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時雨の焼印【特別盤】  作者: 太幽


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第21話「満開の桜と新たな出会い」

──前回までのあらすじ──

老夫婦の隣に住む欲次郎と意地子。二人は金への欲望と、過去の傷に囚われていた。特に意地子は、幼い日に飢えた野良犬に左手の小指を噛みちぎられた記憶から、犬への憎しみと「奪うこと」だけを信条としてきた。


シロが埋蔵金を掘り当てたと聞いた二人は、金欲しさにシロを借り受ける。しかしシロが掘らなかったことに怒り、石や鍬で彼を殴り殺した。


その後、老夫婦から臼を奪い、金を叩き出そうとするが、臼は割れて何も出ず、二人は村中の笑い者になる。夜陰に乗って村を去った二人の行方を知る者はいない。


「欲次郎と意地子は、今もどこかで臼を叩き続けている——金が出るまで、決して止まらない」


それは、欲張りの末路を戒める、新たな村の言い伝えとなった──。


---


第21話「満開の桜と新たな出会い」



少し刻は遡る。


宇喜多秀家が馬を走らせていた。

春の風が彼の頬を撫で、道端には菜の花が咲き乱れている。

空は高く澄み渡り、旅をするには絶好の日和だった。


数年前、彼の耳に一つの噂が届いた。枯れ木に花を咲かせた老夫婦がいるという。

そして、その老夫婦が飼っていたという白い犬の話——それは、父・秀吉が愛した忠助に違いなかった。


胸の高鳴りを抑えられなかった。

同時に、もう一つの思いが頭をよぎる。

城下町の片隅に広がる貧民街の噂。

飢えと病に苦しむ人々がいるという現実を、この目で確かめねばならない。

天下人として、父の跡を継ぐ者として、見て見ぬふりはできない——。


二つの目的を胸に、彼はまず老夫婦のもとへと向かった。



善兵衛と花乃の家で、秀家はすべてを聞いた。


雪の中で倒れていた白い犬を拾い、「シロ」と名付けたこと。

埋蔵金の奇跡。隣人の欲と愚行。

そして、シロの無惨な死と、桜の奇跡。

善兵衛の語る言葉の一つ一つに、秀家は静かに耳を傾けていた。

彼の目は、時折遠くを見つめ、何かを思い出しているようだった。


「シロは、私たちに最後の贈り物をしてくれたのです」


善兵衛の指さす先には、満開の桜が咲き誇っていた。枯れ木だったはずの大木が、見事な花を咲かせている。

花びらは風に舞い、辺り一面を淡いピンク色に染めていた。

その美しさに、秀家は言葉を失った。


秀家はしばらく無言で桜を見上げていた。風が吹き、花びらが舞い落ちる。

一片が彼の肩に止まり、はらりと落ちた。彼はその花びらを手に取り、そっと掌に乗せた。花びらは、かすかに温かかった。まるで、生きているものの体温のように。彼はその花びらをそっと握りしめ、目を閉じた。


