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第四話: 心臓、気持ち、意志、思考、魂。明け暗れのブチネコ



もしかするとこの物語は、15歳未満の読者にはあまり適していないかもしれません。


無規制の暴言や過激な描写、いわゆる大人向けの内容が含まれているわけではありませんが、テーマが少し……なんと言えばいいでしょうか……重たい、というか、含みのあるものかもしれません。


まあ、とにかく、15歳未満の方はおそらく楽しめないと思います。


(とはいえ、15歳以上であれば必ず楽しめる、という保証もありませんが。)

1

---------

私の名前は大和(おおわ)撫子(なでこ)。30歳。 小説()。 ……になる。

……はずだ。 いつか。

だが、今のところは——看病。


未遥(みはる)先生はベッドに横たわっていた。

半ば意識が朦朧としたまま、こちらには聞き取れない言葉をもごもごと呟いている。


体温計を確認する。……四十一点三度。

よろしくない。どうやらこの漢方薬も思うように効いていないらしい。


私は医師ではないし、医療の心得があるわけでもない。

花粉症なのか、季節外れの重い風邪なのか、それとも働きすぎによる疲労の果てなのか――見当もつかなかった。


「病院に行ったほうがいい」


そう言った私の耳に、彼女の支離滅裂な呟きの合間から、かろうじて声が届いた。


「病院、だめ」


2

---------

とある教師は社会科教育専攻の修了者である。――もっとも、彼女の資格には、きっかり三百万円の奨学金返済という勲章が控えているのだが。


現在は新宿区の公立中学校にて、フルタイム相当の職務内容を任される「非常勤講師」として働いている。慎ましいワンルームに暮らし、これといった贅沢もせず、自らに禁じているというのに、収入は支出とどうにか相殺できる程度。


しかも夏休みや冬休みとなれば状況はさらに悪化する。勤務時間が減る分、報酬も容赦なく削られるのだ。勤務時間は分単位できっちり計上される一方で、時間外労働がささやかな手当や特別報酬に見合うことは、まずない。結果として、副業に割ける時間もほとんど残らないのである。


それでも彼女は、週末や長期休暇の一部、さらには義務的に取得させられるお盆の五連休に、別の市のコンビニで働いている。無論、自分の教え子に見つかることを恐れての「遠征勤務」だ。


非常勤職員である以上、校務に支障を来さない範囲での副業は法的には許されている。とはいえ、その許可は校長との口頭の合意に過ぎない。教育委員会がどう判断するかは、誰にも分からないのが実情だ。


現に先日も、似たような事情で職を失った教師がいた。 誰もが、その給与ではシングルマザーが人並みの生活を送るのは難しいと理解していたというのに。


――それでも彼らは言うのだ。

「公共教育の質を損なうわけにはいかない。市民の信頼を裏切ることは許されない」と。


どうやら、教師や教育関係者は市民の数に入らないらしい。


一部の派遣労働者は、健康保険といった別の問題も抱えている。彼らは形式上、仲介を行う事業体に登録されているため、法的にはその雇用元が健康保険料を負担すべき立場にある。だが、そうした事業体のすべてが、法律で定められた義務を果たしているわけではない。


加えて、 適用資格には最低週労働時間が定められている。だが、実際にはその基準を超えて働いていたとしても、「非常勤」教師として登録されている労働時間では、多くの場合、その最低基準に達していなかった。


さらに、多くの労働者は一つの市区町村に登録されたまま、別の地域へ送り出されて働いている。そのため、実際に滞在・就労している自治体の健康保険制度の適用対象外となってしまう場合がある。


まあ、場合によっては彼らも市民ではある。もっとも、別の自治体の市民なのだが。


それは教師会報に載っていたニュースで、コンロでお粥を煮ているあいだ、机の上で見つけて、そのまま読んでいた記事だった。


3

---------

「ほら、ほら、少しだけでもお粥を食べて。料理人じゃないけど、お粥だけはちょっと自信があるんだ。ちゃんと栄養を摂らないと……」


そう言いながら、左手で彼女の上半身を不器用に抱え、肩で頭を支え、右手にはお粥をたっぷり乗せたレンゲを持って、食べさせようと悪戦苦闘していた。


半ば意識のないまま、彼女は結局お粥をすべて食べきった。もっとも、その半分は胸元のナプキンの上に落ちていたのだが。学生時代、半年に一度は風邪をひく弟の世話をしていた頃と、あまり変わらない光景だった。


