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時雨の焼印【特別盤】  作者: 太幽


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第12話「黒き影の支援」


──前回までのあらすじ──

時は流れ、室町末期。桃太郎十六歳。かつて「鬼」と呼ばれた者たちと村人が共に鍬を握る安堵の地には、子供たちの笑い声が響いていた。


衛門は里の防衛を、弥助は山の安全を、時雨は影からの守りを担う。織田信長の台頭など、京から届く不穏な報せに、彼らは静かに耳をそばだてていた。


「何があっても、この里だけは守り抜く」


桃太郎の決意は固い。時雨はその背中を見つめ、共に生きる覚悟を新たにする。


しかし、時代の波は確実に近づいていた──。


---


第12話「黒き影の支援」



天正元年(1573年)、織田信長は室町幕府を滅ぼし、その苛烈な統治で天下に名を轟かせていた。


彼の視線は、煮えたぎる鉄のように西へと向かっていた。播磨の国を平定し、毛利氏の支配する中国地方への足がかりを築く。

その重要な拠点として、信長の重臣・羽柴秀吉が吉備の地に送り込まれた。


その知らせが桃太郎の村に届いたのは、秋も深まる十月のことだった。


衛門は、村長として秀吉軍を迎える準備を整えていた。

表向きは、ただの貧しい村の村長。

だが、その目は冷静に、迫り来る時代のうねりを見据えていた。

彼の机の上には、幾度となく書き直された対応策の覚え書きが重ねられている。

一つ間違えれば、村は焼き払われる。

その緊張が、彼の指先まで張りつめていた。


「来るぞ」


弥助が、山から駆け下りてきて告げた。

彼の息は上がっているが、声には緊迫感が満ちていた。


「五百ほどの兵だ。先鋒は、秀吉の家臣・蜂須賀小六という男らしい。旗指物は揚羽蝶、間違いない」


桃太郎は、静かに頷いた。

彼の手に握られた地図が、わずかに震えている。

それは恐怖からではない。

覚悟からだった。


「予定通りだ。時雨、村の者たちは?」


「老若男女は既に山奥へ。残った者は、農民に扮した元『鬼』たちです。武器は畑の隅に埋めてあります。いつでも——」


時雨の報告は、簡潔だった。

彼女の目は、既に遠くの動きを読んでいるかのように澄んでいた。


「よし。では、俺たちもそれぞれの場所へ」


四人は顔を見合わせ、静かに頷き合った。言葉は不要だった。



秀吉軍の先鋒が桃太郎の村に現れたのは、晩秋の風が枯れ葉を吹き飛ばす日だった。


土埃が舞い上がり、馬蹄の音が地響きのように響く。

数十の蹄が地面を叩き、その振動が足の裏から体全体に伝わってくる。

その隊列の中に、一匹の犬がいた。

白い毛並みの雄々しい犬だ。

その犬は隊列の一部であるかのように、黙々と歩いている。その耳には古い傷跡があり、首には金箔の施された立派な首輪が光っていた。だが、その目は、戦場を知らぬ者には理解できない、静かな炎を宿していた。

