第20話:隣人の眼 ― 欲次郎と意地子の物語
──前回までのあらすじ──
戦場を駆け抜けた秀吉の愛犬・忠助は、桃太郎の導きで「誰かに愛されて生きる」ことを知る。城を離れ、老夫婦・善兵衛と花乃に「シロ」と名付けられ、穏やかな日々を過ごしていた。
しかし、隣人の欲次郎と意地子は、シロが埋蔵金を掘り当てたと聞き、金欲しさに彼を借り受ける。シロが掘らなかったことに怒った二人は、石や鍬で彼を殴り殺す。シロの亡骸は老夫婦の畑に埋められた。
その夜、善兵衛の夢に桃太郎と時雨、そして秀吉が現れる。「灰を枯れ木の根元に撒け」——その言葉の通りにした三十日後、枯れ木は満開の桜を咲かせた。
宇喜多秀家はその桜を見て気づく。「忠助——お前だったのか」
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第20話:隣人の眼 ― 欲次郎と意地子の物語
一
窓辺から見える「幸せ」
欲次郎と意地子にとって、隣の老夫婦の家は、窓から見える「自分たちにはないもの」の象徴だった。
あの白い犬が来てからというもの、善兵衛と花乃の家からは、絶えず笑い声が聞こえてくる。
囲炉裏を囲む温かい団欒、畑仕事の後の満足げなため息、そして、犬に向ける優しい言葉の数々——それらが、壁一枚隔てた隣の家にまで、はっきりと聞こえてくるのだった。
欲次郎は、そんな隣家の様子を、障子の隙間からじっと眺めていた。
彼の指先は、いつも金の入った袋を弄っている。硬貨の感触、硬貨の音——それが彼にとって唯一の確かなものだった。指の腹で硬貨の縁をなぞり、一枚一枚の重みを確かめる。その動作だけが、彼を落ち着かせた。
「……あの老夫婦、なぜあんなに幸せそうなんだ」
彼の手には、金の入った袋。
何度数えても、その量は変わらない。
それなのに、彼の心は満たされることがなかった。
金を数えれば数えるほど、何かが足りないような、虚ろな感覚が彼を襲う。袋の重みが増すほどに、心の空虚さも膨らんでいくようだった。
意地子は、そんな夫の姿を冷めた目で見つめていた。
彼女の左手には、小指がない。
その欠けた部分が、疼くように熱を持つことがあった。特に、隣の家から笑い声が聞こえてくる時——あの白い犬の姿を目にした時——その疼きは、彼女の全身に広がるのだった。彼女は無意識に、存在しない小指を探すように、左手の薬指と手のひらの間を親指でなぞる。そこには何もない。ただ、滑らかな傷跡があるだけだった。
(幸せ……? この世にそんなものが本当にあるのか?)
彼女の脳裏には、幼い日の記憶が焼き付いていた。
それは、決して消えることのない、生きた傷。
彼女が金にすがり、人を妬み、奪うことだけを信条としてきた、その原点。
二
意地子の左手 ― 消えない傷跡
あれは、飢饉が最もひどかった年の冬だった。
空は鉛色に曇り、雪は溶けずに地面を覆い、生きるための糧は、どこからも手に入らなかった。
家族は飢えに苦しみ、一日でも早く食べ物を見つけなければ、全員が死ぬかもしれない。
父はもう起き上がれず、母は痩せ細って、ただただ息をしていた。
幼かった意地子は、必死に町外れのゴミ捨て場を漁っていた。
そこには、富裕な家が捨てた食べ残しが、わずかに残されていることがあった。
雪をかき分け、腐臭のする山の中を手探りで進む。指先は凍えて感覚がない。それでも、彼女は探し続けた。家族を救うために——。
その日、彼女は一握りの固くなった飯びつを見つけた。
それは、彼女の家族が数日ぶりに口にする食べ物だった。
彼女はそれを胸に抱きしめ、震える手で握りしめた。
温もりはなかった。
冷たく、固いだけ。
それでも、命をつなぐ糧だった。
しかし、その瞬間だった。
「グルルルル……」
低い唸り声。
振り返ると、一匹の痩せ細った野良犬が、彼女の獲物を狙って牙を剥いていた。
犬もまた、飢えに苦しんでいた。生きるために、必死だった。
その目は、人間のそれと同じ——生き延びるための、必死の光を宿していた。
意地子は飯びつを抱えて逃げようとした。だが、犬は追いかけてきた。
雪の中、必死に走る。足は取られ、息は切れる。
それでも彼女は手を離さなかった。離したら終わりだと、幼いながらに理解していた。
そして、犬の牙が、彼女の左手に食らいついた。
犬の牙が、彼女の左手の小指に食い込んだ。彼女は自分の骨が砕ける音を聞いた——グシャリという、濡れた、小さな音。次に、熱さが来た。噛まれた場所が、燃えるように熱い。そして、犬が彼女の手から離れた時、その熱さと一緒に、小指がなくなっていた。血が、雪の上に滴り落ちる。赤い染みが、じわじわと広がっていく。彼女はその染みを見つめながら、痛みよりも先に、空腹を思い出していた。
「いやっ!」
痛みと衝撃で、彼女の手から飯びつが落ちる。
犬は飯びつを奪い、どこかへ消えていった。
雪の上に残されたのは、血の跡と、彼女の左手からもぎ取られた小指だけだった。
血が止まらず、彼女は泣きながら家に帰った。
母は何も言わず、ただ布で彼女の手を包み、ぼろ布を巻いた。
薬もなければ、医者もいない。ただ、凍てつく冬の夜を、痛みと共に耐えるしかなかった。
