第十六話 ふたりの選択
夜が明けていた。
アーロの研究室にある、使い古されたソファの上。シアはそこで膝を抱えて座っていた。ネグリジェではなく、アーロが用意してくれた簡素な部屋着をまとっている。
魔法は成功した。もう、赤ん坊の身体に戻ることはない。
だが、それでもすぐにサイラスのもとへ戻ることは──できなかった。
あの人の腕に抱かれたまま終わるには、まだ足りないと思ったのだ。
「姉さん、起きてる?」
ドアの隙間から、猫姿のアーロが顔を覗かせた。
「食べる? パンと、ちょっと甘いやつもあるけど……」
「……ううん、もう少しこのままでいい」
シアはふと、指先に触れた布地の感触を確かめる。赤ん坊の手では決して感じられなかった“細やかさ”。それは今の自分が“本物の大人”として、ここにいる証だった。
と、そのときだった。
コツ、コツ、と玄関をノックする音が聞こえた。
アーロが小さく「うっ」と声をあげる。
「……また役人? あ、いや、違うな。これは……」
彼が言葉を飲み込むより先に、足音が響いた。
そして、扉が静かに開く。
「……シア」
その声を聞いた瞬間、シアの背筋がぴんと伸びた。
サイラスだった。
執務服ではない、ややくたびれた黒い外套姿。いつも完璧だった髪も、今日は少し乱れていた。それがかえって、彼の“人間らしさ”を際立たせていた。
サイラスは、無言のまま手に持っていた何かを掲げた。
――書き込みだらけの、分厚い羊皮紙の束。
「……うまく言える自信がなかった。だから、まとめてきました」
彼は一歩、また一歩とシアに近づき、テーブルに紙束をそっと置いた。
「まず、これを前提としてお伝えさせていただきます……シア。私は、あなたを心から愛しております」
その一言に、胸が鳴る。
「その上で、もし許されるのであれば……改めて“妻”として、あなたをお迎えしたいと考えております。ただし、それはあくまで、あなたのご意思によるものであってほしいのです」
紙束を開くと、そこには几帳面な文字で、こう綴られていた。
「……これからは、共に築き上げていけたらと」
「公爵夫人として、あなたがどの程度関わりたいのか、何をなさりたいのか、何を望まれないのか……それらすべてを、一から丁寧に話し合っていければと」
「これは一方的な提案ではなく……私たち二人が対等な関係を築くための、出発点にすぎません」
シアは、目の前の彼をじっと見つめた。
赤子でもなく、物言わぬ妻でもなく、“対話する女性”として。
心臓が、どくんと音を立てる。
彼はもう、怖くない。
そして、私はもう、逃げなくていい。
ゆっくりと、シアは紙束に手を伸ばした。
一枚、また一枚とページをめくる。真摯な言葉たちが、そこに詰まっていた。
指が震える。
「……こんなに……丁寧に書いたの?」
「君に伝えるためなら、どれだけでも」
サイラスが小さく笑った。その表情は、かつての“シャーリー”に向けたものと、同じだった。
いや、違う。
これは──“シア”に向けられた、最初の本物の笑顔だった。
シアは思わず、喉の奥で笑った。そして、小さく、でもはっきりと頷いた。
「……じゃあ、一緒に……話しましょう」
その言葉が、どれだけの意味を持つか。
ふたりは、まだ知らない未来へと、初めて同じ速度で踏み出した。
朝の光が、研究室の窓から差し込む。
その柔らかな陽だまりの中、ページを開くふたりの姿があった。
名前ではなく、声でもなく、
ただ、指先と視線が“誓い”を交わしていた。
──私の人生は、私のもの。
──そして、共に生きることもまた、私が選んだ道。
そんな静かな決意とともに、ふたりの物語は、新たに始まった。
明日から新連載始めます。
「何度やり直しても、あなたが私に恋をしてしまうんですが 」
「好き」と伝えた瞬間、すべてがなかったことになる。
国家の不正を暴く天才ハッカー《怪盗エル》の正体は、町のパン屋で静かに暮らす女性・緒方楓。
彼女が真実と愛を手に入れるまでの物語です。