第一話 黒いロッカー
たぶん、『一生記憶に残る日』ってやつが今日なんだと思う。
これから先、何年、何十年経とうと、いくら歳を重ねようと、この目の前に広がる世界へと踏み出し、胸の鼓動が高鳴ったあの瞬間を俺は生涯忘れない自信がある。
季節は春で、優しい風が桜の花びらをふわりと舞い上がらせていて、おまけにすっげーいい天気だった。
入学式を終えたばかりの教室では、真新しい制服に身を包んだ新入生たちがこれから始まる高校生活にソワソワし、幼馴染の鳴沢清音にいたってはもうギラギラしていて、そんな未来に夢と希望とほんの少しの不安を抱いているクラスメイトたちに囲まれた俺はというと、高校入学を前に『夢』とか『目標』とやらを失ってしまってしまい、気持ちがひどく宙ぶらりんな感じでただただ無気力な顔で机に突っ伏していた。
席の近い者同士ご近所付き合いするわけでもなく、順々に巡るありきたりな自己紹介プレイと、ハゲの担任が偉そうに講釈たれるどうでもいい『高校生活の心構え』とやらが終わり、さて帰ろうかと思っていた時だった。
鳴沢がとことこと小走りで近づいてきたのは。
長い艶のある黒髪を頭の後ろでひとつに結び、最近特に成長著しい二つの果実をゆっさゆっさと揺らしながら近づいてきた鳴沢は、ぱっちり二重の小顔で整った顔に、「悪巧みしてます」と注意書きされててもおかしくないぐらい両の目を爛々と輝かせてニヘラと笑う。
「龍巳、ボクと一緒に冒険の旅へ出たくはないかい?」
「いや、まったく」
得意げな顔でそう言う鳴沢に、仏頂面で返す俺。
小学生の頃までは俺のことを「室生くん」と呼んでいた鳴沢も、中学のなかばには「龍巳くん」と呼ぶようになり、どうやら高校生となった今日からは「龍巳」と呼び捨てにすることに決めたらしい。その変化が何に起因するのかは俺にはまったく分からない。
「まーまー龍巳、そんなこと言わないでさー」
家が隣で俺との付き合いが長い鳴沢はこの程度では退かない。いや、そもそも謙虚なふりしてすっげー我がままなコイツのことだ。むしろ俺が嫌がるのなら、尚のこと嬉々として食い下がるに違いない。その証拠に鳴沢の右手が俺の学生服の裾をガッチリ握り、女子にしては意外なほどある握力を持ってして握られた制服の部位からは、「逃さねーぞ」という強い意志が伝わってきていた。
俺は「ふう」とため息をひとつつく。
まだ宙ぶらりんになる前の俺だったら、きっと鳴沢とぎゃーぎゃー言い争いをして、互いにどちらの意思を通すかで大いに揉めたことだろう。
だがいまの俺の精神テンションは数か月前とは違い、どんなに鳴沢が焚きつけてこようとも、さざ波ひとつ立ちはしない。
となれば待っているのは鳴沢からのマシンガンのような口撃を一方的に受け続けるのみ。
鳴沢は自分の意思を押し通すために滔々と語り続ける。俺はその半分以上を聞き流していたが、要約するとどうやら「一緒の部に入ろうぜ」ということらしい。
ためしに、
「どんな部なんだよ?」
と聞いてみたところ、鳴沢の口撃はマシンガンから絨毯爆撃のように勢いを増し、結果その大部分を聞き流しながら「めんどくせー」と思った俺は降伏の意を示す白旗を掲げることにしたのだった。
「分かった。幽霊部員でよければ入ってやるよ」
俺の返答を聞いた鳴沢はニンマリと勝者の笑みを浮かべ、すぐさま「入部届」と書かれた用紙を取り出して突き付けてくる。準備のいいことだ。
「ここに名前書いて!」
「へいへい」
鳴沢から入部届の用紙を受け取り、何部なのかすら確認せず指さされた場所に「室生龍巳」と自分の名前を書く。
「これでいいか?」
入部届を鳴沢に渡し、今度こそ帰ろうと席を立つが……なぜかさっきより強めに制服の裾が掴まれている。
「おい鳴沢、……なんで離さないんだよ?」
「やっだなー龍巳ったら、入部するんだから部室に顔出さなきゃダメでしょ?」
とニコリ。俺の制服を掴む手から伝わる気配は、「逃がさねーぞ」から「絶対に逃がさねーぞ!」にランクアップしていた。
けっきょく根負けした俺は「顔出すのは最初だけだからな」と断りを入れてから鳴沢の後をついていくことにしたのだ。
