そんなこと本人に言えよ
伯爵は全身から怒りを滾らせながら、帰路を急いでいた。
あの後もダリアとしっかりイチャイチャしたくせに、いざ帰るとなると今度はデイジーへの理不尽な怒りが湧いてきた。グツグツと怒りの炎を滾らせ、地面を踏み鳴らす伯爵のその姿はまるで噴火直前の火山のようである。温泉などの地理的なメリットも持たないわりに、なんと厄介で、傍迷惑な活火山か。だが怒れるマグマ野郎と化した伯爵は、誰にも止められない。そのまま屋敷に着くと、乱暴に声を張り上げデイジーを呼ぶ、
「おい、デイジー! デイジー、おい!」
犬じゃあるまいし、そんな呼び方しなくたっていいだろう。
そんな思いを飲み込みながら、伯爵を出迎えたのは使用人の一人である中年男性だった。伯爵の結婚前から屋敷に住み着き、働いている彼は慌てて伯爵の前へと躍り出る。
「申し訳ございません旦那様。実は奥様とその専属侍女であるサラ様は、その、まだお帰りになっておりませんで……」
なんだと? と伯爵から睨まれたその使用人は丁寧に頭を下げる。内心、「なんで俺が」と泣き出したいのを堪え、ひたすら主に向かって自分のものでもない過失を必死に詫びた。
彼は至って平凡な使用人である。使用人歴二十年で屋敷内では中堅クラス、私生活では妻との間に三人の子を儲けている。慎ましくも幸せな生活を送っているが、その代わり濃いキャラクターを持っているわけではない。結婚前の伯爵の浮気癖には正直、眉をひそめていたしサラが平気で凶器を振り回すのには恐怖心を抱いていた。そして、ひたすら自分の道を突き進むデイジーとそれに不満があるらしいブルーノ伯爵のやりとりを密かに面白がっていた人間の一人だった。要するに、この屋敷内において「どこにでもいる平凡な、ごく普通の一般人」として過ごしていたのである。
そんな彼が伯爵から怒りの矛先を向けられるのは、「不運」以外の何物でもない。だが、かといって他の使用人が彼を庇えるわけもなかった。いくら陰で「顔がいいからって無節操なんだよあの野郎」とか「デイジー様に振り回されてるのマジウケる」とか言っていようと、この屋敷の主人は間違いなくブルーノ伯爵なのだ。そんな彼の逆鱗に触れたのであれば、自分たちの首が飛んでもおかしくはない。
伯爵の屋敷にいる使用人たちは全員、取り立てて無能というわけではない。だが、わざわざ新しい職を探してまた知識を経験を積んでいって……という行動は非常に困難なことなのだ、できれば現状維持がいいに決まっている……だから伯爵がどんなに浮気性のクソだと思っていても、彼に口答えできる者は誰一人としていなかった。哀れなスケープゴートと化した使用人はしどろもどろになりながら、伯爵に向かって弁明を続ける。
「その、奥様は『夕刻までには戻る』とおっしゃっていたのでもう少しで戻るかと思われますが……専属侍女であるサラ様もいらっしゃいますし、そろそろお戻りになるはずなのですが……」
「契約妻の分際で、主人であるこの僕より遅く帰ってくるというのか!?」
そんなこと本人に言えよ。
伯爵と使用人のやり取りを聞いていた者は全員、そう思った。だが、やっぱりそれを伯爵に言うわけにはいかない。未だに井戸に近づくの怖がってるくせに、夜中に亡霊のふりして脅かしてやろうか――そう心の中で毒づきながらも、使用人は顔に焦りの色を浮かべていく。
デイジーとサラが『怨霊の叫びを聞いてくれ』の舞台を観に行くということは事前に知っていた。伯爵がダリアとの観劇でダブルブッキングでさんざん喚いていたし、デイジー本人からも「伯爵夫人として招待される」「舞台関係者にサラの知り合いがいるから、サラを連れていく」と言われていたからである。だが、伯爵より帰りが遅くなるだなんて聞いていない。
いや、正確にはデイジーは帰りの時刻について一応、言及してたもののその内容は――
「旦那様、どうか落ち着いてください。使用人たちには私から『旦那様はダリア様との逢瀬を楽しむから私よりきっと遅くなるでしょう。だからあなたたちはその間、羽を伸ばしていなさい』と言っておいたのです」
感情の波を一切感じさせない、静かな口調に伯爵は振り返る。理不尽な怒りを滲ませた伯爵から解放され、使用人はほっとしたようにその名前を呼ぶ。
「奥様、サラ様……!」
縋るような目を向ける使用人に、デイジーは目で「もう大丈夫」と合図する。それを良しとし、使用人はそそくさとその場を立ち去るが伯爵はそれを咎めることもしない。
ただ、目の前に現れたデイジーの姿に呆然とし――その場に立ち尽くしていた。
「……デイジー。なんだ、その恰好は」
伯爵はやっとの思いで言葉を振り絞り、デイジーにそう尋ねる。
デイジーは別に、おかしな恰好をしているわけではない。地味でも派手でもない、けれど昼間に見た時とは明らかに違う服。
シンプルなデザインの紺色のドレス――それは今日観たばかりの、『怨霊の叫びを聞いてくれ』の主人公が着ていた衣装そのものだったのである。