「忠助……お前は、ここで幸せだったのだな」


彼の目に一瞬の哀しみがよぎった。

しかしすぐに、穏やかな微笑みに変わった。

犬は、犬としての役目を、見事に果たしたのだ。

戦場で主を守り、平和な世では老夫婦を愛し、最後には奇跡を残した。これ以上の生き方があるだろうか。



秀家は、老夫婦に告げた。


「そなたたちの正直な心と、シロの忠誠が咲かせたこの桜——これこそ、まさに奇跡じゃ。そなたたちに、褒美を与えよう」


秀家は、城下町の一角にある小さな店を老夫婦に授けた。

かつて餅屋として栄えたが、今は空き家となっていた場所だった。

表通りに面し、人通りも多い。立地は悪くなかった。


「聞いたぞ、お主が作る餅は絶品だとか。餅を作って暮らすがよい。そなたたちの作る餅を求める者も多いはずだ。この店なら、きっと繁盛する」


善兵衛と花乃は、涙を流して感謝した。花乃の袖が、涙で濡れている。


「そんな滅相もありませぬ、身に余る光栄……このご恩は、一生忘れませぬ。秀家様のお心遣い、決して無駄にはいたしません」


善兵衛は何度も頭を下げ、花乃は袖で涙を拭いながら、ただただ感謝の言葉を繰り返した。



老夫婦に別れを告げた後、秀家は貧民街の奥へと足を踏み入れた。


そこにあったのは、想像を絶する光景だった。


朽ちかけた家々の隙間から、かすかな呻き声が聞こえる。

地面には汚水が溜まり、異臭が立ち込める。

飢えに苦しむ子供たちが、虚ろな目で通り過ぎる秀家を見つめていた。

その目には、もはや涙さえなかった。病に倒れた老人が、誰に助けを求めるでもなく、ただ空を見上げている。

生きることを、もう諦めているかのように。


秀家は、奥へ奥へと足を進めた。進むほどに、光景はさらに酷くなっていく。

そこには、かつての戦場と同じ——死の匂いが漂っていた。

血の匂いではなく、生を諦めた者たちの、冷たい諦めの匂い。


そして、その中で、彼らを食い物にする没落貴族たちがいた。

飢饉の時代に農民を搾取したあの貴族の末裔が、今度は貧民街で新たな「鬼」となっていた。

彼らはわずかな食料と引き換えに、人々から最後の尊厳までも奪っていた。

ぼろ布一枚、腐った食べ物一つで、人を意のままに操る。

その姿は、かつての「鬼」と何も変わらなかった。


秀家は激怒した。

彼らを捕らえ処刑したが、それで問題が解決するわけではなかった。

残された者たち——生きる希望を失った者たちを、どうすればいいのか。

答えは出せなかった。

彼らに食料を与えれば、一時しのぎにはなる。

しかし、それだけでは何も変わらない。

彼らが自らの足で立ち上がるための道を、どう作ればいいのか。


夜になり、秀家は一人、貧民街を見下ろす丘に立っていた。

見下ろす街には、わずかな灯りが点々としている。

一つ一つの灯りの下で、誰かが今日も生き延びようとしている。

しかし、その灯りの数は、あまりにも少なかった。

闇の中に、ぽつりぽつりと浮かぶ光。

それが、かえって闇の深さを際立たせていた。


「わしは……やはり、あの伝説の男のようにはなれぬのか……」


脳裏に浮かぶのは、遠い日の記憶。


放浪の旅で立ち寄った山奥の村で出会った、真っすぐな目をした少年——桃太郎。

彼は武力ではなく、対話と共生で人々を救った。

鬼ヶ島の者たちですら、彼の元で新たな人生を歩んだという。

武力で叩くのではなく、共に生きる道を選んだ。

自分には、それができるだろうか。


それに比べて、自分は——ただの枝切りで終わってしまうのか。

根っこから、何かを変えることができないのか。


秀家は深い絶望に落ち込んだ。

風が冷たく、彼の袖を揺らした。

彼の影が、月明かりに照らされて長く伸びている。



秀家は、答えを求めて馬を走らせた。


向かう先は、あの伝説の男が暮らしていたという吉備の山奥の村。

かつて幼き日に訪れたあの場所。

老婆に頭を叩かれている少年たちを見て、腹の底から笑ったあの村。

あの日、自分は何も知らなかった。

この世にこんなにも平和な場所があることなど、想像もしていなかった。


道すがら、彼は何度も自問した。

なぜ自分は桃太郎のようにできないのか。なぜ目の前の苦しみを救えないのか。

父は天下を統一した。

