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時雨の焼印【特別盤】  作者: 太幽


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第13話「闇に消える者たち」

──前回までのあらすじ──

天正元年、織田信長の重臣・羽柴秀吉が吉備の地に送り込まれる。村に現れた先鋒・蜂須賀小六は年貢と徴兵を命じた。


桃太郎たちは表向きは従いながら、裏で密偵を秀吉軍に送り込み、時雨自身もくノ一として潜入する。その会議の中で、弥助は秀吉の陣営にいる一匹の犬の存在を指摘した。「あの犬が、戦況を左右する鍵になるかもしれない」——桃太郎はそう呟いた。


秀吉の備中高松城水攻め計画を知った彼らは、歴史の裏から戦況を操ることを決意する。


「俺たちは、この世の『鬼』になる」


月明かりの下、四人は愛する者の未来を守るために、闇を歩む覚悟を固めた──。


---


第13話「闇に消える者たち」



天正十年(1582年)、戦国の世は、織田信長という巨大な光によって照らされていた。


その光の届かぬ場所で、桃太郎たちは静かに、そして周到に、歴史を動かしていた。


信長の中国攻めが本格化する中、彼の陣営では不可解な出来事が頻発した。

毛利方の伝令が忽然と姿を消す。

進軍路を示した筈の地図が、なぜか別の場所を指している。

補給路が寸断され、兵站が滞る——それは、漆黒の帳が、歴史の筋道を密かに描き直しているかのようだった。

誰もその影の正体を知らない。

いや、気づいている者すらいない。


戦場には、血と泥と、焦げた布の匂いが混ざり合っていた。一匹の犬が、その匂いの層をかき分けるように、低く鼻を鳴らしながら走り抜ける。彼の耳には、主の命じる声だけが、遠くの戦闘の轟音よりも鮮明に響いていた。



梅雨の季節、備中高松城は深い霧に包まれていた。


城を囲む秀吉軍の陣営には、雨が降り続き、兵士たちの足元は泥濘に埋もれていた。

五月の終わりから降り続く雨は、足守川と井倉川の水かさを増し、自然の要塞へと変えつつあった。


その重苦しい空気の中、桃太郎の密偵たちは、城を囲むように築かれた堤防の完成を待っていた。

総延長三キロにも及ぶその堤防は、昼夜を問わず人足を動員して築かれた。

秀吉の「水攻め」は、あまりにも壮大な計画だった。


「水攻め……か」


桃太郎は、弥助から受け取った地図を広げ、指で城の周りの川の流れをなぞった。

地図には、水が溜まる範囲、堤防の高さ、城の標高——すべてが詳細に記されている。

土の湿った匂い、雨に濡れた木の葉の匂い、そして遠くから漂う川の匂いが、彼に戦略を語りかけているかのようだった。


「堤防は、あと三日で完成する」


弥助が、静かに報告した。

彼の声には、山の者ならではの、土地の声を聞く者の確かさがあった。


「問題は、毛利の援軍だ。彼らが到着する前に、城を落とさねばならぬ。毛利輝元は、吉川元春、小早川隆景を総大将とする大軍を差し向けた。数は——二万とも三万とも言われている」


衛門が、地図上の一点を指さした。

彼の指先には、幾度となく戦場を駆け巡ってきた者の確かさがあった。


「援軍のルートは、この山道を通るのが最短だ。しかし、この時期、山道は水害で寸断されやすい。先月の大雨で、あちこちで崖崩れが起きている。情報さえ遮断すれば、彼らは進むに進めなくなる」


時雨が、冷徹な声で言った。彼女の声には、くノ一としての冷静さが滲んでいた。


「ならば、寸断されたと思わせればいい。自然の猛威は、誰も抗えない。毛利の将も、それが分かっている。大雨で道が塞がれている——そう思わせることができれば、彼らは進軍を遅らせる」