先頭に立つ男——蜂須賀小六は、痩せ細った土地と、貧しげな村の様子を見渡し、軽く鼻で笑った。


「こんな辺境の村が、中国攻めの拠点とはな」


彼の後ろには、屈強な兵士たちがずらりと並んでいる。

槍の穂先が陽光を受けて鈍く光り、鎧の擦れる音が規則正しく響く。


村の入り口では、衛門が深々と頭を下げていた。

その周りには、鍬を手にした数人の農民たちが、怯えた様子で控えている。

彼らの肩はわずかに震え、目線は地面に落ちていた。

完璧な「恐れる農民」の演技だった。


「村長殿、貴殿の村は、我らが殿の天下統一の礎となる」


蜂須賀小六が、馬上から見下ろすように言い放った。

その声には、否応のない権力の重みが込められていた。


「年貢、徴兵、略奪——全ては織田家のために尽くせ」


その言葉に含まれた「略奪」という響きに、衛門は胸の奥で静かに怒りが燃えるのを感じた。

この村は、略奪によって苦しめられてきた。飢えと絶望の果てに、鬼と呼ばれた者たちがいた。

その歴史を、この男は何も知らない。


しかし、彼は深く頭を下げ、村の困窮を訴えながらも、信長への忠誠を誓った。


「承知いたしました。我らも、かつては飢えに苦しむ哀れな民でございました。しかし、我らが若き村長の導きで、ようやく安寧の地を手に入れたのです。殿の天下統一こそ、この安寧を日本全体に広める道と信じております」


衛門の言葉は、決して嘘ではなかった。

彼は、この村を守るために、あらゆる手を尽くす覚悟だった。その覚悟が、声の端々に滲み出ている。


蜂須賀小六は、衛門の言葉に一瞬、眉を動かしたが、すぐに馬首を返した。


「よかろう。年貢は米百俵、兵は三十人。明日までに用意せよ」


「ははっ」


衛門が頭を下げるのを見届けると、蜂須賀小六は馬を走らせて去っていった。

土埃が舞い上がり、蹄の音が遠ざかっていく。

犬は、小六の声など気にも留めず、ただじっと村の奥、山々の方を見つめていた。まるで、そこに誰かがいることを知っているかのように。そして、隊列と共に闇へと消えていった。


土埃が収まり、静けさが戻る。

秋の風だけが、冷たく吹き抜ける。


衛門は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、深い決意の光が宿っている。


「……始まったな」


彼の背後で、農民に扮した元「鬼」たちが、鍬を置いた。

その目は、鋭く、獲物を狩る獣のようだった。彼らは知っている。これから始まるのは、表の戦いではない。闇の戦いだと。



その夜、桃太郎たちは山奥の隠れ家で会議を開いていた。


ひそかに設けられたその場所は、かつて桃太郎が流された川の上流にある、清らかな沢のほとりだった。

仮の住まいと畑が作られ、村の老若男女が身を寄せ合って暮らしている。

子供たちはもう眠り、火の明かりだけが夜の闇に浮かんでいる。


火がパチパチと燃える音だけが、張り詰めた空気に響く。


「年貢は米百俵、兵は三十人。蜂須賀小六は、五日後にまた来るそうだ」


衛門の報告に、弥助が口を開いた。

彼の手には、山で採ってきた木の実が握られている。

無意識に、指先で弄っていた。


「米百俵は、この村の一年分の収穫に近い。兵三十人も、若い衆を出せば、村の労働力が大きく減る。このままだと、冬を越せなくなるぞ」


桃太郎は、地図を広げながら静かに言った。

彼の指先が、村の周囲の山々をなぞる。


「秀吉殿は、これで終わりではない。いずれ、さらに多くの年貢と兵を求めてくるだろう。信長公の天下統一が進むにつれて、負担は増す一方だ」


時雨が、冷徹な声で言った。

彼女の目は、既に先を読んでいる。


「ならば、その負担を最小限に抑える方法を考えるべきだ。秀吉軍に、我らが『使える村』だと思わせつつ、実質的な負担を減らす——」


「具体的には?」


弥助が尋ねる。

木の実が、彼の指先でくるりと回る。


衛門が、地図の上に指を走らせた。

その指は、戦場を駆け巡る武将のように迷いがない。


「まず、年貢について。村の収穫量を実際より少なく報告する。山間部の村では、収穫量の把握は難しい。多少のごまかしは、容易だろう。山の奥に隠し田を作り、表向きの収穫とは別に備蓄する。秀吉の兵が浅い知識で村を調べても、全ては見つけられない」