だが、天下が統一されたからといって、人々の心が統一されるわけではない。

貧しさも、差別も、憎しみも——なくなりはしない。


答えは出なかった。


村に到着すると、そこは静かで平和な里山の風景が広がっていた。

かつて鬼と呼ばれた者たちと、かつて鬼に怯えていた者たちが、共に畑を耕し、共に笑い合っている。

まさに、桃太郎が願った「安堵の光」そのものだった。

村人たちの笑い声が、風に乗って聞こえてくる。

その笑顔の一つ一つに、桃太郎の理想が息づいているように思えた。

誰も奪わず、誰からも奪われない。

ただ、共に生きる喜びだけがある。


秀家はすぐにその光に影があることに気づいた。あの少年は、もうこの世にはいないのか——。


「すまぬ、そこの者、桃太郎殿はいるか!」


村人たちに桃太郎のことを尋ねると、彼らは懐かしそうに、そして悲しげに語り始めた。

桃太郎は数年前、静かに息を引き取ったこと。

妻の時雨も、その後を追うように逝ったこと。

衛門も、もうこの世にはいないこと。


ただ一人、弥助だけが村の奥で隠遁生活を送っているという。

誰もが口を揃えて言った。

「桃太郎様は、この村の宝でした」と。


秀家は、村はずれの丘にある二人の墓に手を合わせた。

風が吹き、桜の花びらが舞い落ちる。

その花びらは、老夫婦の家の桜と同じ——あの忠助が咲かせた桜と同じ種類のものだった。

もしかしたら、何かが繋がっているのかもしれない。


「桃太郎……お前は、立派にやり遂げたんだな」


秀家は声を震わせた。


「せめてあと一度、お主と語りたかった…酒を酌み交わしたかった…」


そして墓の前で両膝をついて懇願した。

自分に足りないものは何なのか。

自分が変えるべきものは何なのか——教えてほしいと。


「教えてくれ…桃太郎…」


墓参りのために持ってきた酒を、桃太郎と時雨の眠る墓にかけて泣き崩れた。

酒が土に染み込む音だけが、静かに響いていた。



その時、村の奥から一人の若者が現れた。


「綺麗な桜だな——」


若者は満開の桜と、その前に立つ秀家の姿を見て、言葉を失った。


——その顔立ち、どこかで見たことがある。いや、見覚えがあるのではない。

そこには、あの日の桃太郎の面影が、はっきりと刻まれていた。

目元の優しさ、口元のわずかな笑みの形——すべてが、記憶の中の少年と重なった。

あの日、老婆に頭を叩かれていた少年と、同じ顔立ち。

時の流れを感じさせる、確かな証だった。


「お前は……まさか……」


若者はゆっくりと秀家に近づき、深々と頭を下げた。

その動作にも、桃太郎の面影があった。

背筋の伸ばし方、手の位置——全てが、あの日見た少年と重なる。


「宇喜多様ですね。父、桃太郎の息子、喜備丸と申します」


秀家の胸に、熱いものがこみ上げた。

長年探し求めていたものに、ようやく出会えたかのような感覚だった。

それは、父の形見を見つけた時のような、懐かしさと切なさが混ざった感情だった。


「桃太郎の……息子……!」


秀家は立ち上がり、静かに歩み寄った。

彼の手が、わずかに震えている。



二人は桜の木の下に腰を下ろした。

花びらが舞い落ちる中、喜備丸は語り始めた。

父・桃太郎の最期のこと。

母・時雨が後を追ったこと。

そして、母から教わったきび団子の作り方を、今も守り続けていること。


「母は、最期にこう言いました。『この味を、次の世代に伝えてほしい』と。私は、その言葉を守っています」


喜備丸の声は、穏やかだった。

そこには、父と母への深い敬愛があった。


秀家は静かに聞いていた。

喜備丸の語る一つ一つの言葉が、彼の心に染み入っていく。

桃太郎が目指したもの。

時雨が継いだもの。

そして、それらが今、この若者の中に生きている。


そして、すべてを聞き終えた後、深いため息をついた。

彼の目には、再びあの貧民街の光景が浮かんでいた。


「喜備丸……私はな、先ほど貧民街という場所に行ってきた。そこには、飢えと病に苦しむ人々がいた。そして、彼らを食い物にする新たな『鬼』がいた。私は彼らを処刑したが、残された者たちを救うことはできなかった。彼らに食べ物を与えれば、一時は救える。しかし、それだけでは——彼らが自ら立ち上がる力にはならない」