桃太郎は、時雨を見た。

その目には、妻への心配と、同じ覚悟を抱く者への信頼が混ざっていた。


「頼めるか?」


「ええ」


時雨は、二つ返事で頷いた。



時雨は、夜陰に乗じて、毛利軍の陣営に潜入していた。


雨は、彼女の足音を完璧に隠してくれる。

彼女の足音は、闇に溶け込むようで、兵士たちの寝息や、雨に打たれる陣幕の音にかき消されていた。

彼女の黒装束は、雨に濡れて闇と一体化し、誰の目にも留まらない。


彼女の目的は、毛利軍の伝令を妨害することと、偽の情報を流すことだった。

秀吉の水攻めが成功するまで、毛利軍の進軍を遅らせなければならない。

たった数日の差が、この戦の行方を決める。


陣営の中心にある幕舎。

そこで、伝令が巻物を抱えて出てくるのを、時雨は待っていた。

彼女の呼吸は、雨音と同化している。

動くのは、瞬きする目だけだった。


やがて、一人の男が幕舎から現れた。

彼は、大事そうに巻物を懐にしまい、馬に乗ろうとしている。

甲冑の擦れる音、馬の鼻息——全てが彼女の耳に届いている。


時雨は、闇の中を音もなく移動した。

足音はなく、気配もない。

雨そのものが動いているかのようだった。


男が馬に跨がろうとした瞬間、彼女の手が男の首筋を打った。

正確に、無駄なく、一瞬で。男は、声もなく崩れ落ちる。

泥濘が、その落下音を吸い込んだ。


時雨は、素早く巻物を奪い、懐から取り出した偽の巻物とすり替えた。

偽の巻物には、こう記されていた。


——大雨により山道寸断。援軍、到着は十日後になる見込み。今しばらく、兵を休ませよ——


十日。

実際には、三、四日もあれば道は回復する。

だが、毛利の将が「十日」と聞けば、進軍を遅らせる。

その間に、秀吉は水攻めを完成させる。


完璧な計算だった。


時雨は、草むらに身を潜め、偽の巻物を持たされた伝令が、再び夜の闇に消えていくのを見送った。

男は、自分が襲われたことにも気づいていない。

ただ、任務を果たすために、馬を走らせていく。


彼女の心には、冷たい雨粒とは違う、冷たい感情が満ちていた。

これは、人殺しではない。

ただ、歴史を動かすための、一つの歯車に過ぎない。

鬼ヶ島で斬った者たちとは違う。

これは——。


そう自分に言い聞かせても、彼女の手のひらは、握りしめた短刀の柄でじっとりと汗ばんでいた。

その汗は、雨ではなかった。


彼女は無意識に、左手首をなぞった。火傷の痕はもう消えている。それでも彼女の指は、そこを確かめるように往復する。誰かのために団子を作ろうとして、失敗したあの日の記憶。その優しい記憶だけが、今の彼女の心を、かろうじて人間らしい場所に繋ぎ止めていた。