「だが、もしバレたら——」


「バレないようにするのが、我々の仕事だ」


衛門は、静かに微笑んだ。

その笑みには、長年戦場を生き抜いてきた者の自信が滲んでいた。


「次に、兵について。村から送り出す兵は、元『鬼』たちの中でも特に優れた者を選ぶ。彼らは戦闘経験があり、かつ桃太郎殿への忠誠も厚い。戦場で命を落とすことなく、かつ敵方の情報を探ることができる。三十人の中に、密偵としての役割も担える者が数人いれば十分だ」


その時、それまで木の実を弄っていた弥助が、ぽつりと言った。


「なあ、秀吉の陣営に、一匹の犬がいるって知ってるか?」


衛門の指が止まった。桃太郎が顔を上げる。


「犬?」


「ああ。今日、蜂須賀の隊列の中にいただろ。金ぴかの首輪をつけた、耳に傷のある犬。俺も山で何度か見かけたことがある。只者じゃねぇ。戦場で敵の斥候を狩り尽くすほどの力を持ってるらしい。兵士たちは『鬼の犬』って呼んで恐れてる」


時雨が、静かに口を開いた。

「私も噂は聞いたわ。秀吉が最も信頼する存在の一つだとか。戦場では誰よりも頼りにされ、陣営では唯一心を許す相手だとも」


弥助は、手に持った木の実をくるりと回しながら、考え込むように言った。


「秀吉の戦がやけに順調に進んでるのも、もしかしたらあの犬の力が大きいのかもしれねぇ。人間には嗅げねぇ匂い、聞こえねぇ音を、あの犬は捉えてる。敵の動きを先回りして察知する——そんな芸当、普通の犬にできることじゃねぇ」


桃太郎は、しばらく黙って弥助の言葉を噛みしめていた。そして、ゆっくりと口を開く。


「……その犬が、これからの戦況を左右する鍵になるかもしれないな」


弥助が、にかっと笑った。


「だろ?俺もそう思ったぜ。人間同士の戦いに、犬が一枚噛んでる——面白ぇじゃねぇか」


衛門が、冷静な声で言った。


「いずれにせよ、その犬の存在は念頭に置いておくべきでしょう。味方につけるか、それとも——」


言葉の先を、衛門は言わなかった。桃太郎は、地図の上に置かれた木の実を見つめながら、何かを考えているようだった。


桃太郎が、頷いた。


「つまり、表向きは秀吉軍に従いながら、裏では我々の目として動かす——」


「その通りです」


時雨が、付け加えた。

彼女の手は、腰の短刀の柄に触れている。

それは、彼女が戦いの準備に入った証だった。


「私も、くノ一として秀吉軍に潜入する。表向きは村娘として、実際は情報収集と、必要あらば暗躍を。炊事場に潜り込めば、兵士たちの雑談から多くの情報が得られる。武将たちの動向、兵站の状況、戦略の変更——全てを探る」


「危険だ」


桃太郎が、即座に言った。彼の声には、夫としての心配が色濃く滲んでいた。


「時雨、お前は——」


「私は、もう逃げない」


時雨は、桃太郎の目をまっすぐ見つめた。その瞳には、揺るぎない決意が宿っている。


「あの時、鬼ヶ島で誓った。もう二度と、大切な人を失わないために、私は戦うと。それは、ここにいても同じだ。ここにじっとしていても、戦は私たちを追ってくる。ならば——」


彼女の脳裏に、眠る喜備丸の顔が浮かんだ。

すやすやと寝息を立てるその姿が、彼女の背中を押す。


「あの子の未来を守るために——私は、闇に潜むことを恐れない。たとえ、この手が再び血に染まっても。たとえ、誰にも知られずに終わっても。それでいい」


彼女の右手が、無意識に左手首の火傷の痕をなぞった。誰かのために団子を作ろうとして、失敗したあの日の記憶。その記憶が、今、彼女に新たな覚悟をくれる。この手は、もう憎しみのためだけに振るう手ではない。守るために振るう手だ。