未遥(みはる)先生はなおもぶつぶつと呟いている。そのほとんどは意味をなさない戯言だったが、たった二つの言葉だけははっきりと聞き取れ、それが薙刀の刃のように私の胸を貫いた。あるいは少なくとも、紙で指先を切ったときほどには痛むという程度だ。


「生姜、嫌い」


それは私の隠し味――もっとも、秘密でも何でもなく、誰にでも分かる味だ。とりわけ、お粥のように淡白な料理であれば、なおさら。


分かっている。これは私の些細な愚痴にすぎない。だが、これほど丹精込めて作ったものを拒まれるというのは、やはり胸にくるものだ。たとえ善意からであろうと、あるいは今回のように本人の意思によらないことであったとしても。


その恩知らずへのお仕置きとして、私は布で覆われ、中身を隠されたままの彼女の本棚を覗くことにした。


オタクの仏壇であった。


4

---------

手塚治虫様、高橋留美子様、鳥山明様、藤子不二雄様。漫画()の五柱の四天王であった。


万が一、文部科学省が神明を人間国宝に加えることなどあれば、間違いなくその中核のリストに名を連ねることになるだろう。そして彼らの作品は国宝として登録されるに違いない。もちろん、他の人々が意見を異にすることはあり得る。また、彼らには間違う権利も保障されている。


本棚の中には、彼らの主要作品のファクシミリや再版のほかに、オリジナル版と思われる、新品同様の本もいくつかあった。


私は震えていた。心臓がドキドキと高鳴っていた。足がもつれるようだった。「すべてが私の魂に強く響いてくる」と誰かがいった。もう気を失いそうだった。


未遥(みはる)先生が今にも起きて叱るのではないか、あるいは母がドアを蹴破って私を(いえ)に連れ戻すのではないかと感じていた。


その間にも、あの無数の単行本のイメージが渦を巻き、波打つ中で、はっきりとした声が聞こえてきた。


その声は、どうやら一冊の本から発せられているようだった。温かく、穏やかな声。


腕が自分の意思とは無関係に本へと伸びていくのを感じながら、口内に溢れた唾液を飲み込み、唇を舐めた。呼吸は不揃いで、落ち着きを欠いていた。


本を開いた瞬間、渦を巻いていた視界はそのまま巨大な旋回へと変わり、まるで渦潮に引きずり込まれるかのように、私は本の中へと吸い込まれていった。


5

=======

血統書付きの純血種の猫の平均価格は、およそ20万円であるとされている。さらに、極めて希少な品種の子猫ともなれば、100万円を超えることもあると耳にした。もっとも、私の場合は事情が異なる。私の値段は、二百四十円であった。


市場で私が食した七十グラム入りツナフレーク缶一つ分の価格である。店長は、私と現在の飼い主が同時に入店したため、私をその人のペットだと思い込んだらしい。実際のところ、私はただ、自動ドアを開けてくれる誰かが入ってくるのを待っていただけなのだが。


しかし、我々のペット兼守護者という関係は、店を出た直後に確定してしまった。横断歩道を渡ろうとしたその瞬間、猛スピードで突っ込んでくるトラックのほんの一、二秒前に、私は突然持ち上げられたのだ。


確かに、信号は車両側が赤、歩行者側が青だった――と、私は断言できる。もっとも、猫の視覚では少々事情が異なる。赤はやや灰色がかって見え、青も淡く、辛うじて青緑と呼べる程度だ。そもそも世界はほぼ白黒なので、私に分かったのは、車用信号の一番左が点灯し、歩行者用の下段が光っていた、という事実だけだったが。


ともあれ、私は宙にあった。ただし浮遊というほど優雅なものではない。私は首根っこをつかまれたまま、宙づりにされていた。視界の先には、彼の顔があった。こちらを凝視する大きな瞳、その虹彩は異様なほど小さく、眉は外側がきゅっと下がっている。荒く重たい呼吸は、空気中にそのまま「ゼーゼー」と可視化され、顔は赤く――いや、正確には照れ線に覆われていたと言うべきだろう。


息を切らしながら、「だ……大丈夫……?」と問いかけてきた。


やがて息が整うと、張り詰めていた表情は、ふっと柔らかなものへと変わった。彼の虹彩は拡張し、眼球の八割以上を覆っていた。


「仕方ないか。」


そう、小さく、どこか誓約めいた調子で呟き、彼は私を引き取った。


6

---------

私の飼い主は萩尾(はぎお)斗真(とうま)と申します。17才の美少年の高校生です。23才の何とか天才の大学生である竹宮(たけみや)風時芳(ふじまさ)と同棲しています。