しかし、時雨の暗躍はそれだけではなかった。


彼女は、毛利軍の伝令の癖、立ち回り、会話の内容まで、綿密に観察していた。

彼女の鋭い観察眼は、敵兵たちの些細な仕草や言葉の端々から、彼らの士気や計画を読み取っていく。

誰が伝令を務め、誰が情報を握っているか。

どの武将が強硬派で、誰が慎重派か。

それら全てが、彼女の網にかかった。


その情報が、衛門の筆によって精緻な地図となり、桃太郎に届けられた。

衛門の書く字は、墨の濃淡までもが情報を伝える。

太い線は主力の進路、細い線は斥候の動き。

朱で記された印は、武将の位置を示す。


桃太郎は、その情報を元に、秀吉軍の陣営に、あたかも偶然を装って情報を流し込んだ。


「毛利軍は、水害で街道が寸断され、動きが取れないようですな」


村人になりすました衛門の密偵が、秀吉軍の兵糧を運ぶ農民に、さりげなくそう語りかけた。

それは、ただの噂話のようでいて、確かな裏付けのある情報だった。

農民たちは、それを秀吉軍の陣営に伝える。

その情報が、秀吉の耳に届く——全てが計算されていた。


情報が真実であることと、その情報の出出が怪しまれないよう、衛門は細心の注意を払っていた。嘘は、九割の真実に包まれてこそ、最も効果的に働く。

その教えを、彼は桃太郎から学んだ。いや——桃太郎に教えたのは、衛門自身だった。



この情報を信じた秀吉は、毛利軍の援軍が到着する前に、水攻めを敢行した。


六月二日、堤防が完成し、水が一気に解き放たれた。

水は轟音を立てて城へと押し寄せ、瞬く間に城の周囲は湖と化した。

濁流は土塀を押し流し、城門を破壊した。

城兵たちは、水面に浮かぶわずかな高台に逃げのびるしかなかった。


城は孤立し、兵糧は尽き、城主・清水宗治は自らの命をもって城兵の命を救った。

六月四日、宗治は秀吉の許しを得て、船の上で壮絶な最期を遂げた。

その辞世の句は、後にまで語り継がれたという。


桃太郎は、遠くからその様子を見ていた。

城から立ち上る白い煙、そして、城主の首を差し出す兵士たちの姿。


それは、一つの命の終わりであり、一つの時代の始まりだった。


この勝利は、秀吉の天才的な閃きによるものだと、誰もが信じていた。

秀吉の名は天下に知れ渡り、彼の覇道はさらに加速する。

それでいい。それが、彼らの望んだことだった。


桃太郎は、そっと目を閉じた。

彼の脳裏に、頭領の遺書の言葉が蘇る。


——「桃太郎殿、貴殿に我らの未来を託す」


この勝利の裏で、どれだけの命が消えたのか。その重みを、彼は一人で背負う。


それでいい。



天正六年(1578年)。


信長の天下統一が目前に迫る中、彼を裏切ろうとする者も現れた。


信長の重臣の一人、荒木村重は信長に反旗を翻し、伊丹城に籠城していた。

有岡城の戦い——それは、信長の天下統一の過程で、最も激しい戦いの一つだった。

村重は、かつて信長の信任厚かった武将であり、その裏切りは信長に大きな衝撃を与えた。


歴史上、彼は最終的に姿を消し、その後の消息は不明とされている。


この裏には、時雨の影があった。


伊丹城に潜入した時雨は、城の隅々まで、自分の庭のように知り尽くしていた。

城内の道、兵士の配置、物見櫓の見張りの交替時間——それら全てが、彼女の頭の中に入っている。


彼女は、夜風の音、鳥の鳴き声、城兵の足音、その全てから情報を読み取っていた。

風の向きが変われば、それに応じて潜入ルートを変える。

闇の中に、彼女は溶け込んでいた。


村重の居場所を突き止めた時雨は、彼の居室の前に立った。


部屋からは、筆を走らせる音と、すすり泣くような声が聞こえてくる。

村重は、密かに毛利氏と連絡を取ろうとしていた。

その手紙には、信長への憎悪と、彼の苛烈な統治への不満が、切々と綴られていた。

信長に背を向け、毛利に走る——それは、村重なりの生き残る道だった。


時雨は、障子の隙間から室内を覗いた。


村重は、一人で書状をしたためている。

周りに家臣はいない。

机の上には、書きかけの手紙が何通も積まれている。

そのうちの一通には、毛利輝元の名が認められていた。


——今だ。


時雨は、音もなく部屋に滑り込んだ。

障子が微かに動いたが、風のせいだと思わせる。

彼女の呼吸は、村重のそれと同調していた。


村重が気づいた時には、既に彼女の短刀が、彼の心臓を貫いていた。


「な……!」


村重の口から、かすかな悲鳴が漏れたが、それはすぐに血の泡に変わった。

机の上の手紙が、血で染まっていく。


時雨は、彼の目を静かに見つめた。その目には、憎しみはなかった。

ただ、任務を遂行する者の、冷徹な光だけがあった。


「すまない」


彼女は、静かにそう呟いた。

それが、彼女の口癖だった。

なぜ、そう呟くのか——自分でもわからなかった。

ただ、人を斬るたびに、胸の奥で誰かが謝っている気がした。

あの日、鬼ヶ島で斬った弟の時も、そうだった。

その声は、誰の声だろう。

母の声か。

それとも——。


彼女は、自分の右手を見つめた。短刀を握るその手は、微塵も震えていなかった。それが、逆に彼女を怖がらせた。かつては憎しみで震えながら剣を握っていたのに、今は任務として、ただ正確に人を斬ることができる。そのことに、言い知れぬ虚しさを感じた。