秀家の声には、重い後悔がにじんでいた。

彼は自分の無力さを、初めて誰かに打ち明けていた。

天下人の子として、誰にも弱みを見せてはいけないと思ってきた。

しかし、今は違う。この若者には、素直に心を開ける気がした。


喜備丸は何も言わず、ただ秀家の言葉に耳を傾けていた。

彼の目には、父と同じ優しさがあった。

人の話を、ただ受け止めることができる優しさ。


「そなたの父は、こんなにも平和な村を根幹から解決して作り上げた。武力ではなく、共に生きる道を選んだ。だが私は、ただの枝切りしかできていなかった。出てきた芽を摘むことはできても、根っこから何かを変えることができない……」


秀家の声には、深い無力感がにじんでいた。

彼の拳が、膝の上で握りしめられている。


喜備丸は立ち上がり、村の奥へと走っていった。

しばらくして、彼は手に何かを持って戻ってきた。


「これを、どうぞ」


彼が差し出したのは、きび団子だった。まだ湯気が立っている。

温かく、柔らかそうな団子。表面には、焦げ目がほんのりとついている。


「母から教わった、父の大好物です。父は、この団子を食べるたびに、母の笑顔を思い出していたそうです」


秀家は団子を手に取り、じっと見つめた。掌に伝わるわずかな温かさ。

それは、遠い記憶の中の温もりと同じだった。

あの日、山奥の村で、老婆が作ってくれた団子の温もりと、何も変わらない。


そして、一口かじった。


——その瞬間、時が巻き戻った。


脳裏に浮かぶのは、あの日の記憶。

老婆が作ってくれた素朴で温かい団子の味。

少年たちが客人の団子を当たり前のように食べて、老婆に頭を叩かれている光景。

そして、その少年たちの真っすぐな瞳。

あの日、自分は心の底から笑った。城では決して味わえない、偽りのない笑いを。


「この味だ……!」


秀家の目から涙がこぼれ落ちた。

涙は止めどなく溢れ、彼の頬を伝って団子に落ちた。

五十年以上の時を超えて、同じ味がここにある。

それは、ただの団子の味ではなかった。

誰かを信じることのできる心。

誰かと共に生きることのできる喜び。それら全てが、この一口の中にあった。


喜備丸は静かに言った。


「殿が動き出したから今があるのです。殿がいなければ、父が目指した平和は百年遅れていたでしょう。殿にしかできないことを、貧民街の荒地のような場所は本来、見向きもされない。でもあなたは今、向き合ってるではありませんか。それだけで——大きな一歩です」


