥珀色の目。痩せぎすの少年。火神殿の見習い崩れ。嘘つき。──最後の一語が添えられているかは知らないが、仮になくても他の特徴だけで十分だった。


 日が昇り、岩壁の影が後退していくと、裏道は小さな谷間の集落に出た。巡礼路の宿場からは外れているが、茶屋が一軒だけあり、旅人がまばらに腰を下ろしていた。アタルが「水を買おう」と言い、三人は軒先の粗末な椅子に座った。


 茶屋の主人が盆を運んできた。四十がらみの男で、額に汗を浮かべている。キアンたちを見て──一瞬だけ目を逸らした。


 真実視が、その一瞬を捉えた。


 主人の内心が赤く灼けている。表面の愛想は白い──茶を出し、代金を受け取り、世間話をする。それは嘘ではない。だがその奥に、別の層がある。「見知らぬ旅人は来ていない」と追手に報告するつもりだが、報告の中身は嘘だ。実際にはキアンたちを見ている。通報する気配が、赤い色彩の渦となって主人の言葉の裏側に浮かんでいた。


 通報は善意からかもしれなかった。異端者を匿えば罰が下る。家族がいる。この集落で生きていかなければならない。通報は保身であり、保身は生存であり、生存は悪ではない。


 だが、その理解はキアンを救わない。


「出るぞ」


 キアンが囁いた。嗄れた声。茶碗に口をつけてもいなかった。アナヒドが小さく頷き、アタルが無言で立ち上がった。代金だけ卓に置いて、三人は裏口から出た。主人が背後で何か言いかけたが、キアンは振り返らなかった。


 裏口を抜けた路地で、アタルが足を止めた。老人の目が巡礼路の方角を見据え、それからゆっくりと反対側──荒野が広がる方角に転じた。


「巡礼路を完全に離れる」


 アタルの声は穏やかだったが、そこに迷いはなかった。


「荒野を横断する。水と食料が限られ、過酷じゃが──追手は巡礼路しか知らぬ。巡礼路の外に出れば、しばらくは追いつけん」


 しばらく。永遠ではない。キアンの真実視がアタルの言葉を読んだ。色がない。嘘でも真実でもない、あの透明な空白。だが「しばらく」という言葉の選び方が──長い猶予ではないことを暗に示していた。


「なんで俺のせいでこんなことに」


 キアンは呟いた。嗄れた声に罪悪感が滲んだ。自分がいなければ、二人は巡礼路を安全に歩けた。自分がいなければ、アナヒドは巫女として敬われ、アタルは火神殿の守として穏やかに暮らせた。自分の存在が二人を追われる身にしている。


「あなたのせいではありません」


 アナヒドの即答が返ってきた。白──真実。迷いのない、力強い白だった。社交辞令でも慰めでもない。アナヒドは本当にそう思っている。キアンのせいではない、と。


 キアンは黙った。嘘ではないアナヒドの言葉に、何を返せばいいのかわからなかった。ありがとうでは足りない。ごめんでは的外れだ。どうでもいいと言えば喉が灼ける。嘘を含まない適切な言葉が見つからないとき、キアンにできるのは沈黙だけだった。


 三人が荒野に踏み出した。


 乾燥した風が顔を打った。砂塵が目に入り、キアンは袖で顔を覆った。遠くの山脈が赤茶けた地平線の上に黒い影を落としている。巡礼路の石畳はとうに消え、足元は砂と礫の混じった硬い大地に変わった。草も灌木もまばらで、生き物の気配が希薄だった。ただ風だけが、乾いた音を立てて吹き抜けていく。


 巡礼路を離れることは──宗教的秩序から離れることでもあった。聖火の導きを頼りに歩く巡礼者の道を外れ、善悪の二元論が敷いた秩序の道筋を踏み外す。火神殿の見習いだったキアンにとって、巡礼路は世界そのものだった。善い行いをすれば善い場所に辿り着く。正しい道を歩けば、聖火が導いてくれる。その約束事が──足元の砂に掻き消されていく。


 キアンは振り返らなかった。振り返れば、まだ巡礼路の端が見えるかもしれない。見えてしまえば、戻りたくなる。嘘つきの本能が囁く──戻って頭を下げて、異端の罪を認めて、神殿に身を委ねろ。そうすれば少なくとも飢えはしない。少なくとも追われはしない。少なくとも──


 喉が灼けた。心の中の嘘にすら、代償は容赦しなかった。戻りたいという嘘。身を委ねたいという嘘。キアンが本当に望んでいるのは、そんなことではない。何を望んでいるのかは──まだわからないが。


 荒野の夜は、恐ろしいほど静かだった。


 焚き火を囲んで三人が座った。アタルが起こした火は小さかったが、不思議なほど温かい。老人の焚き火はいつもそうだった。薪の量に見合わない温もりが、三人を包んでいる。キアンは火の色を真実視で見つめた。焚き火の色は──白だった。嘘も真実もない、ただの炎。だがその白に、微かな温度がある。アタルの焚き火だけに宿る、名づけようのない温度。


 夜空を見上げた。星が砕けたように散らばっている。都市の灯りがない荒野では、星の数が何倍にも膨れ上がって見えた。美しかった。だが南の空に──不穏な赤い光が揺らいでいた。


「あの方角に──第二の聖火がある」


 アタルが呟いた。老人の視線が南の空の赤い光を追っている。その目に、キアンは何かを読み取ろうとした。真実視を向ける。だが──いつものように、色がない。透明な空白。この老人の目からは、何も読み取れない。


 赤い光は弱々しく瞬いていた。衰弱する聖火の最後の輝きか。それとも、遠い炎の残照か。


 キアンには判別がつかなかった。ただ、南の空の赤が──出身神殿の聖火が消える直前に見た光と、同じ色をしていることだけは、わかった。


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