江と千姫
関ヶ原の戦いの時は、これほどまでに案じることが無かったのです。
それは、この戦いが豊臣と徳川の戦いではなく、豊臣の中の戦いだと江は思ったからでした。
石田三成と福島正則はじめとする豊臣秀吉子飼いの武将たちとの諍いがきっかけだとの認識だったからでした。
ただ、不安はなかったわけではなく……。
この機を乗じて義父・徳川家康は天下を獲るつもりだと思ったのです。
そして、それは訪れました。
大坂冬の陣そして大坂夏の陣で……。
「千姫……そなた……無事でいて欲しい!
姉上……姉上……落城は避けられませなんだか?
どこかに小さくても領主となり天下人ではない秀頼様ではいけませなんだか?
どこかの小さな国ならば、秀頼様の命を長らえさせることも出来ましたでしょう
に………。
さすれば、秀頼様と千姫は、いつまでも夫婦で居られました。
千姫を大切にお育て下さった姉上……。
ならば、二人を……その命を守る手立てをお考え頂きたかった。
江は哀しゅうござりまする。」
大坂城が落城したことと、千姫を助け出したことが記された秀忠からの文を読みながら、涙をそっと拭きとった江でした。
助け出された千姫が「義母上様をお助け下さりませ。何卒、何卒お願いいたしまする。秀頼様の御命を何卒、何卒……生き長らえさせて下さりませ。この千のために! 千の母と夫をお助け下さりませ。」と幾度も祖父と父に懇願したと書かれていました。
「ならぬ。」と祖父や父に告げられた千姫は、どのように思ったのであろうか……と江は千姫の心を想いました。
祖父だと言われても、ほとんど会ったことも無い祖父。
父だと言われても、ほとんど会う機会が無かった父。
祖父や父よりも、千姫にとって姑である淀殿と夫である秀頼の方が近かったのです。
大事な方々になったことは当然だったのです。
「千が幾ら懇願しても通りはせぬ願いじゃ。
天下を獲るため故に仕掛けられた戦……。
最初から姉上と秀頼様の命はないものであったのじゃ……。
なれど、千には辛いことであった……。
千……そなたの辛い想い……分かるのは、母のみじゃ。」
千姫が次に自らの命を懸けてでも助けたかった幼い命……。
秀頼の残した子ら……その中で助けられたのは一人だけでした。
幼名も分かりません。何も残されていないからです。
女児の命だけは助けられました。
この女児の命乞いは、千姫だけではなく、江の姉である初も働きかけていたのです。
「初お姉上様、ありがとう存じまする。
助けられて、その子だけではなく、千姫も助けられました。
誰一人助命嘆願が叶わなかったならば、千姫の心は壊れてしまったやもしれませ
ぬ。
千姫をもお助けいただきました。
ありがとうございました。」
落城を目にしていなくとも、落城は分かっていたのです。
経験をしていた江は……。
落ちていく城を見た経験が……。
その脳裏に鮮やかに蘇るのです。
そして、姉が、甥が、落ちていく城の中で自害したであろうことも……。
江戸に千姫が帰って来ました。
会うのは嫁ぐために城を出た日以来でした。
「千姫……。」
「…戻りましてに…ござりまする。」
「よう無事で……。」
「女子は命を助けられるのではありませぬか?」
「千?」
「助けられて、今、こうして御台所になられておられる……。
なのに、何故……何故……
豊臣の女子は尼にならねばならぬのですか!
豊臣がそんなに憎いのでござりまするか!
豊臣が……義母上様が……秀頼様が何をなさったと言うのです!
お二人と国松の命を奪うだけでは足らぬのですか?
あの子は……この千の娘でござりまする。
産んでおらぬが、娘にござりまする。
傍で、この身の傍でお育てしたかった……。秀頼様……。
千は豊臣秀頼様の妻にござりまする。」
「千、徳川が豊臣を憎いのではない。」
「ならば……何故……。」
「憎いのではなく、怖いのじゃ。恐ろしいのじゃ。」
「怖い……恐ろしい……?」
「そうじゃ。亡き太閤殿下の子飼いの武将が、まだ居る……。
いつ、秀頼様の血を受け継いだ者を旗頭に徳川を倒そうとするやもしれぬ。
それが怖いのよ。」
「あれほど……全てを奪ったのに…。」
「奪ったからこそ、奪われる恐怖があるのじゃ。
千、そなたにとって母は姉上……淀殿であろう。
そなたを大きくしてくれたのは姉上じゃ。この母ではない……。
姉上と秀頼様の御冥福をお祈りする日々は、何人たりとも奪えぬのよ。
それは、そなたの心の中で行うこと故に……。」
「母上様……。」
「これから後、そなたはどこぞの大名の元へ嫁さねばならぬでしょう。
どこへ嫁しても、供養は密かに出来まする。
そなたの心の中で行えば良いのじゃ。」
「母上様……。」
泣き続ける千姫を抱きしめながら、江の頬も涙が伝わって落ちたのです。