あの日から、彼女の心に深い傷が刻まれた。
――犬は、人から食べ物を奪う、汚らわしい生き物だ。
――この世は、奪うか奪われるかだ。
――金さえあれば、奪われることはない。
そう信じなければ、彼女は生きていけなかった。
そう信じなければ、あの日、自分を守れなかった無力さに、押し潰されてしまいそうだったから。
三
「金を生む犬」の噂
「隣の白い犬が、埋蔵金を掘り当てたらしいぞ」
村中に広まったその噂は、欲次郎と意地子の耳にもすぐに入った。
噂は瞬く間に広がり、様々な尾ひれがついて語られた。
あの犬は金を呼ぶ、あの犬は宝物の在り処を知っている——。
欲次郎の目が、ぎらついた光を放つ。
「金を生む犬……だと?」
彼の手に握られた金の袋が、ぎゅっと握りしめられる。
彼はすぐに、老夫婦の家へと向かった。そして、ありったけの金を積んで、シロを買い取ろうとした。
金貨の入った袋を机の上に置き、彼は上から目線で言い放った。
しかし、老夫婦は首を縦に振らない。
「シロは家族です。金では売れません」
「なに……!」
断られたことに、欲次郎の怒りは頂点に達した。
彼の顔は紅潮し、拳は震えている。
しかし、彼の心の中では、別の考えが渦巻いていた。
(買えなければ……借りればいい。そして、金の在り処を吐かせれば……)
彼の口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。
欲次郎は、一日だけ金を積んでシロを借りることにした。
老夫婦は渋々ながら承諾した。
その時の老夫婦の不安そうな顔が、欲次郎の心をさらに満たした。
彼らの幸せそうな顔が、歪むのを見るのが——彼には、なぜか心地よかった。
四
「掘れ!掘れ!」
「さあ、ここを掘れ!掘れば金が出るぞ!」
欲次郎はシロを庭に連れ出し、鍬を片手に興奮した声で叫んだ。
意地子も隣に立ち、鋭い目でシロを見下ろしていた。
彼女の左手の小指のない部分が、また疼き始めている。
しかし、シロは動かない。
ただじっと座り込み、彼らを見上げているだけだ。
その目は、静かで、澄んでいた。戦場で幾度となく敵を見極めてきた、研ぎ澄まされた目。
それは、彼らの心の奥底にある空虚さを、見透かしているかのようだった。
「なぜ掘らぬ!さっさと掘れ!」
怒鳴っても、シロは動かない。
その瞳は、まるで彼らを見透かしているかのようだった。
金への欲望だけが心を占める欲次郎。
復讐と憎しみに囚われた意地子——その醜い心が、シロには見えていたのかもしれない。
苛立ちに任せて、欲次郎は鍬の柄でシロを殴りつけた。
鈍い音がして、シロの体が軋む。白い毛が、土埃にまみれる。
「掘れ!掘れと言っているんだ!」
何度も、何度も、殴りつける。
シロは倒れても立ち上がり、また倒れても立ち上がる。
その度に、欲次郎の手に持った鍬の柄が、シロの体にめり込む。
血が、白い毛を赤く染めていく。
意地子は、その光景をじっと見つめていた。彼女の左手の、小指のない部分が、ズキズキと痛み始める。
それは、まるで生きているかのように、脈を打っていた。
(この犬……まるで、あの日の……)
彼女の脳裏に、あの飢えた野良犬の姿が重なった。同じ白い毛。
同じ、じっと見つめる目。
あの日、彼女の手から食べ物を奪い、小指を噛み千切った、あの犬の目——。
「違う……あの犬は、もういない……!」
彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。
しかし、シロの瞳は、あの日の犬と同じように、彼女の心の奥底を見透かしているように思えた。
彼女が必死に隠してきた、弱さを。彼女が封印してきた、怖れを。全てを——。
「なぜ……なぜそんな目で見るんだ!」
憎しみが、爆発した。
彼女は手に持った石を、シロの頭に力任せに叩きつけた。
石が、鈍い音を立てて、シロの頭蓋にめり込む。
白い毛が、瞬く間に赤く染まった。
一度、二度、三度——彼女は止まらなかった。
彼女の左手の小指のない部分が、燃えるように熱い。
あの日の痛み、あの日の無力さ、あの日の恐怖——全てが、今、この犬への憎しみとして爆発していた。
気がつくと、シロは地面に倒れていた。白い毛が、赤く染まっている。
その呼吸は、もうない。
「……これで、終わりだ」
意地子は、震える手を見つめた。左手の小指のない部分が、ひときわ強く疼いていた。
あの日、犬に奪われたのは、小指だけではなかった。
人を信じる心も、誰かを愛する心も、全て奪われていた。
そして今、自分もまた、同じように——奪う側に回ってしまった。
五
それでも満たされない心
シロの死体は、老夫婦の玄関先に放置された。
やがて、買い出しから帰ってきた老夫婦の悲鳴が聞こえた。
その声を聞きながら、欲次郎と意地子は、自宅の中でじっと息を潜めていた。
「これで、あの犬はもういない。老夫婦の幸せも、終わりだ」
欲次郎はそう言って、ほくそ笑んだ。
しかし、彼の心は、ちっとも晴れなかった。
むしろ、何かが欠けてしまったような、虚無感だけが残った。
あの犬を殺したのに、なぜだ? なぜ、こんなにも虚しい?