その言葉が、秀家の心に深く染み渡った。

長年探し求めていた答えが、ようやく見つかった気がした。

根っこを変えることは、一朝一夕にはできない。

しかし、見向きもしないよりは、向き合うことから全ては始まる。

それだけで、何かが変わる——。



その夜、秀家は村はずれの丘に立っていた。

月明かりが、桃太郎と時雨の墓石を静かに照らしている。

周りには、夜風に揺れる木々の音だけが聞こえる。

遠くでは、川のせせらぎがかすかに聞こえていた。


背後から、かすかな足音が聞こえた。

振り返ると、弥助が立っていた。

彼の姿は、かつてとほぼ変わらない。

当時のそのままで老けたように見えない。

山の精霊のように、時を超越しているかのようだった。


「弥助……お主、まだ生きていたのか」


弥助はムッとした顔になった。


「まだって何だよ!いきなり失礼だな!生きていたよ。約束を守ってな。『必ず生きて帰る』——あの約束を、俺はまだ守り抜いてるんだ。どうだ、参ったか!」


秀家は声を出して笑った。


「ははははは!あれから随分と経つのに変わらんな!その口調も、その態度も、何一つ変わっておらん!」


秀家は深く頭を下げた。


「ありがとう。お前たちがいたから、この国は平和になった」


弥助は何も言わず、ただ静かに桃太郎の墓を見つめて一言つぶやいた。


「…女房が欲しかったなぁ…」


弥助は秀家が持っていた酒を当たり前のように取り、飲み始めた。遠慮のかけらもない。

かつて、桃太郎の団子を当たり前のように食べたあの日と同じだった。


「…」


「ん?どうした?秀家?」


「…いや、本当に相変わらずだなと思ってな、貴様を殴りたくなったわ」


「はははは!悩むのが馬鹿らしくなったろう!泣こうが笑おうがやるべき事は変わらん!ならば笑え!それが桃太郎の教えだ!」


秀家は弥助の言葉を聞き、吹っ切れたような表情を見せていた。

長年抱えていた重荷が、少しだけ軽くなった気がした。

そうだ。

やるべきことは変わらない。ただ、前に進むだけだ。


「その酒、請求するならな」


その言葉を聞いた瞬間、弥助は消えた。

風のように。

秀家は一人、月明かりの下で笑った。


「…本当、相変わらずだ」


しかし、その口元には笑みが浮かんでいた。

彼は桃太郎の墓に向かって、もう一度手を合わせた。


「ありがとう、桃太郎。お前の息子に、会えた」



翌朝、秀家は喜備丸に告げた。


「喜備丸、私と一緒に城下町へ来ないか」


「え?」


「実はな、先ほど訪れた貧民街で、一組の老夫婦に出会った。彼らはシロという犬を愛し、その犬の奇跡で桜を咲かせた。私は彼らに、褒美として店を与えた。餅屋の店だ。もう年寄りだが、腕は確かだと聞いている」


喜備丸は、静かに耳を傾けていた。彼の目には、少しだけ迷いの色が浮かんでいる。村を離れることへの寂しさが、胸をよぎったのだろう。


「しかし、彼らは年老いている。店を長く続けられるかどうか……そこでだ。お前に、その店の跡取りになってほしいとは思わないか?」


「跡取り……?」


「お前の母から教わったきび団子の味を、あの店で広めてみないか。老夫婦の餅の技と、お前の母の団子の味が合わされば、きっと素晴らしいものになるだろう。老夫婦も、きっと喜ぶ。後継者ができれば、安心して隠居もできる」