彼女は無意識に、左手首をなぞった。火傷の痕があった場所。誰かのために団子を作ろうとして、失敗した記憶。その記憶だけが、彼女を「任務の道具」ではなく「人間」として繋ぎ止めているように思えた。


村重の遺体は、地下の隠し通路から運び出され、誰も知らない場所に埋められた。

彼が姿を消したことで、信長は激怒し、伊丹城を徹底的に攻め立てた。

村重の妻子は処刑され、城は陥落した。歴史は、そう刻まれた。


時雨は、遺体を隠す間、心の中で桃太郎の言葉を反芻していた。


「この国の平和のためには、必要な犠牲だ……」


彼女は、鬼ヶ島で味わった復讐の虚無を思い出していた。

あの時は、憎しみのためだった。

自分のために、ただ、あの夜を消すために、剣を振るった。

あの刃は、自分のためだけにあった。


だが今回は、喜備丸の未来のためだ。

まだ小さな、何も知らないあの子のために。同じ「人を斬る」でも、その重みは違う——そう信じたかった。

そう信じなければ、彼女の手は、もう二度と短刀を握れなくなる。



桃太郎自身もまた、戦乱の渦中に身を投じていた。


彼の存在は、敵味方の裏をかくことに特化しており、風の噂にすらならなかった。

誰も「桃太郎」という名を知らない。

ただ、不可解な事件が、時に戦局を動かす。それだけだった。


ある日、桃太郎は毛利軍の伝令を追っていた。


山道を一昼夜走り続け、ようやく捉えた獲物。

疲れ果てた伝令は、足元もおぼつかない。

肩で息をし、何度も転びそうになりながら、それでも必死に走っている。

届けなければならない情報がある——その使命感だけが、彼を突き動かしていた。


桃太郎は背後から静かに近づき、一撃で首を刎ねた。


伝令は何が起こったのかも分からず、地面に倒れ伏した。

その手には、まだ巻物が握られていた。

届けることのできなかった、その使命と共に。


桃太郎は、流れ出る血を見つめていた。

血は、雨で濡れた地面に広がり、暗い色の染みを作っている。


その血の匂いは、かつて鬼ヶ島で斬った「鬼」たちのものとは違っていた。

あの時は、正義のためだと信じていた。鬼を倒し、村を守る。

それが、正しいことだと信じて疑わなかった。


だが今は——。


脳裏に、あの男の顔が浮かんだ。

船上で、娘への土産を差し出そうとした、あの男。

震える手で桃色の布を握りしめていた、あの哀れな父。


「たのむ……これだけでも……」


あの時と同じ匂いが、鼻の奥にこびりついていた。

血の匂い、死の匂い、そして——生への執念の匂い。


「……俺は…」


彼は、自分の右手を持ち上げ、鼻に近づけた。血の匂い。鉄の匂い。そして——ほのかに、きび団子の甘い香りが混ざっているような気がした。彼はその手を、川の水で何度も洗った。指の間まで、爪の隙間まで、丁寧に。だが、匂いは消えない。夜、喜備丸の頭を撫でようとして、彼は自分の手を見つめ、その手を引っ込めた。


正義のためではなく、任務として人を斬る。

その違いに、彼はまだ慣れていなかった。慣れてはいけない。

そう思う自分も、またどこかにいる。

その矛盾が、彼の心を締め付ける。



数日後、四人は山奥の隠れ家に集まっていた。


任務の報告を終え、一息ついたところで、衛門が口を開いた。

彼の口元には、珍しく笑みが浮かんでいる。


「桃太郎、面白い噂を聞いたぞ」


「何だ?」


「巷では、桃太郎は大きな桃から生まれ、犬、猿、雉を連れて鬼退治に向かった英雄だと言われているらしい。それも、大きな桃が川を流れてきて、それを切ったら中から赤ん坊が出てきた——という話になっているそうだ」