桃太郎は、しばらく時雨を見つめていたが、やがて静かに頷いた。彼の目には、妻への信頼と、同じ覚悟を抱く者への共感があった。


「……わかった。だが、無理はするな。もし危険を感じたら、すぐに引き返せ。この村は、お前なしでは成り立たない」


「ええ」


時雨の瞳に、強い決意の光が宿った。

その光は、月明かりに照らされて、静かに、しかし確かに燃えていた。



村からは、翌日、年貢として米百俵が差し出された。


それは、村人たちが必死に蓄えてきたものだったが、誰も文句を言わなかった。

彼らは、桃太郎を信じていた。

昨年の凶作時にも、桃太郎は備蓄を分け与え、誰も飢えさせなかった。

その恩がある。村人たちは、黙って米俵を差し出した。その目には、桃太郎への信頼と、同じ覚悟が宿っていた。


そして、徴兵に応じる三十人の若者たちが、村を旅立った。


彼らは、かつて「鬼」と呼ばれた者たちの中でも、特に優れた戦闘能力を持つ志願兵だった。

彼らの目には、故郷を守るという強い決意が宿っていた。

彼らの多くは、この村に受け入れられるまで、どこにも居場所がなかった。

この村が、初めての「故郷」だった。


「必ず、生きて帰れ」


桃太郎が、一人ひとりの肩を叩く。その手は、力強く、そして優しかった。


「はい、桃太郎様。必ず、生きて帰ります」


彼らは、密偵としての役割も与えられていた。戦場での情報を、確実に桃太郎のもとへ届けることが、彼らの使命だった。

桃の形を模した木札を、それぞれが懐に隠している。それが、仲間の証だった。


衛門が、彼らに最後の言葉をかけた。


「無理に目立つ必要はない。むしろ、目立たず、しかし確実に、情報を集めよ。お前たちの命は、この村にとって何よりの宝だ。秀吉軍の中で、目立たぬように、しかし確実に——それが最も難しい任務だ。頼んだぞ」


「はっ!」


三十人の若者たちは、一礼すると、秀吉軍の陣営へと向かって歩き出した。

彼らの背中は、故郷を守るという同じ想いで一つに結ばれていた。


その後ろ姿を、桃太郎たちは見送った。夕日が、彼らの影を長く伸ばす。

その影は、やがて闇に溶けていった。



それから数ヶ月が過ぎた。


秀吉の中国攻めは、順調に進んでいた。

備前、美作、備中——次々と城が落ち、秀吉の名は天下に知れ渡るようになった。


村から送り出された密偵たちは、戦場での情報を定期的に桃太郎のもとへ届けていた。

彼らは命を落とすことなく、着実に役割を果たしていた。

秀吉軍の動向、兵站の状況、武将たちの人間関係——それらの情報が、小さな紙片に記され、夜陰に乗って村へと運ばれる。

彼らが残した文の端々には、故郷への想いと、必ず生きて帰るという決意が滲んでいた。


「無事でいるようだ」


衛門が、その報告を読み上げるたびに、桃太郎は安堵の息をついた。

一人でも欠ければ、それが自分たちの判断の誤りだったと責めることになる。その重圧が、彼の肩にのしかかっていた。


時雨もまた、村娘に扮して秀吉軍の陣営に潜入していた。

彼女は、炊事係として働きながら、兵士たちの会話や、武将たちの動向を探っていた。

彼女の耳は、雑談の中に潜む重要な情報を逃さず、彼女の目は、一見何でもない物の配置から陣形を読み解いていた。


ある日、時雨は炊事場の隅に積まれた米俵の前で足を止めた。俵の数は、昨日より三つ減っている。だが、兵士の数は変わっていない。彼女は、しゃがみ込み、俵に結ばれた縄の結び目を見つめた。結び目が、いつもと違う。誰かが急いで解き、結び直した跡だった。彼女は、その縄の端を指でなぞり、土の種類を確かめる。乾いた赤土——この陣営の周囲にはない土だ。彼女は立ち上がり、何もなかったように釜の火をくべ始めた。その夜、彼女が桃太郎に送った報告には、敵方への密かな兵糧の横流しの可能性が記されていた。


