愚か者である自分を選んだ
『戦慄・恐怖の体験談! あなたも私も井戸へGO!』。その馬鹿馬鹿しいタイトルの本は、まるで伯爵を怖がらせるためだけに書かれたような一冊であった。
井戸に身投げしたメイドの幽霊が這い出てくる。井戸に突き落とされて殺された美女の霊が呪いをかける。井戸に子どもの幽霊がぶら下がっている。井戸に入るとその先が異世界へと通じている。井戸、井戸、井戸……表現を変え、ありとあらゆる手段で読者を恐怖に陥れるその内容は怪談本としては優れたものと言えるだろう。
だからこそ伯爵は、井戸に対して強烈なトラウマを植え付けられた。それはもう、呪われたのではないかというほどに……そんな忌まわしき、恐ろしい井戸にGO! しなければならないこの事態で伯爵は心の底から恐怖を感じていた。愛しいダリアが怪訝な表情で「ブルーノ様?」と尋ねてくるほど、目に見えてガクガクブルブルと震えていた。
怖い。ものすごく怖い。いや、だって、普通の井戸だってまだ十分に怖いのにあのデイジーがわざわざ『井戸へGO!』みたいな井戸が欲しいからと言って作ってもらった井戸なんて絶対怖いに決まっている。もともとデイジーは妙なところでこだわりが強く、造形やリアリティを深く追求するようなタイプの人間だということを伯爵はよく理解している。『怨霊の叫びを聞いてくれ』の衣装デザインや、伯爵に異国の怪談や怖い話の本を勧めてきたきた時の表情を思い起こせばそれは間違いないだろう。加えてポッツオ伯爵が口にした立地条件、北の一番暗くジメジメした場所。……デイジーは絶対に、『井戸へGO!』に登場するようなホラーな井戸を再現しているに違いない。そんなもの、はっきり言って視界に入れたくもない……だがデイジーと違って、自分を格好良く見せることにだけは異常に関心が高い女たらしのクソ伯爵だ。ダリアが自ら伯爵と共に井戸を提案している今、「実は井戸がいまだに怖い、夜中に一人でトイレに行けなくレベル」だなんて口にできるはずがない。そんなに怖いのにも関わらず、伯爵は恐怖心より自らのプライドの方が高いのである……ここまでくればある意味、天才だ。
誰がどう見ても腑抜けにしか見えないその姿――しかしダリアの目には違ったように映るらしい。
「……ブルーノ様。私、ダリアは心の底からあなたをお慕いしております」
そっと伯爵の手を握り、柔らかな声音でそう語り掛けるダリア。
突然の愛の告白に、下がりまくっていた伯爵のテンションが少しだけ向上する。美しい女性からそんな風に言われたら、舞い上がらない男はいないだろう。だが、続くダリアの言葉に伯爵の顔がぴきっ、と強張る。
「正直、ブルーノ様の妻であるデイジー様に嫉妬したことがないわけではございません。お二人は口を揃えて、お互いを『契約結婚』とおっしゃっておりましたがそれでも私はブルーノ様と添い遂げられるデイジー様が羨ましかった……ですが、ブルーノ様を愛してしまったこの気持ちは間違いありません。あなたが、ブルーノ様が望むのであればどのようなこともしてさしあげるつもりです。ですから……私のことは気兼ねなく、今はデイジー様のことを探しましょう。そうして、またデイジー様との結婚生活を取り戻してから私のところに通いに来てください……」
……ロマンチックな言葉で誤魔化しているが、現状に対する勘違い甚だしい上に言っていることは無茶苦茶である。愚かなる伯爵はそれでも、何も言えず無駄に温かなダリアの目を見据える。
どうやらダリアは、「伯爵が愛人である自分の前でデイジーを探すことに気まずさを感じている」という斜め上の解釈をしたらしい。実際の伯爵はそんな殊勝な心がけも相手に対する気配りもない人間なのだが、恋は盲目とはよく言ったものだ。勝手にストーリーを作り上げ、自らを「日陰者としてそれでも可憐に咲く美しい花」に仕立て上げたダリアは伯爵が世界にたった一人の運命の男性だと言わんばかりに慈愛に満ちた表情をしている。そんなダリアを前に、伯爵は――
「……あ、あぁ。すまないダリア。僕だって君を心の底から愛している。けれど、今はモンターニャ伯爵家のために、契約とはいえ伯爵夫人であるデイジーのことをきちんと探らなければならないんだ。あのサラとかいう侍女は、きっと何か知っている……だから、その、僕たちは二人でこの困難を乗り越えていこう。先ほどポッツオ伯爵が言っていた井戸に、きっと何かあるはずだ。共にこの試練を乗り越えて、また平穏が取り戻せたら僕たちの愛を確かめ合おうじゃないか」
――伯爵は臆病者であるよりも、愚か者である自分を選んだ。
女の前で情けない姿なんて見せられない。例えどんな状況であっても、自分は社交界きってのプレイボーイとしての地位を守らなけばならない。そんな謎の信念が、伯爵を奮い立たせていた。馬鹿馬鹿しいとは思っている、見苦しいともわかっている。だが伯爵は色男として、美女の前ではそれらしい振る舞いをしてみせる道を選んだのである。
そして一度、それを口にしてしまったからにはもう後には引けない……完全にお花畑と化した頭のダリアは、そんな伯爵の戯言を信じ一度頷くと伯爵の手を取りまた速足で歩きだす。
(……怖い……けど仕方ない……大丈夫、今はダリアと一緒だ。ダリアと一緒なら井戸も怖くないはずだ……)
自分にそう言い聞かせる伯爵は、もの凄く美化すれば「自分の理想を貫いた男」と言えるのだが――その実、ただ女好きであるということだけは変わらないアホの茶番であるということは誰も知らないのだった。




