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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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水の盾

 先遣隊を退けたが、本隊が接近していた。


 翌日の昼過ぎ、キアンの真実視が南東の方角に大量の赤い色彩を捉えた。個人の嘘ではない。集団の嘘だ。統制された嘘。「正義の執行」という名目で武装し、「正当な手続き」という嘘を纏った集団が、砂塵を巻き上げて接近してくる。数を数えようとした。十──二十──三十を超えたところで、赤の密度が高すぎて個体の識別ができなくなった。数十人規模。


 三人だけでは対処できない。


 アタルが杖を地に突き、三人の前方に立った。老人の背中は小さかったが、このとき妙に大きく見えた。


「ここはわしが引きつける。二人は先に行け」


 キアンは首を横に振った。声は出なかった。先の戦闘の代償がまだ残っている。囁き声すら出ない時間が断続的に続いていた。だが意思は明確だった。拒否。この老人を残して逃げることは、できない。理由は言葉にならなかった。恩があるとか、仲間だとか、そういう整理された感情ではなかった。ただ──ここに置いていけない。それだけだった。


 アナヒドが前に出た。


 キアンとアタルの間を通り抜け、追手の方角に向かって一歩を踏み出した。背中が真っ直ぐだった。長い三つ編みが風に揺れ、白地に青い刺繍の旅装束の裾が砂塵を払う。銀壺を両手で抱え、胸の前に掲げた。


「私が守ります」


 それは任務の言葉ではなかった。巫女としての義務感でもなかった。神殿の命令で同行し、監督役として付き添い、治癒を施す──そうした役割の言葉ではなかった。アナヒドの声は──白かった。混じりけのない白。真実。自分の意志でキアンを守ると決めた声。


 キアンの真実視が、その白さに射抜かれた。白い言葉は珍しくない。アナヒドの言葉には白が多い。だがこの白は──今までの白とは質が違った。今までの白は穏やかだった。水面に映る空のような、静かな白。だがこの白は──強い。刃のような白。決意の白。自分が何をすべきか迷わずに決めた者の白。


 銀壺の蓋が開いた。


 水が噴き出した。これまでとは規模が違う。これまでアナヒドが使った水は、流れだった。水流。細く、速く、正確に標的を捉える水の鞭。だが今は──奔流だった。アナヒドが両手を広げると、エワルから溢れた水が空中に弧を描き、銀色の盾となって三人の前に展開した。


 水の壁。


 半円形の巨大な水の盾が、三人を覆うように立ち上がった。高さは人の背丈の三倍はある。幅は十歩以上。銀色の水が空中で凝固し、透明な壁面を形成している。壁の内側から外が透けて見えた。追手の隊列が足を止めたのが見える。先頭の神官が何か叫んでいるが、水の壁が音を遮り、聞こえない。


 追手の前衛が槍を投擲した。短槍が水の壁に突き刺さり──弾かれた。水は柔らかいはずだ。だがアナヒドの水は柔らかくなかった。短槍が宙を舞い、地面に突き立つ。二本目、三本目が続く。すべて弾かれた。水の壁が衝撃のたびに波紋を広げ、銀色の飛沫が陽光に散る。


 壮大だった。銀色の水が午後の陽を反射し、荒野に巨大な半円の盾を描いている。水しぶきが光を砕き、虹の断片が空中に散った。灰色の荒野に、銀と虹が咲いている。追手の隊列が完全に足を止めた。畏怖だろうか。それとも──恐怖だろうか。


 アナヒドの力が、初めて全開になった瞬間だった。


 だがキアンの目は、壮大さの裏側を視ていた。アナヒドの身体が震えている。両腕を広げた姿勢が、わずかに傾いでいる。水の壁を維持する力が、彼女の身体から流れ出している。顔色が蒼白で、額に汗が浮いている。共感力が周囲の恐怖と敵意を吸い込み、それを水の力に変換しているのか──あるいは単純に、この規模の力の行使が彼女の限界を超えているのか。


 声が出ない。キアンは叫びたかった。無理をするなと。もういいと。だが声が出ない。代償が喉を灼き、言葉を灰にしている。声が出ないということが、これほど苛烈な暴力だとは知らなかった。伝えたいことがある。伝えられない。言葉がない人間は、ただ見ているしかない。


 アタルが動いた。老人がアナヒドの傍に立ち、杖を水の壁に向けた。杖の先端が微かに赤く発光し──水の壁の強度が一段上がった。アタルの力が、アナヒドの水を補強している。火と水の連携。相反する属性が、この瞬間だけ協調した。


「今のうちに退け」


 アタルの声。キアンはアナヒドの腕を掴んだ。細い腕が震えていた。冷たかった。力を使い果たしかけている。銀壺の水が──目に見えて減っていた。壁を維持するたびに、聖水が消費されていく。


 三人は辛くも逃走した。アナヒドが水の壁を解いた瞬間、追手が動き出したが、すでに三人は荒野の岩場に身を隠していた。岩の隙間を縫い、崖を下り、追手の視界から消えた。


 撤退後、アナヒドは疲弊していた。岩陰に膝をつき、両手を地面につけて、浅い呼吸を繰り返している。肩が上下し、背中が痙攣するように揺れていた。だがキアンに向けた最初の言葉は──


「大丈夫ですか」


 自分が疲弊しているのに、先に相手を心配する。白。真実だった。本当に心配している。自分の身体が限界なのに、それより先にキアンの安否を確認する。それが彼女の本質だった。引き受ける者。自分を削って他者を守る者。それは美徳なのか。それとも──別の形の代償なのか。


 キアンは声が嗄れているから、ただ頷くだけだった。頷くしかできないもどかしさ。「ありがとう」と言いたい。「すごかった」と言いたい。「なんで俺なんかのために」と言いたい。だが声が出ない。代償が喉を灼き、言葉が喉の奥で灰になる。頷くことしかできない。頷くことに嘘は含まれない。だが頷くだけでは──足りない。


 逃走後の野営。日が暮れ、荒野の闇が岩場を包んだ。焚き火は焚けなかった。煙が追手の目印になる。三人は闇の中で、月明かりだけを頼りに座っていた。


 アナヒドが銀壺を見つめていた。


 月光が銀壺の側面を照らし、内部の水面が微かに光っている。水が──減っている。大規模な力の行使で、エワルの水位が目に見えて下がっていた。以前よりも明らかに少ない。半分を切っているかもしれない。銀壺を傾けても、水面が蓋の近くまで来ない。


 アナヒドの表情が曇った。月光の下でも、その陰りは明らかだった。唇を噛み、銀壺を胸に抱きしめる。聖水が涸れたとき、彼女の治癒の力はどうなるのか。キアンの喉を癒す水がなくなったとき、代償は誰が受け止めるのか。


 キアンは声が出ないから、問えなかった。問えないことが、このときばかりは救いだったのかもしれない。問えば、アナヒドは「大丈夫です」と答えただろう。そしてその言葉が──白なのか赤なのか、キアンは視たくなかった。


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