ある夜、時雨は密かに陣営を抜け出し、桃太郎のもとへ報告に来た。

山道を一晩かけて走り抜け、夜明け前に村に着く。

その呼吸は、わずかに乱れているだけだった。


「秀吉は、毛利氏との決戦を準備している。備中高松城を攻めるつもりだ。水攻めだと——兵士たちの間で噂になっている」


桃太郎は、地図を広げた。

備中高松城は、低湿地に位置し、周囲を山に囲まれている。

確かに、水攻めに適した地形だった。


「備中高松城……水攻めか。毛利の援軍が来る前に、城を落とすつもりだな」


衛門が、口を開いた。彼の指が、地図上の川の流れをなぞる。


「秀吉は、水攻めを考えているようです。しかし、そのためには堤防の築造が必要で、時間がかかる。足守川と井倉川をせき止め、堤防を造り、水を城に引き込む——早く見積もっても、一ヶ月はかかるだろう。その間に、毛利氏の援軍が到着する可能性が高い。最悪の場合、挟み撃ちに遭う」


「ならば、その援軍の到着を遅らせればいい」


弥助が言った。

彼の目は、山道を見据えるように鋭くなっている。


「山道を塞ぐとか、補給路を断つとか——俺にできることがあれば、何でも言ってくれ。山のことなら、俺に任せろ」


弥助は、尾根の岩の上に立ち、目を閉じた。風が西から吹いている。彼は鼻をひくつかせた。いつもの風なら、杉の樹脂と、川の湿り気と、遠くの村のかまどの煙が混ざっている。だが今日は——その奥に、かすかな「鉄」の匂いが混じっていた。鎧の鉄ではない。もっと生々しい、血の混じった鉄の匂い。彼は目を開け、西の空を見つめた。そこには、まだ何も見えない。だが、彼の足はもう、里へ向かって走り出していた。


時雨が、冷徹な声で言った。

彼女の声には、くノ一としての冷徹さが滲んでいる。


「それだけではない。偽の情報を流せば、もっと効果的だ。『援軍は水害で遅れている』と信じ込ませれば、秀吉は水攻めを強行するだろう。毛利軍の動きを止め、秀吉軍を安心させる——両方に、異なる情報を流す。それで時間を稼ぐ」


桃太郎は、しばらく考え込んだ後、静かに笑みを浮かべて言った。


「——やろう。秀吉殿が、自らの才覚で勝ち取ったと思える勝利を演出するために。我々は表に出ない。誰も、我々が動いたことを知らない。それでいい。秀吉殿が勝ち、この地に平和が来る——それだけで十分だ」