喜備丸は一瞬ためらった。

村を離れることへの寂しさが、胸をよぎった。生まれ育ったこの村。

父と母が眠るこの場所。弥助がいるこの場所——。


しかし、すぐに力強く頷いた。

父の背中を、母の背中を見て育った彼には、迷う理由はなかった。


「はい。父の夢を、私が叶えます。武力ではなく、団子で人々の心を繋ぐ——それが、父の本当の夢だったのだと、今ならわかります」


秀家は、その決意に満ちた目を見て、確信した。

この若者なら、きっとやれる。

桃太郎の血を引く者として、時雨の想いを継ぐ者として——彼はきっと、父と母の夢を形にする。



喜備丸が村を旅立つ朝、村人たちが集まって見送った。

朝日が昇り、村全体を柔らかな光で包んでいる。


その中に、弥助の姿があった。

彼は喜備丸の旅立ちを静かに見守っていた。

いつもの軽口も、猿の真似もない。

ただ、じっと喜備丸の姿を見つめている。


「行け、喜備丸。お前の父も、時雨も、きっと喜んでいる。俺も——誇りに思う」


彼の目に、涙が光っていた。


喜備丸は、深々と頭を下げた。


「弥助さん、今までありがとうございました。父の代わりに、ずっと見守ってくれて」


「おう。行ってこい。そして——たまには帰ってこい。山の猿たちに、団子を届けてくれ」


喜備丸の姿が山道の向こうに消えていく。

風が吹き、桜の花びらが舞い散る。


弥助は静かに呟いた。


「桃太郎……時雨……衛門……お前たちの夢は、確かに受け継がれたぞ。喜備丸が、あの団子の味を、きっと広めてくれる」


彼はゆっくりと山の奥へと戻っていった。

その後ろ姿は、山の精霊のように静かで、そして力強かった。

猿たちが彼の後を追い、木の上を跳ねていく。


十一


宇喜多秀家が連れて行った先は、城下町の一角にある、小さな店だった。


「ここだ」


秀家が指さしたのは、通りに面したこぢんまりとした店構え。

表には、まだ看板もない。

しかし、場所は良かった。

人通りも多く、近くには旅人が立ち寄る茶屋もある。


店の中では、善兵衛と花乃が待っていた。二人とも、新しい人生の始まりに、少し緊張した面持ちだった。


「おお、これが噂の若者か!」


善兵衛が、喜備丸を見て目を輝かせた。

彼の目は、長年の餅作りで培われた職人の目だった。

喜備丸の手つき一つで、その力量を見極めようとしている。


「よろしくお願いします。私は喜備丸と申します。母からきび団子の作り方を教わりました」


花乃が、優しく微笑んだ。

彼女の目には、喜備丸の中に何かを重ねているかのような、懐かしさがあった。


「まあ、しっかりした方じゃ。私たちも、餅作りの技を伝えることができる。これで店も繁盛するじゃろう」


三人の間に、新たな家族の絆が生まれようとしていた。

善兵衛と花乃にとって、喜備丸は息子のような存在。

喜備丸にとって、二人は新たな家族。

時雨が継いだ味と、老夫婦の技が、ここで一つになる。


十二


店の準備が整うまで、数か月を要した。


喜備丸は、母・時雨から教わった記憶を頼りに、何度も何度も団子を作り直した。

時には失敗し、時には焦がし、それでも決して諦めなかった。

母の手つきを思い出しながら、何度も何度も捏ね直した。

粉の量、水加減、捏ねる強さ、火加減——全てが完璧でなければ、母の味にはならない。


彼の手は、母の手の動きを覚えていた。

粉を捏ねる指先の力加減、火加減を見極める目の使い方——母の横顔を思い出しながら、一つ一つ丁寧に再現していく。

団子を捏ねるたびに、母の優しい声が聞こえるような気がした。

「もっと、力強く。愛情を込めて」——その言葉が、彼の手を動かしていた。


善兵衛と花乃も、餅作りの技を惜しみなく伝えた。


「ほれ、こうやって捏ねるんじゃ。力加減が大事なんじゃぞ。強すぎれば固くなる。弱すぎれば形が崩れる。ちょうどいい加減を見極めるのが、職人の腕の見せ所じゃ」


「良い餅は、良い材料からじゃ。手を抜いてはいかんよ。材料を大切にすることが、料理の基本じゃ」


喜備丸は、二人の教えを必死に吸収した。母の団子と、老夫婦の餅。

二つの味が、彼の中で融合していく。

日を追うごとに、団子は母の味に近づいていった。手の感覚が、母の記憶を呼び覚ます。


ある日のこと。

ようやく納得のいく団子ができた時、喜備丸は焼印を押すことを思いついた。


「母の名を、刻もう」


喜備丸は、鉄の焼印を囲炉裏の火にくべた。先端が赤く色づくのを待ち、彼はそれを団子の表面に押し当てた。ジュッという小さな音。焦げる香りが、ふわりと立ち上る。彼は焼印を離した。団子の表面に、「時雨」の文字がくっきりと刻まれている。焦げ目は薄茶色で、団子の白さに映えていた。彼はその団子を手に取り、しばらく見つめた後、そっと口に運んだ。焦げた部分が、ほろ苦かった。だが、その苦さの奥に、確かな甘さがあった。母の団子と同じ味がした。彼の目に、涙がにじんだ。