鳴沢は教室の後ろに置いてた自分のギターのハードケースを「うんしょ」と背負い、教室で配られた校内の見取り図を「うーん……」と呻きながら睨み付け、校舎の階段を上ったり下りたりを繰り返し、なんとか目的地たる部室の前へと辿り着く。
運動部が使う真新しい部室棟とは、校舎を挟んで反対側にある木造旧校舎。文科系の部室が多く入っているこの旧校舎の地下に、半ば強制的に俺が入部することになった部室はあった。
鳴沢が背負うギターケースを見て、俺はてっきり軽音楽部にでも入るのかと思っていたのだが……、
【異文化世界交流部】
扉にはやたらと達筆な字でそう書かれていた。二度見しても部室の扉にはやっぱりそう書かれている。軽音の『け』の字もありゃしない。
「いぶんかせかいこうりゅーぶ? どんな部だよ、これ?」
「ふっふっふ、いーから、いーからぁ」
俺の口から漏れ出た言葉を鳴沢は拾うが、いっさい疑問には答えるつもりがないらしい。不満顔の俺を尻目に、鳴沢はどんどんと扉を叩きながら「たのもー!」と声を張り上げる。道場破りかお前は。
鳴沢の予想以上の大きな声に俺は周囲の気配を探るが、どうやら旧校舎の地下にはこの『異文化世界交流部』とやらの他には部室が入っていないみたいだった。
つまり、この異文化世界交流部はカビ臭い地下へと追いやられた、ただひとつの部なのだろう。
程なくして扉の向こうに人が立つ気配を感じ、反応が返ってくる。
「……合言葉は?」
いきなり「合言葉」ときたもんだ。なんなんだよこの部は? そんなん新入生の俺らが知るわけ――、
「えっとぉ……『金髪エルフは世界の宝』、ですよね?」
「よし、入れ」
ガチャリと鍵を開ける音を響かせ部室の扉が開き、中から長身でメガネをかけたひょろ長い男子生徒が現れる。
身長が一七五センチの俺より十センチほど高いひょろ長は、金色に染めた長髪をかき上げながら俺たちを部室へと招き入れた。てかなんで合言葉知ってんだよ鳴沢。
部室は元は音楽室だったのか、教室よりはやや広く、四方の壁が防音加工されていて中央には年季を感じさせる皮のソファーが向い合せに置かれ、背の低い小太りな男子生徒が一人座っている。だが何よりも気になるのは部室の隅に鎮座する、やたらとでっかい両開きの黒いロッカーだろう。
「君たちは……入部希望者かね?」
「はい。入部希望の鳴沢清音でーす。こっちは幼馴染で同じクラスの龍巳っていいます」
部室内を見回す俺に怪訝そうな顔をしたひょろ長が質問をし、それに答えた鳴沢が二枚の入部届をさし出す。
それを受け取ったひょろ長が、入部届に視線を落としてから口を開く。
「む、『鳴沢』? ひょっとして鳴沢先輩の妹さんかっ!?」
「はい、妹でーす。……えーっと、間違ってたらごめんなさい。二年生の九条先輩ですよね? で、そしてそっちの奥にいるのが西園寺先輩。先輩たちのことはお兄ちゃんから聞いてますよー」
鳴沢が奥のソファに座って「デュフフ」と含み笑いを漏らしながら、アニメちっくな絵が表紙に描かれた文庫本を読んでいる、小太りな男子生徒に視線を送る。
「いかにも。僕が現部長の九条で、彼が――、」
ひょろ長が奥に向かって鳴沢の視線を追うように首を回し、
「デュフフ、拙者が西園寺でござるよ。鳴沢殿」
と顔を上げた小太りが不敵に笑う。
「お兄ちゃんがお世話になってましたー」
「いやいや、我々の方こそ前部長――鳴沢先輩にはいろいろと面倒を見てもらっていたからね。しかし……先輩も人が悪いなぁ。妹さんがこの部に入るのなら教えてくれてもよかったのに」
「へへへー。お兄ちゃんから『部員数が足りなくて新入部員がいないと廃部になっちゃうから、絶対に入部してくれ!』って頼まれてたんですよねー」
鳴沢の家と俺の家は隣通しで、当然俺は鳴沢の三つ年上の兄さん、満臣さんのことも知っている。小さい頃はよく一緒になって遊んだもんだ。
「うむうむ。先輩もこの部のいく末を案じていたからなぁ」
ひょろ長がうんうんと感慨深げに何度も頷く。
「九条先輩、いま部員て全部で何人いるんですか?」