その言葉には、表舞台に立たない者の覚悟が込められていた。



その夜、満月が煌々と輝く中、桃太郎は一人、村の裏手にある小さな丘に登った。


そこからは、月明かりに照らされた、安堵の村が一望できた。

家々の屋根が、銀色の光を反射している。

畑には、次の春のために蒔かれた麦が、静かに芽を出し、遠くでは、川のせせらぎが聞こえる。


かつて飢えと略奪に苦しんでいた村人たちは、今、穏やかな寝息を立てている。

あの時、鬼ヶ島から連れ帰った者たちも、元からこの村に住んでいた者たちも、今は同じ屋根の下で眠っている。

子供たちは、戦いを知らずに育っている。そのことが、何よりも尊い。


その平和な光景が、桃太郎の胸に刃のように突き刺さった。

守りたい。

この平和を、この笑顔を、何があっても守り抜きたい。


「俺は……人を…そして俺自身を騙そうとしている」


彼は、誰にも聞こえないように、静かに呟いた。その声は、風に乗って闇に消えた。


武力に頼らない統治を夢見た。

鬼ヶ島で、頭領に「この未来を託す」と言われた時、彼は心に誓った。

もう二度と、誰かを「鬼」にしないと。

武力ではなく、対話で、理解で、共に生きる道を選ぶと。


なのに、その夢を守るために、武力による天下統一を陰から支えなければならない。

敵と味方をも欺く。

歴史そのものを操作する——それは、鬼ヶ島で斬り捨てた者たちと同じことを、今、自分がやろうとしているのではないか。


しかも、それはただ支援するだけではない。

敵を欺き、味方をも欺き、歴史そのものを操作する——。

秀吉に、自分たちが動いていると悟られてはならない。

毛利にも、動きを読まれてはならない。

誰にも気づかれずに、誰にも知られずに、歴史の歯車を、ほんの少しだけ、自分の望む方向に動かす。


「……俺は、何をしているんだ」


彼の頬を、一筋の涙が伝った。

その涙は、鬼ヶ島で流した涙とは違う——正義を信じた少年が、闇を歩む覚悟を決めた者の涙だった。

あの時は、自分が正しいと信じて剣を振るった。

その正義が、実は正義ではなかったと知った。

では、今の自分の行いは、正義なのだろうか。

それとも——。


かつて、正義のために剣を振るっていた少年は、今、歴史の裏側で、陰謀を巡らせる男になっていた。


鬼ヶ島で、もう二度と「鬼」は作らないと誓った。

あの時、頭領の遺体を前に、彼は誓った。誰も鬼にしない、誰も鬼にさせない世を作ると。


だが、自分自身が、一番深い闇に足を踏み入れている。

その闇の中で、彼は何を目指しているのか。

光を灯すために、闇を歩む。それは、正しいことなのか。

それとも——。


——そんな桃太郎の姿を、三人が見守っていた。



「……桃太郎、一人で抱え込むでない」


衛門が、静かに桃太郎の名を呼んだ。


桃太郎は、振り返ることなく、肩を震わせた。彼の背中は、月明かりの下で、ひどく小さく見えた。


「こんな場所まで、どうして……」


桃太郎の声は、かすかに震えていた。

それは、彼の心の弱さを表すようで、恥ずかしかった。


弥助は、桃太郎のそばまで駆け寄ると、その背中にそっと手を置いた。

弥助の手は、温かく、桃太郎の背中にじんわりと熱を伝えた。

その手の温かさが、彼の凍えそうな心を少しずつ解かしていく。


「一人で背負うなよ、桃太郎。俺たちがいるだろう。いつだって、そうだったじゃないか。鬼ヶ島に行く時も、衛門殿と出会った時も、時雨が来た時も——俺たちは、一緒に乗り越えてきた」