「母は、私にこの味を教えてくれました。父は、この味を愛しました。ならば、この団子を食べる人々にも、母のことを知ってほしい——そう思ったんです」


善兵衛と花乃は、顔を見合わせ、優しく微笑んだ。


「良い名前じゃ。きっと、時雨さんも喜んでおられるじゃろう。自分の名前が、こうして残っていくんだからな」


十三


桃川喜備丸の「きび団子」は、あっという間に城下町の名物になった。


素朴で、優しい甘さ。

食べると、どこか懐かしい気持ちになるその味は、老若男女を問わず愛された。硬すぎず、柔らかすぎず、口の中でほどける絶妙な加減。

それが、多くの人の心を掴んだ。


旅人が食べては、故郷の味を思い出した。親に連れられた子供が食べては、満面の笑みを浮かべた。

疲れた商人が食べては、ほっと一息ついた。戦で故郷を失った者も、この団子を食べると、なぜか心が安らぐと言った。


そして、団子に刻まれた「時雨」の焼印を見て、誰もが不思議がった。


「時雨って、誰なんじゃろうな」

「きっと、この店の昔の主か、あるいは——」


真実を知る者は、誰もいなかった。

老夫婦は語らなかった。

喜備丸も、多くを語らなかった。

ただ、その味だけが、静かに語り継がれていく。


しかし、団子を食べた者の心には、必ずどこか温かいものが残った。

それが、時雨が遺したものだった。

目には見えない。

形もない。

それでも、確かにそこにある。

誰かの心を温める、優しい光。

それが「時雨の焼印」の本当の意味だった。


十四


それから幾年かの月日が流れた。


弥助は、村の奥で隠遁生活を続けていた。

時折、猿たちが遊びに来て、彼の孤独を慰めた。

彼は猿たちと木の実を探し、木の上で昼寝をし、山の掟を守って暮らしていた。

誰にも干渉されず、誰にも煩わされず。

ただ、自然の中で、静かに生きていた。


ある日、弥助は山の頂上に登り、遠くの城下町を眺めた。

春の風が、彼の髪を揺らす。

雲の切れ間から、陽の光が差し込んでいる。


「喜備丸……元気にやっておるかな。きび団子、きっと評判になってるんだろうな」


彼の目に、かすかな笑みが浮かぶ。

彼の耳には、猿たちの楽しそうな声が聞こえていた。

彼は、その声に誘われるように、ゆっくりと目を閉じた。


その夜、弥助は静かに息を引き取った。


翌朝、猿たちが彼の遺体を発見した。

彼らは、哀しげな鳴き声を上げながら、弥助の遺体を山の深くへと運んでいった。

それは、山の精霊を送るかのような、神聖な儀式だった。

猿たちは、彼の遺体を花で覆い、木の実を供え、静かに去っていった。


弥助は、誰にも知られず、山の精霊となって眠りについた。

彼が愛した山々が、永遠の眠りを包んでいた。

春には新芽が芽吹き、夏には木々が茂り、秋には木の実が実り、冬には雪が降り積もる——弥助は、それら全てを見守り続ける。


山の精霊として、永遠に。


十五


喜備丸は、店を守り続けた。


彼は結婚し、子供にもきび団子の作り方を教えた。

子供の手はまだ小さく、団子を捏ねるには力が足りない。

それでも、喜備丸は根気強く教えた。

母が自分にそうしたように。


「この味はな、お前の曾祖母から受け継いだものなんじゃ」


「曾祖母って?」


「川のほとりで団子屋を営む老夫婦だ。その味を俺の母、お前の祖母の時雨が受け継ぎ、俺に紡がれた。ここだけの話、あの伝説の桃太郎はお前の祖父だ。そして、この店をくれたのは、宇喜多秀家様。この店の始まりには、シロという忠犬の物語もあるんじゃ」