斗真(とうま)くんとは違って、竹宮(たけみや)くんはどこか冷淡だ。

私が紹介された際も、彼は眼鏡の位置を直しながら、ただ一言――「へー!」だけ口にした。


一方で、彼たちと一緒に暮らしている二人の女子大学生はどうかと言えば、ずっと愛想がいい。


その彼女たちは山岸(やまぎし)白屋(はくや)、24才で斗真(とうま)くんの同母の姉、そして矢代(やしろ)敦子(あつこ)、18才で竹宮(たけみや)くんの同父の妹です。


私を抱きしめながら、「まあ〜かわいい」と矢代(やしろ)ちゃんが言った。


「お腹が空いてるんじゃない?」と山岸(やまぎし)ちゃんが首を傾げる。


「いや、この猫、さっきツナ缶を丸々一つ食べたばかりだよ……」と斗真(とうま)くんが言いかけて、ふと止まる。

「え、なんでオスだって分かるの?」


「ふふ……斗真(とうま)くん、もう少し生物の授業に注意を払ったほうがいいんじゃない?」と、彼の姉が軽くからかう。


「えー? 私……俺……、私オスなの?」と私は叫んだ。

――もっとも、彼らの耳に届いたのは「ニャー!」だけだったようだ。


7

---------

「ねえ、ねえ。名前は?」と山岸(やまぎし)ちゃんが尋ねた。


「うーん……拾ったばかりで、まだ名前までは考えてなかったな……」と斗真(とうま)が答える。


「えっと、ユリなんてどうでしょう?」と矢代(やしろ)ちゃんが提案した。


「オスなんだろ? ユリは女の子の名前じゃないか」

――それまでまったく興味がないふりをしていた竹宮(たけみや)くんが、本から視線を外すこともなく、遠くから口を挟む。


「じゃあ、ネコちゃんは?」


斗真(とうま)くん、それはさすがにそのまま過ぎるでしょう」

山岸(やまぎし)ちゃんが、弟の頭をやさしく小突きながらたしなめた。


「ああ〜そうだ! 蜜柑はどう? この前あったでしょう、台湾で駅長になった猫……」と矢代(やしろ)ちゃん。


「それは白とオレンジだったからだ。この猫も斑猫(ブチネコ)ではあるけど、黒と白だろ」

竹宮(たけみや)くんは相変わらず本から目を離さず、淡々と指摘する。


斑猫(ハンミョウ)? お兄ちゃん、それ猫でしょ、鞘翅じゃないんだから」


「馬鹿を言うな。ハンミョウじゃなくてブチネコだ。ほら、ここに振り仮名があるだろ」


「黒と白、か……ブラック・アンド・ホワイト……よし、名前はBWだ!」と斗真(とうま)くんが声を上げた。


BW? ちょっと発音しづらくない?」と山岸(やまぎし)ちゃん。


「ビーエル」

またしても竹宮(たけみや)くん。


全員(私を含めて):「????」


「ブラック・アンド・ライトだ」


「それならビーアールじゃない?」と矢代(やしろ)ちゃんが首をかしげる。


「ライトはライト(right)じゃなくて、ライト(light)のほうだ」


「ビーエル……ビーエル……うん、まあ悪くないね。なあ、ビーちゃん?」

斗真(とうま)くんは、同意を求めるように私を見た。


「どうせビーちゃんって呼ぶなら、BWでも変わらなかったけど」

私はそう言った――はずだった。


だが、彼らの耳に届いたのは、またしても「ニャー!」だけで、

しかもなぜか、それは「はい、了解です!」と解釈されたらしい。


8

---------

「――七か月後……」と、キャプションボックスにはそう記されていた。


「イエィ!」

そう叫んだ矢代(やしろ)ちゃんは、クラッカーを派手に鳴らしつつ、やたらとうるさい吹き戻しを何度も吹いていた。


「おめでとう!」

山岸(やまぎし)ちゃんはそう誇らしげに言いながら、弟の成し遂げた偉業を祝福し、力いっぱい彼を抱きしめる。


「それほど大したことではありませんよ」