桃太郎は、呆れたように笑った。


「犬、猿、雉だと?あの木箱と桃の話が、そこまで変わってしまうのか」


「そうだ。我々三人のことだろうな」


弥助が、嬉しそうに言った。彼の目は、いたずらっぽく輝いている。


「おいおい、俺が猿で、衛門が犬で、時雨が雉か?こりゃ愉快だな!でも、悪くない。猿は山の王様だ。結構なもんじゃないか!」


衛門が、苦笑いしながら言った。

「犬か……確かに、私は主に忠実な犬かもしれぬな。主を守り、主の道を照らす。それが、私の役目だ」


時雨が、静かに呟いた。

「雉……空を飛び、闇に潜む。私にぴったりの役回りね。表に出ず、影から全てを見通す——それは、私の本質かもしれない」


桃太郎が、笑いながら言った。

「じゃあ俺は、桃から生まれた英雄ってことか?桃がびっしり入った木箱に一緒に詰められて流された話が昇華されてるな、身の丈に合わん。ただの川流れの赤ん坊だったのに、英雄に仕立て上げられるとはな」


四人は、久しぶりに笑い合った。

その笑い声は、数ヶ月ぶりの、偽りのない笑い声だった。


弥助は、突然その場でくるりと後ろ宙返りをし、近くの木の枝に飛びついた。枝がしなり、彼の体を空中に押し上げる。彼はその勢いで隣の枝に飛び移り、さらにその上の枝へ——あっという間に、三人を見下ろす高さまで登っていた。「ウッキー!これが山の王様の実力だ!」彼は枝の上で片手を離し、わざとらしく胸を叩く仕草をした。その姿は、まさしく猿そのものだった。桃太郎が腹を抱えて笑い、時雨が呆れたようにため息をつき、衛門が「相変わらずだな」と苦笑する。弥助は、枝から軽やかに飛び降り、三人の前に着地した。その着地音は、ほとんど聞こえなかった。


時雨が、懐からきび団子を取り出した。

婆様の味を継いだ、あの団子。

彼女は弥助を見て、怪しい笑みを浮かべた。


「さぁ!お猿さんもひとつどうぞ。猿には団子が一番でしょう?」


弥助は顔を真っ赤にして飛び上がる。


「ウッキー!この!猿扱いしやがって!」


弥助は、両手を顔の前でぶらぶらさせながら、わざとらしく猿の真似をしてみせた。その仕草は、どこか本物の猿よりも猿らしい。


「ウッキッキ!それなら俺は猿で結構!山の王様だ!猿にだって誇りがある!人間なんかに負けちゃいられない!」


その仕草に、桃太郎も衛門も思わず吹き出した。

時雨も、思わず口元を押さえて笑う。


四人は珍しく、賑やかに笑いながら団子を口にした。

優しい甘さが、彼らの心を癒していく。

それは、鬼ヶ島へ向かう道中で食べたのと同じ味。

あの頃は、まだ純粋だった。

正義を信じ、鬼を討つことだけを考えていた。今、その味が、あの日の自分たちを思い出させる。


「……弥助が猿か、猿より素早いんだよな」


桃太郎が言うと、衛門が続けた。彼の声には、懐かしさが溢れている。


「稽古をつけようとしたが、気付いたらいなくなっている。勉強となれば、さらに速い。あの俊敏さは、まさに山の猿も敵わないぞ」


弥助は、照れくさそうに笑った。彼の頬が、わずかに赤らんでいる。


「だってよぉ、文字なんて読めなくたって、獣と話せれば生きていけるんだ。山に入れば、文字も数字も必要ない。木の実の見分け方、獣の足跡の追い方、天気の読み方——それで十分だ。俺は、それで生きてきたんだから」


「…やっ�り猿じゃん。」


時雨が呆れたような顔をしてため息をついたが、その口元には笑みが浮かんでいる。


「……時雨は雉か、気配を感じさせない佇まいで掴みどころがなく、最初は本当に怖かった。目が合うだけで、斬られるんじゃないかって、毎日怯えていたわ」


弥助が悪戯っぽく言うと、時雨は静かに微笑んだ。その笑顔には、自分を振り返る穏やかなまなざしがあった。


「もう!悪かったわね!やっぱり切り刻んでやろうかしら!あの頃のことは、忘れたい過去だわ。復讐しか頭になくて……周りの何も見えてなかった」


そう言いながらも、時雨の表情にはかすかな笑みが浮かんでいた。

あの過去があったからこそ、今の自分がいる——そう思えるようになったのは、間違いなく彼らのおかげだった。


それぞれが苦んだ過去を笑いながら語る戦士たちの、微笑ましい光景だった。


「だが、あの時があったからこそ、今がある」


衛門が静かに言った。

その言葉には、全てを受け入れた者の落ち着きがあった。


「流石は犬!援護が上手いな。時雨が現れなければ、今の俺たちは違う関係性になってたかもしれん。あの時、時雨が来なければ、俺は一人で鬼ヶ島に行き、そのまま死んでいたかもしれない。そう思うと、運命とは不思議なものだ」