彼の耳には、隣の家から聞こえてくる嗚咽が、ずっと響いていた。
善兵衛と花乃の、泣き声。
それは、金を奪われた時の怒りでも、地位を奪われた時の悔しさでもない——大切なものを失った者の、純粋な悲しみの声だった。
その声が、彼の胸に、ずしりと重くのしかかる。
数日後、彼らは老夫婦から奪った臼を庭に持ち出した。
あの犬が金を掘り当てたというのなら、この臼だって金を生むに違いない——そう信じて。
「出ろ!金を出せ!」
ガンガンガン!
「もっと出せ!もっと!」
ガンガンガン!
彼らは一日中、臼を叩き続けた。汗が飛び散り、息が荒くなる。
腕は痛み、肩は悲鳴を上げる。それでも彼らは止めなかった。
止めたら、自分たちがやってきたことが、全て無意味になってしまうから。
しかし、臼からは何も出てこない。ただ、虚ろな音だけが響く。
彼らが叩けば叩くほど、その空虚さは増していく。
空っぽの音が、彼らの心の空洞と共鳴するかのようだった。
翌朝、臼は真っ二つに割れていた。
「この役立たずめ!」
欲次郎は怒りのままに、割れた臼を薪と一緒に燃やしてしまった。
燃え上がる炎を見つめながら、彼は呟いた。
「なぜだ……なぜ、何も出てこない……」
その問いに答える者はいない。
彼は知らない。
金は、叩いて出るものではないことを。
奪って手に入れるものではないことを。
そして——本当に必要なものは、金では買えないことを。
六
村を追われて
シロが埋葬された後、村には満開の桜が咲いた。
それはあまりにも美しく、村中の人々が集まるほどの奇跡だった。
桜の花びらが風に舞い、村中を淡いピンク色に染める。
人々は歓声を上げ、拍手を送った。
しかし、欲次郎と意地子の元には、誰も来なかった。
「臼叩きじじい!」
「臼叩きばばあ!」
村の子供たちが、彼らを指さして笑う。その声は、嘲笑と共に、彼らの耳に突き刺さる。
欲次郎は怒りで拳を震わせたが、何も言い返せなかった。
意地子は、ただうつむいていた。
彼女の左手の欠けた小指が、疼くように痛む。
その夜、二人はひっそりと村を離れた。
誰にも見送られず、誰にも気づかれずに。
月のない夜だった。二人の足音だけが、道に響く。欲次郎の草鞋の擦れる音、意地子の着物の裾が地面を引きずる音——それ以外には、何も聞こえない。村の灯りは、もう遠く、かすかに揺れているだけだった。振り返れば、あの桜の木が見えるはずだった。しかし、闇がそれを隠していた。二人は、一度も振り返らなかった。
「……なあ、意地子」
欲次郎が、暗がりの中で呟いた。
「……あの犬を、殺さなければよかったのかもしれんな」
意地子は答えなかった。
ただ、左手のない小指を、右手で強く握りしめた。
あの日、犬に奪われた小指。
そして今、自分たちが奪った命。その重さが、彼女の手の中にあった。
「金があれば……金があれば、全て手に入ると思っていた」
欲次郎の声が、闇に消える。
「でも……金じゃ、買えないものもあるんだな」
やがて、二人の姿は闇に消えた。
その後、彼らがどこで何をしていたのか、誰も知らない。
金を追い求めて、また別の村で同じことを繰り返したのか。それとも——。
ただ、村の古老が時折こう言うのだった。
「欲次郎と意地子はな、今もどこかで臼を叩き続けているそうだ。金が出るまで、決して止まらないんだと——」
それは、欲張りの末路を戒める、新たな村の言い伝えとなった。
子供たちは、その話を聞くたびに、金よりも大切なものがあることを、教えられた。
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【次回予告】
二つの奇跡が、村に訪れた。
満開の桜と、青々と茂るきび団子の木。
その影で、一人の男が静かに涙を流す。
「忠助……お前は、立派な生涯だった」
宇喜多秀家の胸に、新たな決意が芽生える。
そして、時は流れ——
喜備丸の団子屋が、城下町に開かれる日が来る。
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次回、第21話「満開の桜と新たな出会い」
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【第20話・完結】