謙遜半分、そしてもう半分は、姉の豊かな胸部に顔を埋められて半ば窒息しかけながら、斗真(とうま)くんはそう答えた。


「ノン、ノン。東北大学に合格するというのは、実に大きな快挙です!」

やや珍しく感情のこもった声で、竹宮(たけみや)くんがそう返す。

もっとも、その場にいた全員が同じ大学の学生である以上、それは自己賛美の一種でもあった。

というか、たぶん、そっちの意味合いのほうが強かった。


「全員」と言ったが、文字どおり全員である。私も含めて、だ。

まあ、正確には「ほぼ全員」だが。

私はというと、矢代(やしろ)ちゃんに連れられて、週に三回ほど、美術部と写真部のモデルとして、その大学に出入りしていたのだから。


9

---------

斗真(とうま)くん入学して間もなく、山岸(やまぎし)ちゃんと竹宮(たけみや)くんは相次いで卒業を迎えた。

二人とも、幸先よく、それぞれ公的機関と民間企業において、なかなか恵まれた初任の職を得ることとなった。


しかしながら、両者はいずれも、同じ根源的な問題によるキャリア上の障壁に直面することになる。


「ところで、竹宮(たけみや)さんは、いつご結婚なさるご予定で?」

彼の上司の一人が、何気ない雑談めいた調子でそう尋ねたことがあった。

無論、それは表向きだけの「気軽さ」であり、実際には

――「解雇されたときに、より多くのものを失う立場の社員が必要なのだ」

という、さして婉曲でもない符牒にほかならなかった。


一方、女性の場合、一般論として、結婚や出産は労働時間の減少と同義に見なされがちである。それは、例のごとく、古くから知られた理由によるものだ。


だが、それで終わりではない。

女性には逆方向からの圧力も存在する。

社会一般における「結婚すべし」という恒常的な同調圧力に加え、未婚であるというだけで「恋愛的に利用可能」と解釈され、望まれぬ好意や接近を招くことがある。あるいは――それ以上。


若さから成熟へと移ろうこの過程が、容易なものでないことは、言うまでもない。

だが、猫の人生――いや、猫生もまた、必ずしも羨むべきものではないのだ。

たとえ私のように、住む(いえ)があり、愛情深い()族に養われている存在であったとしても、必ずしもそうではない。


近ごろでは、()族の一員を本人の明確な同意なく去勢する行為は、違法であり、かつ不道徳と見なされるようになった。

もっとも――それが問題視されるのは、人間同士の場合に限った話なのだが。


10

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「――数年後……」と記された、別のキャプション枠。


残念ながら、私はその式典を目にすることができなかった。確かにその場にはいたのだが、会場の規則という名の絶対命令により、私は犯罪者さながらキャリーボックスの中へと幽閉されていたのである。檻の扉の格子越しに見えたのは、脚の森と、スカートや着物の裾が連なっている光景が連なっている光景だけだった。


しかし、誓いの言葉は聞こえた。すすり泣きも、嗚咽も、そして両花嫁と両花婿へ向けられた祝福の歓声も。そう、二組同時の結婚式だったのだ。白屋(はくや)ちゃん――旧姓・山岸(やまぎし)――は、今や竹宮(たけみや)くんの妻となった。敦子(あつこ)ちゃん――旧姓・山岸(やまぎし)白屋(はくや)ちゃんに養子入りしていたためである――は、今や竹宮(たけみや)である。なぜなら、斗真(とうま)くんが竹宮(たけみや)くんの養子になったからだ。そのように全員が竹宮(たけみや)になった、というわけである。


参列者の多くが多少なりとも混乱していたのは間違いないだろうし、彼らが口にした日本酒の量は、その理解を助けるどころか、むしろ妨げていたに違いない。それでも、その中の一部は、確かに行間を読んでいたはずだ。