弥助の声には、偽りのない兄弟愛がこもっていた。

その声は、彼の胸の奥に響く。


時雨は、何も言わずに、桃太郎の前に立った。


彼女の瞳は、月明かりに照らされ輝いていた。

その瞳には、かつて彼女を救ってくれた桃太郎への、深い感謝と、そして愛が宿っていた。

彼が彼女を救ったように、今度は彼女が彼を救う番だった。


「喜備丸が笑って過ごせる日々を、共に作ろう。あなた一人で背負う必要はない。私たちがいる。この村の皆がいる。あなたは——もう一人じゃない」


衛門が、桃太郎の隣に腰を下ろし、言った。

彼の脳裏に、会ったことのない娘の姿が浮かぶ。

どこかで生きているはずの、圓。

会ったことのない、自分の血を引く者。

その子も、きっとどこかで、誰かを信じて、誰かに守られて生きているのだろうか。


「この村でなら、あの子も……そんな日々を送れるのかもしれぬ。どこにいようと、人は信じ合い、助け合って生きていける。それを、お前たちが教えてくれた」


その言葉は、桃太郎の心に深く突き刺さった。


彼は、自分が一人で抱え込んでいると思っていた重荷を、三人が共に背負おうとしていることを知った。


それは、彼の心から、少しだけ重みを取り除いてくれた。



時雨は、懐から一つずつ、きび団子を取り出した。


それは、村を旅立つ時に、桃太郎が持たせてくれた、思い出のきび団子だった。婆様が作ってくれた、最後の団子。

ずっと大事に取っておいたものだ。

彼女は、それを誰にも言わずに、この日のために取っておいた。


「さあ、皆で食べましょう」


時雨の声は、優しく、そしてどこか懐かしい響きを持っていた。


その声は、母が子をあやすような、温かさがあった。


四人は、それぞれ、きび団子を口にした。


砂糖の優しい甘さが、彼らの心の渇きを潤していく。

それは、鬼ヶ島へ向かう道中で食べたのと同じ味。

あの頃は、まだ純粋だった。

正義を信じ、鬼を討つことだけを考えていた。

鬼は悪で、自分は正義だ。そう信じて疑わなかった。


今、その味が、あの日の自分たちを思い出させる。

あの日の自分たちは、間違っていた。

正義は、一方的なものではなかった。

鬼もまた、生きるために必死な人間だった。

それを知ったからこそ、今がある。

その苦い記憶と、この甘い味が、彼の心の中で混ざり合う。


「……弥助って、本当にちょろちょろしててな!素早いんだ」


桃太郎が、突然声を弾ませて言った。

その声には、子供の頃に戻ったような無邪気さがあった。


「…え?」


一瞬の沈黙の後、衛門が桃太郎の話に被せるように話し出した。彼の声には、懐かしさと楽しさが混ざっている。


「俺も稽古つけてやろうとしたが、気付いたらいなくなってるんだよ!こいつは!弥助殿は、素早いし、頭も切れる。……勉強となればさらに早い速度で逃げ出してたな!当時の俺でも追いつけなかったわ」


衛門が、楽しそうに弥助の過去を語った。その笑顔には、若者たちと過ごした日々の温かい記憶が溢れていた。


弥助は、頬をかきながら、照れくさそうに笑った。


「だってよぉ、文字なんて読めなくたって、獣と話せれば生きていけるんだ。真面目すぎなんだよなぁ…衛門殿は。それに、山に入れば、文字も数字も必要ない。木の実の見分け方、獣の足跡の追い方、天気の読み方——それで十分だ。俺は、それで生きてきたんだから」


弥助の言葉に、三人は笑い声をあげた。


その笑い声は、この数ヶ月、彼らが忘れていた、本当の自分たちの声だった。戦いの緊張から解放された、ただの若者たちの声。



「……時雨なんて、最初、本当に無口で怖くてなー」


弥助が、少し悪戯っぽく時雨に視線を向けた。

彼の目には、からかいの色と、感謝の色が混ざっている。


「目が合うだけで、斬られるんじゃないかって、毎日怯えていたわ。お前、初めて来た時、一言も笑わなかったからな。弥助が冗談を言っても、無視するし。あの時は、本当に何を考えているのかわからなかった」


弥助の言葉に、時雨は静かに微笑んだ。その笑顔には、自分を振り返る穏やかなまなざしがあった。


「今からでも切り刻んであげようかしら?」

一瞬冷ややかになるその目は冗談には見えなかったが、すぐ笑顔に戻った。


「あの頃のことは、忘れたい過去だわ。復讐しか頭になくて……周りの何も見えてなかった。皆が私に優しくしてくれたのに、私はそれに応えることができなかった。桃太郎の団子を食べるまで、誰かの優しさを受け取ることも、誰かに優しくすることも、忘れていた」


時雨は、桃太郎の横顔を見た。

月明かりに照らされたその横顔は、あの日、団子を差し出してくれた時と変わらない。


「でも、あの過去があったから、今の私がいる。喜備丸にも出会えた。あなたにも——。もし、あの日、団子を食べていなかったら。もし、あの時、皆に出会っていなかったら。今の私は、どこで何をしていたんだろう」


