第120話「無音」
オレは魔王になった。自室に戻り、ピアノを開き、前に椅子を持ってきて、それに座る。しばらくの間、ピアノを弾いていなかった。雪のような白い埃が黒いピアノの上に積もっていた。払うのも面倒くさくて、そのままピアノを開く。指をそのまま白と黒の鍵盤の上に。
「……。」
乗せられなかった。鍵盤に指が乗らない。下に動かそうとしても、指は醜く震えるだけ。オレは右手で左手を無理矢理鍵盤に押し付けた。
『%$&#?’!』
音が、わからなかった。ああ、そうか。俺はもうピアノが弾けないんだ。きっとフィリアルを殺した俺に与えられた罰だ。悪魔か天使か、それとも神か。誰かが俺を罰してくれたんだ。
「はははっ!!!」
笑えよ、笑えよ俺。なんで眼が潤んでんだよ。ふざけんなよ。お前のせいだろ全部。弱くて、馬鹿で、フィリアルを守れなかった。むしろオレは守ってもらった。そのせいでフィリアルは死んだ。死んだ、死んだ、死んだんだ。
「失礼します。ゼベルト様。」
アニアの声だ。扉を勝手に開け部屋に入り、そのままオレの隣に座った。そしてオレの顔を見て、オレを抱きしめた。アニアの白髪がオレの頬を掠める。やめてくれ。気持ち悪い。
「ゼベルト様…。」
優しい声と暖かな体温。その全てが気持ち悪い。わかってる。全部八つ当たりだ。自分の怒りと悲しみと無力感を、オレはアニアに吐きつけようとしている。アニアの赤い瞳に、気色悪いオレの顔が映っている。
「ゼベルト様。私は『誓縛の呪術』を使い、ゼベルト様に私の一生を捧げることを誓いました。私の、心も体も、全てゼベルト様のものです。そして私はゼベルト様の全てを受け入れます。どうぞ、私に全てをぶつけてください。憤怒も、悲哀も、加虐でも、性欲であっても、私は悦びとして受け入れます。」
やめてくれ。それ以上話さないでくれ。アニアは何も悪くないのに。ああ、あの日と一緒だ。幼い時、みんなの墓場の前でフィリアルに八つ当たりした時。あの時と同じだ。駄目だ、アニア、オレのそばに居ないでくれ。
「アニア。」
そんな笑顔をオレに見せないでくれ。
「はい!! ゼベルト様!!」
可愛らしく返事なんてしないでくれ。
「何があってもゼベルト様の味方、アニアです。」
やめてくれ。いつも通りに振る舞わないでくれ。
「独りに、してくれ。」
永い、沈黙。
「はい。」
震えた少女の声。そして扉の閉まる音が響いて、足音が遠くなっていく。
もう何の音も聴こえない。正真正銘、オレは『無音』になった。




