第四十一話:筋肉と絆による世界平和
わたくしのその制御された灼熱の鉄拳の一撃を受け、ヴァレリウスは糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちました。
兄ヴォルフ様が率いる騎士たちがすぐさま彼を取り押さえる。
粉塵の舞う崩れかけた会議場に、長かった戦いの終わりを告げる静寂が落ちました。
ですが意識を失うその間際、ヴァレリウスはふっとその表情を変えました。
絶望でも怒りでもない。ただ全てがどうでもよくなったかのような、しかしどこか哀れな子供のような狂気的な笑みを浮かべたのです。
「…くくっ。…勝ったと思うなよ、脳筋女…」
その声はもはや敵意ではなく、同じ舞台に立つ道化としての奇妙な親密さすら帯びておりました。
「お前もわたしも、しょせんはあの魔女の掌の上で踊る道化に過ぎん…。観客はまだ飽きてはいない…」
彼は瓦礫の隙間から見える空を仰ぎます。まるでそこに誰か見えざる観客がいるかのように。
「『夢喰らい』のネヴァンは次なる面白い物語を求めている。そして彼女は見つけてしまったのだ。わたしのこの完璧な悲劇を台無しにするほどの、最高に面白そうな新しい玩具をな…!」
「いずれお前たちの前に現れるだろう…。お前という輝かしい英雄が絶望に沈む、その甘美な物語を喰らうために…!」
それだけを言い残すと、彼は完全にその意識を手放しました。
後に残されたのは、彼のその不吉な置き土産の言葉と、凍りついたような静寂だけでした。
それから数週間後。
英雄として王都へと凱旋したわたくしの日常は、以前とは比べ物にならないほど賑やかなものとなっておりました。
朝は王宮騎士団の訓練場で、いつの間にかわたくしの自主トレーニングに参加するようになったリョーコ殿と、言葉も交わさず汗と魂だけで語り合う熱い時間を過ごす。
昼にはシルヴィア様から「勝利を祝うお茶会」への優雅な招待状が届けられる。
そしてわたくしがどこへ行こうとその後ろには、わたくしを守護するためと称して常についてくる、あまりに分厚い筋肉の壁…そう、わたくしの愛すべき筋肉信者たちの姿がありました。
その日も王城の庭園で彼らに正しいサイドチェストの角度を指導しておりますと、一人の少女が背筋をぴんと伸ばしてわたくしの元へとやってまいりました。
エリアーナでしたわ。
「イザベラ様!『学園フィットネス・クラブ』の活動報告書をお持ちいたしました!」
その震えながらもどこか誇らしげな声。彼女のその見違えるように自信に満ちた瞳に、わたくしは目を細めました。
夜、ようやく一人きりになれた客室で、わたくしはその日に届けられた二通の手紙を開いておりました。
一通は兄ヴォルフ様から。
その便箋にはただ一言、インクが滲みそうなほど力のない筆跡でこう書かれておりました。
『胃薬の備蓄が尽きた。至急送られたし』
(まあ兄様。あなたにとっての真の危機とは、世界の存亡ではなく胃薬の在庫でしたのね)
わたくしはくすり、と静かに笑みを漏らしました。そのあまりに兄様らしい不器用な安否の確認に、胸の奥が温かくなるのを感じて。
そしてもう一通はエドワード殿下から。
その情熱的なインクの跳ねるような筆跡。
『親愛なるイザベラへ。君のその偉大なる筋肉の哲学を王国全土に広めるべく、王宮ジムの増設が完了した!つきましてはそのこけら落としに、君の雄姿を是非拝見したい!』
(ほう、殿下もやりますわね!国民の健康は国家の礎。その礎とは、すなわち大腿四頭筋のことですもの!)
わたくしは、その熱烈な報告に満足げに頷きました。
わたくしがその二通の手紙に微笑んでおりますと、遠く北の地、白氷城では。
雪がしんしんと降り積もる静かな朝の練兵場で、一人のメイドがわたくしが置き土産に残したあの地獄のトレーニングメニューを黙々とこなしておりました。
城壁から長く伸びる氷筍にぶら下がり懸垂を繰り返すリリア。
その華奢な体が信じられないほどの力と、寸分の狂いもない正確さで宙を舞う。その一切の感情を映せぬ美しい瞳は、ただ己の肉体と課せられた試練にのみ集中しておりました。
全てのメニューを終えた後、彼女はふと空を見上げました。分厚い雲の切れ間から一筋、朝日の光が差し込んでいる。
そしてその光の温かさに触れたかのように、彼女の光のなかった人形のような唇に、ほんの微かに、本当にごくわずかに。
まるで忘れかけていた遠い記憶を思い出すかのような、儚く、しかし確かな笑みが浮かんでいたことを。
もちろん、誰も知りません。
ええ、ええ。
世間では、わたくしを英雄と、もてはやす声が聞こえますわ。
ですが、わたくしにとっての真の報酬は、もっと、ずっと、ささやかなものでした。
兄からの、どうしようもなく不器用な手紙。王子からの、どこまでも真っ直ぐな報告。誇らしげな一番弟子の、成長記録。
そして、わたくしが決して知ることのない、遠い北の地で一人の少女が取り戻した、ほんの微かな微笑み。
その温かい手応えが、この胸の筋肉を、じんわりと満たしていく。
…ふふん。これだけ心が満たされたのですもの。
明日のトレーニングは、いつもより、少しだけ、厳しくしてさしあげましょうか!
赤き戦姫は、ただ、明日のトレーニングメニューを想い、心を躍らせるのでした。
第3章の最後までお付き合いいただき、心より感謝申し上げます。
イザベラの物語はここで一つ区切りとさせていただきます。
もしこの物語を少しでも気に入っていただけましたら、感想や評価、ブックマークで応援していただけますと、今後の創作活動の大きな励みになります。(特に、ブックマークをしてお待ちいただくと、物語が更新された際に通知が届きますので、ぜひご登録をお願いいたします!)
また、『こんな続きが見たい!』といったご希望も、ぜひ感想でお聞かせいただけると嬉しいです。
改めて、ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
他にも執筆中・執筆予定の作品がございますので、そちらもご覧いただけると大変嬉しいです。
活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等を更新しています。
作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/
Xアカウント:@tukimatirefrain
【新連載のご案内】
『魔王軍の法務部』
https://ncode.syosetu.com/n6390ku/
『虫めづる姫君の死因究明録』
https://ncode.syosetu.com/n5466kw/