11

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「はい。毎度あり」

そう言って店主は、買い物袋と釣り銭、それにレシートを斗真(とうま)くんに手渡した。


「……あれ、二百四十円、余計に取られてません?」


八百屋の親父は、答える代わりに、顎で私のほうを指し示した。


「まったく……」

斗真(とうま)くんは、いかにも困ったような素振りを――もっとも、明らかに演技だが――浮かべてそう言った。


店を出ると、彼は買い物袋を示しながら私に話しかけてきた。


「見た? とろだよ、とろ! ああ……俺の初任給が……。もちろん、君の分もちゃんとあるからね」


その瞬間、左からスピード線。

斗真(とうま)くんは、ほんの一、二ミリ秒ほど逡巡した。

――この貴重な「とろ」の入った袋を投げ捨てて、私を助けるべきかどうか。


だが、どうか彼を責めないでほしい。

それは吝嗇ゆえの思考などではなく、ほとんど不可避な反射行動に過ぎないのだから。

そして何より、根本的な理由として――彼は、これから長いあいだ、そのことを自分自身で責め続けるのだ。

それでも、彼自身は、実のところ何一つ悪くはないのだが。


それが数年前と同じトラックだったかどうか、断言はできない。

だが、ほぼ間違いないと思っている。

なぜなら、運命を司る神の役を気取る一部の存在というのは、こうした皮肉の機会を決して見逃さないものだからだ。


トラックにはねられ、白と黒だけの世界が、ぐるぐると回転する。

斗真(とうま)くんの顔が、どんどん小さくなっていく。


風時芳(ふじまさ)くん、白屋(はくや)ちゃん、敦子(あつこ)ちゃん……そして斗真とうまくん、竹宮(たけみや)(うち)の皆様、ありがとう。どうか幸せに長生きしてね、私の子たちよ」――それが、私の最後の言葉だった。

だが、実際にその場に響いたのは――「ニャー」という声だけだった。


12

=======

ぐるぐると回っていた視界は、やがてゆっくりと落ち着きを取り戻した。

だが、手の震えまでは止まらず、その拍子に、本は床へと落ちてしまう。


拾い上げようと身を屈めかけた、そのとき――不意に、玄関の呼び鈴が鳴った。

ネットで注文していた薬の配達だった。


「……あれ? 山岸(やまぎし)さんじゃないんですか?」

配達員の少年が、かすかに旋律を帯びたフィリピン訛りの日本語で、意外そうに尋ねてくる。


「え? ああ……未遥(みはる)……じゃなくて、山岸(やまぎし)さんを知ってるの?」


「はい。同じコンビニで働いてたんです。オンラインで注文されたお店」


「なるほど……。あ、でも今、判子がなくて……」


「問題ありませんですよ。アプリで自動確認されてますから。えっと、すみませんですが、山岸(やまぎし)さんは体調は大丈夫ですか?」


「ええ、まあ……ちょっと、風邪をひいただけで……」


配達員は、どうやら私の嘘を見抜いていたような顔をした。

それでも、それ以上踏み込もうとはしなかった。

おそらく――深く詮索する気がなかったのだろう。

あるいは単に、私の目が真っ赤で、顔が涙でぐしゃぐしゃだったからかもしれない。


ドアを閉めると同時に、気持ちを立て直そうとした。


「……ああ〜、何だろう、この涙は?」

――そう心の中で呟きながら、原因はあの猫じゃないと、必死に自分に言い聞かせようとした。

もっとも、その「必死さ」も大したものではなかったのだが。というのも、結局それは猫のせいというわけでもなかったのだから。

「ちっ……彼女はやり遂げたんだ。なら、私も頑張らなくちゃ」


私は軽く頭を振り、両頬をぱんと叩いた。そして解熱剤を飲ませた。


幸いにも、熱はみるみるうちに38℃を下回った。

(あまりにもあっさり下がったため、後になって未遥(みはる)先生は「それは解熱剤の効果ではなく、漢方を早期に投与したおかげです」と断言して譲らなかったのだが。)


13

---------

夕食の支度をしている最中、物音に引き寄せられたのか、未遥(みはる)先生が目を覚ましたらしく、半分眠ったままの様子で台所へと姿を現した。


「……ここで、何をしているの?」


驚いた様子で、彼女は問いかけてきた。


「バカ。もうお忘れですか?」


「……?」


「昨夜、私たちはビデオチャットをしていたでしょう。その最中に、先生が突然倒れたんです。私がここへ駆けつけたら、『大したことじゃない、もう漢方薬は飲んだ』などと言って――そのまま床に膝をつきました」