彼女の声は、かすかに震えていた。それは、失っていたかもしれない幸せへの、かすかな恐怖だった。


「だが、あの時の時雨殿だからこそ、桃太郎殿と結ばれたのだ。そして今、喜備丸がいる……過去を無かったことにするでない!あの時、お前がいたから、桃太郎殿は鬼ヶ島で正気を保てた。お前がいたから、俺たちは——」


衛門が、静かに時雨に語りかけた。

その言葉は、時雨の心に温かい光を灯した。

過去は変えられない。

でも、その過去があったからこそ、今がある。

その事実を、彼は教えてくれた。


「時雨が急に現れて鬼ヶ島に同行させろと言った時、断ってたら斬られてたかねー。あの時の時雨は、目つきがマジだったからな。断ったら、間違いなく斬られてた。俺は、それで正しかったと思っている」


桃太郎は意地悪な顔をしながら、時雨の手を握った。

その手は、温かく、確かに彼女の手を包み込んでいる。


時雨は、桃太郎の手の温かさを感じ、その顔に涙がこみ上げてくるのを感じた。

七年間、この手を探していた。七年間、この温もりを待っていた。


「俺は、お前たちに救われたんだ。鬼ヶ島で、頭領の遺書を読んだ時、一人で背負うしかないと思った。でも、違った。俺は、お前たちに支えられている。そして今も、こうして、俺を支えてくれる……本当に、ありがとう」


桃太郎は、心からの感謝の言葉を口にした。その声には、偽りはなかった。


四人は、輪になるように向かい合った。


互いに命を預けられる頼もしい仲間。

彼らは互いの目を見ながら、きび団子をかみしめた。

その甘さは、彼らの決意を、そして未来への希望を、より確固たるものにしていた。四人の目には、同じ光が宿っている。

守るべきもののために、闇を歩む覚悟の光。


月明かりの下、四人の影が一つに重なり合った。


彼らの心には、「喜備丸が笑って過ごせる世の中」という、一つの共通の願いがあった。


「俺たちは、この世の『鬼』になる。喜んで、闇の中を歩いていこう」


桃太郎の声は、もう震えていなかった。彼の瞳は、月明かりに照らされ、静かに、しかし力強く輝いていた。


その言葉に、誰も驚かなかった。

彼らはすでに、その覚悟を決めていた。

それぞれの形で、それぞれの想いを胸に、同じ道を歩むと決めたのだ。


「この先、どんな道を選ぼうとも、我らは常に、桃太郎と共にある」


衛門が、真摯な眼差しで腰に差した剣を高らかに掲げた。その刃が、月明かりを受けて白く輝く。


「俺は、お前を一人にはしない。絶対に。これまでも、これからも。たとえ地獄の底まで行くことになっても、俺はお前のそばにいる」


弥助は、固く拳を握りしめ、力強く衛門の剣に手を伸ばし誓った。その目には、故郷の山々を守る者としての誇りが宿っている。


「私も……私も、この手で守る。喜備丸の未来を。この村の平和を。そして——あなたの背中を」


時雨も短刀を掲げ、衛門の剣に当てた。刀と短刀が、月明かりの下で鈍い音を立てる。


数秒の沈黙があり、時雨が声をあげる。


「桃太郎!これ恥ずかしいんだから、あんたもやりなよ!」


その声に、桃太郎も笑いながら拳を突き出し交えた。拳と刃が交わる。

剣、短刀、拳——三つの武器が、一つの形を作る。

それは、彼らだけの証だった。


彼らは、愛する者の未来を守るために、共に「鬼」になることを選んだ、真の仲間たちだった。


そして、彼らの新たな戦いが、今始まろうとしていた——。


---


【次回予告】


歴史の影で、彼らの戦いは続く。


時雨は、闇に潜み、情報を操る。

密偵たちは、故郷を想い、戦場を駆ける。


だが、その陰で、新たな影が動き始める。


次章、秀吉軍に漂う不穏な気配——そして、圓の影が、静かに近づく。


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次回、第13話「闇に消える者たち」


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【第12話・完結】

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