露
「露と落ち 露と消えにし わが身かな
浪速のことは 夢のまた夢」
豊臣秀吉の辞世の句です。
戦国大名で畳の上で死を迎えられた秀吉でしたが、その最期はひたすら「秀頼のことを案じる父」でした。
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営しました。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や正室・北政所と側室たちと一日だけの花見を楽しみました。醍醐の花見と呼ばれています。
その後、5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していきました。
5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答しました。
この秀吉の姿を見て、五大老のうち、たった一人心から「遺言を守ります。秀頼公をお守りいたしまする。」と血判した者が居ました。
それは、宇喜田秀家です。
秀家は同じ光景を見ていました。
今、病床に伏している秀吉と同じだったのが秀家の父・宇喜田直家でした。
そして、今の秀頼は、過去の幼い頃の父の死を経て秀吉の猶子になった秀家自身の姿と重なりました。
「太閤殿下、必ずや、必ずや、この秀家はご遺言を御守り致す。
太閤殿下……秀頼公のこと……この秀家が命に代えても御守り致す。
他の者が裏切っても、秀家は……秀家は、最後まで豊臣のために生きまする。」
秀吉は他に、自身を八幡神として神格化することや、遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言しました。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼しました。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記ました。
8月18日、秀吉はその生涯を終えました。享年62歳でした。
北政所が最後に願ったことがありました。
「皆、殿下と二人にさせてくだされ。
長年、連れ添うた妻が殿下と二人で話したいのです。」
「北政所様のお申し出、皆、受け入れ下がりおろう!」
「前田利家様、おおきに。」
今しがた亡くなった夫・秀吉に北政所は話しかけました。
「おにゃあ様、どえりゃあことしなさっただわ。
天下を獲った………。
その天下、秀頼には無理だがや。
どっか一つの国を治めるだけの器量だわ。
秀次を殺めたおみゃあ様……。
秀秋も遠ざけたおみゃあ様……。
身内が一人もおりゃあせんで……秀頼には、の。
大人になっても、器量は幼いままや。
おみゃあ様が誰も育てんかったんだわ。
育てんかった……。
三成は役不足だがや。
三成に正則も清正も、抑えられんだがや。
抑えられるのは、秀次や!
その秀次を…おみゃあ様は殺めた。
おみゃあ様が作った豊臣は、おみゃあ様が亡うなったらお終いや。
豊臣は一代限りだわ。」
北政所は、秀吉の死後、秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾して高台院と称しました。
高台院と淀殿の双方から積極的に連携関係が結ばれていき、高台院は亡き夫の仏事に専念し、淀殿は秀頼の後見人になり、後家の役割が分割されたのです。
慶長13年3月3日、天然痘にかかった豊臣秀頼の治療を行った曲直瀬道三に容態について問い合わせをしています。
淀殿が生んだ秀頼の病気快復を心底から望んでいた真情が伝わってくる内容です。
関ヶ原の戦いの後、淀殿と連携して大津城の戦いでの講和交渉や戦後処理に動いています。
大坂の陣では、「高台院をして大坂にいたらしむべからず」という江戸幕府の意向で、甥・木下利房が護衛兼監視役として付けられました。
そして、身動きを封じられたまま元和元年(1615年)、大坂の陣により夫・秀吉とともに築いた豊臣家は滅びてしまったのです。
一方、利房は高台院を足止めした功績により備中国足守藩主に復活しました。
豊臣家は秀吉一代限りでした。
秀吉の辞世の句のように、露と消えてしまったのです。