「……そんなこと、あったかしら?」


「ええ。私はてっきり、また大袈裟に土下座でも始めたのかと思いましたよ。ですが、その直後、先生はもう一度、見事に倒れました」


「そう……だったのね」


「ですから、もう少しベッドで大人しく休むべきです」


「いいえ、もう大丈夫です」と頑固に言った。


そして彼女は尋ねた。

「ふーん……そこで何をしているの?」


「じゃじゃ〜ん! 秋田県立男鹿海洋高等学校製造サバ缶セット!」


「へー!」


「あちゃ〜」


「何かやっちゃったの?」


「結局、生姜を入れちゃった……」


「ちょっと、捨てるつもり? ダメだよ、それ、もったいない」


彼女は私の手から生姜入りサバの丼を掴むと、そのまま口に運んだ。


「うっまい!!!」と彼女は叫んだ。


14

---------

「じゃ、行くわよ!」

玄関で靴を履きながら私は叫んだ。

「本当に大丈夫なの?」


「ええ」と部屋から彼女の声。

「でも待って、プレゼントがあるの……あら、どこ行っちゃったかしら?」


「えー、プレゼント?」


「あ、あった!また本棚から落ちてた」


そう言って、彼女は何かを手に持ってやってきた。


「はい、お礼に。大したものではありませんけど、気持ちだけでも受け取ってください。次の給料が入ったら、全部お返ししますから。本当にご迷惑かけました。すみません」

深くお辞儀をしながら、私にその本を差し出す。


私がそれを受け取ろうとすると、彼女はじっと私の顔を見ていた。


「どうしてそんな泣き顔してるの?あら、鼻水まで出てるわ。ちょっと待って、ハンカチ持ってくるから」


「いえ、なんでもない。ちょっと急ぐから、行って参ります。またね、体に気をつけて」

そう言って、私は慌ててアパートを飛び出した。


私が階段を下りている途中、荷物を持って上がってきた男性を危うく転ばせそうになった。


「すみません」


それだけ言って、私はそのまま駆け下りた。


だが、通りを走っていたとき、横断歩道で何かにブラウスの襟をひっかけられ、思わず立ち止まった。その瞬間、猛スピードのトラックが目の前をかすめるように通り過ぎた。


通りの向こう側には、巨大なハイビジョンLEDパネルが設置されていて、3D映像の猫が鳴きながら私を見つめていた。


背後から、私の襟首を掴んだまま、美しい男が体を反らしていた。激しく息をつき、運動のせいで顔は赤く染まっている。


息を切らしながら、彼は言った。

「俺……僕は未遥(みはる)の弟だ。竹宮(たけみや)……いや、죽궁(ジュックン)愛斗(まなと)です」

そして、私に本を差し出した。


15 . 終章

---------

「お待たせしました。こちら、ブラックコーヒー二杯でございます」

ウェイトレスがそう言った。


私もジュックンくんも「ありがとう」と返した。


「それで、ジュックンの奥さんと義兄…つまり、お父さんが韓国に引っ越したんだね?」


「どうしてお父さんだとは分かったの?未遥(みはる)が教えたの?」


「いや…この本で…」


「その本?」


「えぇ…つまり…お父さんだとは知らなかったんだ。ただちょっと勘違いしただけで…」


「なるほど……本と言えば…今、ちょうど未遥(みはる)のアパートに着いたところで、君が急いで出て行くのを見かけたんだ。それで、そこに姉がその本を持って現れたんだよ」と彼はコーヒーを飲みながら説明した。「僕に届けてくれって頼まれたんだ……ああ、失礼。行かないと。コーヒーありがとう」と時計を見ながら言った。


「こちらこそ、ありがとうございます。命の恩人ですから。感謝の気持ちとしてこれくらいしかお返しできなくて…」

私は少し照れながら答えた。


「そんなこと言わないで。すごく元気が出たんだ。ちょうどソウルから戻ったばかりだったから…」


「タイミングも良かったね。姉が重い熱から回復したばかりだったから…一人にするのは少し心配だったんだ。でも用事があって…」


「分かります。本当に、姉のことを見てくれてありがとうございました」

彼は立ち上がり、帰る準備をした。


「いえ、いえ。とんでもない。彼女は大事な友人ですから」と私も立ち上がって答えた。「そして改めてありがとうございました。決してお礼を返しきれるものではありません」


「君は僕の大切な姉を助けてくれた。だからこれでおあいこだね。いつかまた会えることを願っている。じゃあね」


「じゃあ」


レジに行ったら、未遥(みはる)先生の食料品と薬でお金を全部使ってしまったことに気づいた。


「スイカでよろしいですか?」


結局、歩いて(いえ)に帰る羽目になった。


「まあ、いっか。タバコを吸いながら帰れるし」


でも、そのとき、タバコが切れていることに気づいた。


それはまた一台の「トラック」であった。今回は避けられなかった。ニャー。

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女主人公, 現代, コメディ
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