「よくぞ聞いてくれた鳴沢後輩。いまこの部は存続の危機に立たされていたのだ! 実質活動しているのは二年の僕と西園寺の二人のみで、他は幽霊部員が二人いるだけ! 学校側からは部員数が五人に満たない場合は廃部とすると迫られていてねぇ。我々は何とか最低でも一人、新入部員を確保しようと西園寺と作戦会議を行っていたのだが……」
件の西園寺とやららの周りにはスナック菓子の空き袋がとっ散らかっていて、作戦会議をしていたようにはまず見えない。
「まさか鳴沢先輩の妹君が入部してくれるとは思わなかった! これで部を存続させることが出来る。感謝するぞ鳴沢後輩! ……あ~、いちおう聞いておくがこの部の活動内容は知っているかね?」
「ちゃーんとお兄ちゃんから聞いてまーす」
鳴沢が「はい」とばかりに手を上げ、答える。
「結構。では彼も?」
ひょろ長がメガネをくいと押し上げ、ちらりと俺を見る。
「龍巳にはまだ言ってません!」
「活動内容なんて、なーんも知らないっすよ」
俺と鳴沢の言葉が重なる。
不満顔の俺は、心底楽しそうな表情を浮かべる鳴沢と顔を向き合わせたあと、再びひょろ長の方を向く。
「そもそも俺はここがどんな部なのかも知らないんすから」
「なるほど。知らないのか……」
俺の言葉を聞いたひょろ長は腕を組み、険しい顔でなにや思案しているようだ。
そんなひょろ長の懸念を吹き飛ばすべく、鳴沢が口を開いた。
「九条先輩、龍巳なら大丈夫ですよ。口は固いし、約束は絶対に守る男ですから。ボクがほしょーします!」
「むう、……本当かね?」
「はい! お兄ちゃんも同じこと言ってました」
「そうか、鳴沢先輩も……」
鳴沢の、正確には鳴沢(兄)の言葉で心が動いたのか、ひょろ長は「よし」と頷くと、後ろの小太りへ顔を向ける。
「……西園寺、彼に部の活動内容を話しても?」
「デュフフ、拙者は九条殿の判断に任せるでござるよ」
「分かった。では――、室生君……といったかな?」
「室生っす」
俺の入部届をちらりと見たひょろ長が言い、即座に訂正を入れておく。
「これは失敬。では室生君、」
「なんすか?」
ひょろ長が俺を正面から見つめる。
「君に我が部の活動について説明しよう」
「……うす」
まったく興味がない上に、活動するつもりすらないが、取り敢えず頷いておく。
数秒の間をおいたあと、ひょろ長のメガネがきらりと光り、説明が始まった。
「まず初めに、我が部『異文化世界交流部』とは、国、地域、民族などを問わず、『異なる文化を持つ様々な人々、及び、様々な国々との交流』を目的とした部である」
へー、ひょろ長と小太りの見た目に反して、思ったよりもまともそうな部じゃん。
とか俺が思い始めた時だった。
「と、いうのは全て学校側を欺く建前で、本来の目的は……いや、ここは直に体験してもらった方が早いか。二人とも、僕についてきたまえ」
ひょろ長が俺たちについてくるよう促し、部室の奥へ向かって歩き始める。
「は? いや、俺は鳴沢に言われたから入部しただけで、幽霊部員になる気まんまん――」
「ほらほら龍巳、そんなこと言わないで先輩についてくついてくぅー」
俺の背中を鳴沢がぐいぐいと両手で押され、仕方なく「ったくよー」とかぶーたれながらもひょろ長についていき、後ろでは俺の背を押したままの鳴沢が続く。
ひょろ長は部室の隅に置かれたロッカーの前に立つと、「さて、」と呟き振り返った。
「室生君、今から君に我が部の真の目的、そして部員以外には話していけない秘密を打ち明けることになるが……『絶対に他者には漏らさない』と約束出来るかね?」
メガネをくいと押し上げながらひょろ長がそう聞いてくる。俺は「鳴沢はその秘密とやらを知ってたみたいなんすけど?」とつっこみたい気持ちをぐっと堪え、取りあえず頷いておいた。きっと前部長の妹な上、新入部員となることが決まっていたからいいんだろう。
「結構。では、これから目にするもの全て他言無用だ。では……行こうか」
そう言い、ひょろ長は自分の目の前にあるでっけー両開きのロッカーへ鍵を差し込む。
「うぅ~、ワクワクするなぁー」
鳴沢は興奮したように鼻息を荒くするが、俺にはまったく意味が分からない。このでっけーロッカーに何か入っているのだろうか?