子供の目が、好奇心で輝いた。

喜備丸は、その目を見て、父や母が自分にそうだったように、優しく語り続けた。

父の夢、母の想い、そして——誰かを思う心の大切さを。


こうして、「時雨」の焼印が押されたきび団子は、代々受け継がれていくことになった。

父から子へ、母から子へ——時雨の想いは、決して途切れることなく、永遠に続いていく。


十六


さらに時は流れ、戦乱の世は遠く昔の話となった。


ある旅人が、この土地を訪れ、団子屋に立ち寄った。

店の前には、今日も長い列ができている。

老若男女が、この団子を求めて訪れる。

旅人は、その列に並びながら、ふと店の看板を見上げた。

そこには「時雨」の文字と共に、小さな焼印が描かれている。


「この焼印は、何と読むんですか?」


店主が、誇らしげに答えた。

その目には、代々受け継がれてきた誇りが輝いている。


「『しぐれ』と読みます。

私の曾祖母の名前でしてね。

彼女が、この味を残してくれたんです。

もう随分と昔のことですが、この味だけはずっと変わらずに続いています」


旅人は、団子を一口食べて、目を細めた。


「美味い。どこか、懐かしい味がする。子供の頃に食べたような——」


店主は、静かに微笑んだ。


「そう言ってくださる方が、たくさんいらっしゃるんです。この味が、誰かの心の安らぎになるのなら——それが、私の誇りです」


風が吹き抜ける。

その風は、遠い日に吉備の村で四人がきび団子を囲んだ夜を、そして血と泥にまみれた戦場を駆け抜けた一匹の犬の物語を、静かに語り継いでいるかのようだった。


十七


宇喜多秀家は、現役を引退してからも、時折こっそりと城を抜け出しては、喜備丸の団子屋を訪れていた。

彼にとって、この団子屋は特別な場所だった。桃太郎との約束の味。

父が愛した忠助の奇跡の味。

そして——自分自身が、初めて本当の笑顔を見つけた場所。


しかし、そのたびに護衛に見つかり、団子を一口もかじれぬまま連行されるのがお決まりの光景となっていた。

彼が店の前に立つと、どこからともなく護衛が現れる。そして、彼の手から団子が奪われる。


「次こそは!次こそは!」

「おのれ貴様ら!食べる直前を狙って来やがって!」

「我を誰と心得る!団子くらい食わせてたもーーーー!」


その叫び声が、夕暮れの城下町に響き渡る。

護衛たちは慣れた様子で、文句を言う秀家を両脇から支えている。それでも秀家は、団子を求めて手足をバタバタさせている。


陽気な元お殿様は、現役引退後は都の名物として、別の意味で人気が出たらしい。

毎日のように団子屋に現れては、護衛に連行される。

それが、この町の日常の光景になっていた。


喜備丸は、その背中を見送りながら、くすくすと笑った。

そして、店の奥にある焼印を見つめる。「時雨」の文字が、夕日を受けて赤く輝いている。


「父上も、きっと笑ってるだろうな。あの元気な姿を見たら。母上も——きっと、一緒に笑ってる」


喜備丸はふと高台を見上げた

「あれは——父上、母上!」


高台で二人の男女の姿が見えた。

その姿は、二人が出会った頃の若かりし姿だった。


「そして…あれは!」

高台で手を振る影と、高台から響き渡る犬と猿の声が聞こえてきた。


喜備丸は高台に向かって両手を広げ、大きく手を振った。


十八


こうして、長い物語は静かに幕を閉じた。


桃から生まれた英雄の話は、いつしか御伽話となり、教科書に語り継がれるようになった。


花咲か爺さんの話も、また別の形で語り継がれた。


しかし、真実は違う。


鬼と呼ばれた者たちも、ただ生きるために必死だった。

正義だと信じて振るった剣が、いつしか誰かを傷つけていた。

それでも、人は変われる。

誰かを許し、誰かに許されることで。

憎しみの連鎖を断ち切るのは、復讐ではなく——愛だと、彼らは教えてくれた。


そして、一匹の犬が教えてくれた。

誰かを守るために生きることの意味を。

誰かに愛されて生きることの幸せを。

たとえ、そのことが語り継がれなくても——

その想いは、確かにここにある。


時雨の焼印が押された団子は、これからもずっと、誰かの心を温め続ける。

喜備丸の子、そのまた子へと受け継がれていく味。

それは、復讐に燃えた一人の少女が、愛を知り、母となり、そして永遠の物語となった証だった。


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【次回予告】


こうして、桃太郎と時雨の長い物語は、静かに幕を閉じた。


しかし——彼らの想いは、決して消えることはない。


時雨の焼印が押された団子は、これからもずっと、誰かの心を温め続ける。


喜備丸の子、そのまた子へと受け継がれていく味。


あの日、鬼ヶ島で生まれた小さな願いが、今——

時代を超えて、あなたの手に届く。


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次回、最終話「彼女が紡いだもの」


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【第21話・完結】

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