桃太郎は、時雨の手を握った。

その手は、温かく、確かに彼女の手を包み込んでいる。


時雨は、その温かさに涙がこみ上げるのを感じた。

この手を、もう二度と離さない。

それが、彼女の心からの願いだった。



衛門は、一人、刀の手入れをしながら、遠い目をしていた。


刃に映る自分の顔は、二十年前とはすっかり変わっている。

白髪が混じり、頬はこけ、目の周りには深い皺が刻まれている。

その顔が、彼に時間の経過を思い出させる。


脳裏に浮かぶのは、幼い娘の笑顔。

丸い目をキラキラさせて、父親の帰りを待っていたあの頃。

彼女の手は小さくて、自分の指をしっかりと握っていた。

その感触が、今も手のひらに残っている。


「つぶら……お前は、今どこで生きている」


彼は、懐からあのぼろぼろの産着を取り出し、しばらく見つめた後、再び仕舞った。

産着に残る刺し子の模様は、もうほとんど消えかけている。

妻の愛情が込められたその布も、時間と共に風化していく。

それでも、彼は手放せなかった。

手放したら、娘を探す理由を失ってしまうから。


「衛門、会えると良いな…生きてれば30歳前くらいか。もう大人の女性だ。もしかしたら、子供もいるかもしれない。お前さんは、もうじいさんだな」


桃太郎が衛門の肩に手を置くと、衛門はハッとした顔をした。


「…ん?あ!そうか!俺の記憶の圓は2歳のままだ!成長してる姿なんて想像もしてなかった!ずっと、あの頃のまま、探し続けていた。会ったら、すぐにわかると思っていた。だが、二十五年も経てば、顔も変わる。声も変わる。もしかしたら、すれ違っても気づかないかもしれない」


衛門は、懐から産着を取り出し、両手で広げた。それは、彼の掌二つ分ほどの小さな布だった。彼は、その布の上に自分の手を置いてみた。布は、彼の手のひらにすっぽりと隠れてしまう。二十五年前、この産着を着ていた圓。その圓は、今——彼の手よりも大きな存在になっているはずだった。彼は、産着を握りしめ、目を閉じた。握りしめた布の感触だけが、彼と過去を繋いでいた。


弥助が腹を抱えて笑った。


「衛門!あんた珍しく抜けてるな!どんな顔してるか想像もつかないのかよ!そりゃあ、会いたいと思ってる相手の顔くらい、想像してみろよ!」


衛門は、少し恥ずかしそうに頬をかいた。その仕草は、厳格な武士のものではなく、娘を想うただの父のものだった。


「……二十五年もの間、娘の顔を二歳のまま思い描いていたとはな。我ながら笑える。歳を重ねれば、顔も変わる。声も変わる。それなのに、私はずっと——」


その言葉に、今度は桃太郎が優しく笑った。


「それだけ、想いが強かったってことだ。きっと、圓もどこかで感じてるさ。父が自分を探しているって。会ったことのない父の顔を、圓もまた、どこかで想像しているのかもしれないな」


月明かりの下、四人の影が一つに重なった。


彼らの心には、ただ一つの願いがあった。


——喜備丸が笑って過ごせる世の中を。


その願いのためなら、たとえ誰に何と言われようと、彼らは構わなかった。


彼らは、自ら進んで「鬼」になることを選んだのだ。

表舞台に立つことはない。

歴史に名を残すこともない。

それでも、彼らは歩き続ける。

闇の中で、誰にも知られずに。

それが、彼らが選んだ道だった。


---


【次回予告】


歴史の影で、彼らの戦いは続く。


京の都では、一人の男が静かに陰謀を巡らせていた。


その名は、明智光秀。


本能寺の変——歴史を動かした「裏」の真実が、今明かされる。


---


次回、第14話「本能寺の変、そして運命の決断」


---


【第13話・完結】

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