「ふんっ」
鍵の開いたロッカーの扉に手をかけ、小さく息を吐いたひょろ長が扉を開け、俺と鳴沢の視線は自然とロッカーの中へと向けられる。
そこには――、
「…………なんだよ……これ? あ、穴か!?」
「うっわー! お兄ちゃんに聞いてたとーりだぁ!!」
俺と鳴沢は同時に声を上げる。
ロッカーな中には何も入ってなどいなかった。その代り、ロッカーの奥に大きな横穴が空いていて、まるで洞窟のように奥へと続いていたのだ。
「ふっふっふ……では、ついてきたまえ」
ひょろ長はポケットからペンライトを取り出し、足元を照らしながら横穴へと入っていく。
「…………お、おい鳴沢。これはいったいどーゆーことだ?」
「へっへー、いーから九条先輩に続くよー」
鳴沢はこの先になにがあるのか満臣さんから聞いているくせに、俺には教えない。
代わりに笑顔でぐいぐいと背中を押してくるだけ。
「あー、しゃーねぇなぁッ」
俺は頭をがしがしと掻いたあと、覚悟を決め、ひょろ長の後をついていく。
なんか今日は誰かの背中を追ってばかりだ。
ロッカーから入った横穴――、いや、これはもう洞窟と呼ぶべきだろう。この洞窟は人が並んで歩けるほど大きく、高さも二メートルほどある。岩肌を見れば、これが天然ものではなくて人の手で掘られた形跡が見受けられた。
誰が掘ったのか知らないがこんな意味もない洞窟を掘るなんて、ずいぶんと暇な連中もいたもんだ。
まさかこの部の『秘密』ってのは、この洞窟を掘り進めることじゃないだろうな? 俺がそんなことを考え始めた時、洞窟の先の方から明るい光が見えた。電気なんかの人工的な光なんかじゃなく、太陽のみが照らせる温かみのある光。
良かった。どうやらこの洞窟はちゃんと外へと繋がっていたらしい。
まずひょろ長が先に洞窟の外に出て、俺と鳴沢が一緒に出る。そして俺はぽかんと大きく口を開けることになる。
「………………は?」
と。
眼前に広がる広大な森を呆然と見ながら。
「うっわー! すっっっっごぉぉぉぉぉいっ!!」
隣にいた鳴沢が急に走り出し、森の中をぴょんぴょんと飛び跳ね、跳ねるたびにチラチラ見え隠れする白い布きれを写真に収めようと、ひょろ長がさり気なく携帯電話のカメラレンズを向けているが、俺はいまそれどころではない。
森。見渡す限りの広大な森。
今日から俺と鳴沢が通う天津ヶ原学園は都内に建っていて、絶対にこんなだだっ広い森なんか周辺にはない。そもそも地面から両の足へと伝わってくる大地の生命力がハンパじゃない。
日本のどこを探したって、こんなに生命力がみなぎっている場所なんかもう残ってはいないだろう。
俺の頭上を見たこともない生物がバサバサと飛んで行く。なんか蝙蝠の羽みたいのがついたトカゲみたいな生き物だ。あんな珍妙な生物は見たことも聞いたこともない。
「…………せ、先輩……こ、ここって……どこなんすか?」
「ん、ん!? ここここ、ここがどこかだって!?」
俺に突然声をかけられたひょろ長が、鳴沢へ向けていた携帯を慌てたようにポケットへとしまいながら振り返る。
「げふんげふん、さて室生君――いや、部の秘密を知ったのだ。ここはあえて室生後輩と呼ぼう! この場所はな、日本どころか地球ですらない、まったく別の世界なのだよっ!」
「べ、『別の世界』……っすか?」
「そう。別の世界だ。我が部は代々この場所のことをこう呼称している、」
俺はゴクリと生唾を飲み込み、ひょろ長がくいと得意げにメガネを押し上げる。
メガネが光を反射して白く輝き、端の吊り上がった口が開いた。
「『異世界』。とね」
ひょろ長の言葉が耳から脳へと達して浸透するまでにたっぷり一分。その長い長い一分の間にも大地は力強く脈打ち、空には見たこともない生物が飛び交い、森の奥では強大な『何か』が歩いているかのように木々を揺らしている。
頭でどんなに否定しても、目で、耳で、肌で、体のありとあらゆる器官で感じる全てが、ひょろ長の言葉が真実であると告げていた。
分かった。ならばそれに応えよう。『夢』とか『希望』とか失って宙ぶらりんになっていた俺だけど、久しぶりに最高のリアクションを披露してやろうじゃないか。なーに簡単だ。肺いっぱいに空気を吸い込んでこう叫べばいい。
「なんじゃそりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
今日という日のこの瞬間、俺の魂の咆哮はミサイルとなって『異世界』の空へと打ち上がっていった。
読んでいただきありがとうございます。