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第二話 Voyage 06:陰極まりて陽生ずる

――チチチ、と小鳥の清々しいさえずりが耳に届く。


穂花がハッと息を呑んで目を覚ますと、

そこは見慣れた松山のビジネスホテルのベッドの上だった。

遮光カーテンの隙間から、眩しい朝の光が差し込んでいる。

慌てて枕元のスマホに手を伸ばし、画面を確認すると

――日付は翌日、朝の五時を回ったところだった。

「夢……? いや、でも、あれは絶対に夢なんかじゃ……」


呟きながら自分の身体を見下ろす。

昨夜、あの時空の狭間で激しい雷雨に叩きつけられたはずの服や髪は、

なぜか完全に乾いていた。けれど、最後にシャワーを浴びてから長い時間が経っているような、独特の不快感だけが奇妙に肌に残っている。

あの『魂の造船図書館』で過ごした時間は、確かに現実だったのだ。

穂花はベッドから跳ね起きると、浴室へと向かった。

温かいシャワーで心身を洗い流し、髪を丁寧に乾かしてから、

部屋のカーテンを勢いよく引き開ける。

東の空から、力強い新しい太陽が昇ってくる。

不思議だった。

昨日まで胸を支配していた、あのどん底のような不安や自暴自棄な焦りは、もう綺麗さっぱり消え去っていた。今の胸の奥には、

ヘリオスに分けてもらったような温かい熱と、

新しく始まる一日への、どこまでも清々しい決意だけが満ち満ちていた。

荷物をまとめた穂花は、そのまま松山空港へと向かった。

出発まではまだかなり時間があったが、早めにロビーに落ち着き、

これからの戦いに備えてゆっくりと朝食を摂ることにした。

午前九時。飛行機は轟音を響かせ、大阪の伊丹空港へと向けて離陸した。

空港に到着し、制限エリアを出た瞬間に、

穂花はすぐさまスマホを取り出した。迷いはなかった。

北原さんへ連絡を入れ、今から彼女が営む大阪のアパレルショップ

『ルミエール』に向かうことを告げる。

画面越しの北原さんは、嬉しそうに「待っているわ」と応えてくれた。


午前十一時すぎ。


慣れ親しんだ大阪の街並みを歩き、

穂花はついに『ルミエール』の店舗の前へとたどり着いた。

懐かしいガラス扉に手をかけ、店に入ろうとした、その瞬間――。

背後から、低く聞き覚えのある声で名前を掛けられた。

「本郷さん。お久しぶりです」


穂花は心臓を跳ね上げ、勢いよく振り返った。

そこには、彼女にとって思いもよらぬ男性が立っていた。

「オーナー……!? どうして、ここに……」


目の前にいたのは、自分が今まさに籍を置いている、

現在の職場のオーナーだった。

有給休暇を取って愛媛県にいるはずの自分が、

なぜ大阪の、しかも北原さんの店の前にいるのか。

バッタリ遭遇した気まずさに息を呑む穂花をよそに、

彼は怒る風でもなく、どこ吹く風といった様子で淡々と答えた。

「北原に呼ばれてね。本郷さん、君も同じだろう?

 ……それに、話はすべて聞いているよ。

 君には、そろそろ伝えねばならないこともあるからね」


自分の職場のオーナーと、北原さん。

一体いつの間にこの二人が繋がり、自分の話を共有していたのだろう。

穂花は内心

(マズい、勝手な行動がバレて大目玉を喰らうかもしれない……)と

一瞬身構えた。

けれど、今の彼女は以前の弱気な本郷穂花ではない。

ボロボロだった魂の汽帆船は、昨夜、完璧にリペアされたのだ。

怒られるかもしれないという焦燥感よりも、

オーナーの口から語られるであろう「真実」に対する、

強烈な好奇心の方が遥かに勝っていた。

「――わかりました。入りましょう」


穂花はしっかりと前を見据え、オーナーと共に、

運命の風が待つ『ルミエール』の扉を押し開けた。

1階のレジカウンターで作業をしていたスタッフの米澤さんが、

扉が開いた音に気づいて顔を上げた。

「いらっしゃいませ。あ、お二人さん!

 2階の事務所で北原が待っているので、

 そこの階段から上がってください」

「ありがとう」

オーナーは慣れた様子で応じると、

自然な動作で穂花をリードするように先を歩いてくれた。

2階へ上がると、廊下には二つの扉が並んでいた。

オーナーは迷うことなく、奥にある扉へと真っ直ぐに向かっていく。

その一切の躊躇がない足取りに、穂花は思わず声をかけた。

「あの……オーナー。ここへ来たことがあるんですか?」


オーナーは振り返り、悪戯っぽくニコッと微笑んだ。

「頻繁に来るよ!」


そのままオーナーが小気味よくドアをノックし、

部屋へと入っていく。穂花も戸惑いながらその後を追いかけた。

部屋の中では、北原がまだかまだかと首を長くして待っていたようで、

二人の姿を見るなり「ようやく、来たぁ!」と声を弾ませ、

ホッと胸をなでおろすように安堵の表情を浮かべた。

オーナーはそんな彼女の様子を見て、苦笑しながら声をかける。

「落ち着きなよ、北原」


穂花は、目の前の二人のあまりにも親密で遠慮のない空気感に困惑し、

交互に見つめながら尋ねた。

「あの……お二人は、一体どういうご関係なんですか?」


未だに落ち着きが戻らない北原を手で軽く制しながら、

オーナーが静かに口を開いた。

「僕から話をしよう。――僕、井出優希(いで ゆうき)と北原希は、

 昔からの幼馴染なんだ。実は北原はね、本郷さんが入社する直前まで、

 うちの店『ファミリア』で働いていたんだよ。

 主にメインデザイナーをしてもらいつつ、

 大阪店にも立ってもらっていた。

 でも、彼女は『もっとデザイナーとしてのレベルを上げたい、

 広い世界が見たい』とずっと言っていたから、

 夢を応援するために退職を送り出したんだ」


「ええっ!?」


穂花は思わず大声を上げて驚いてしまった。

「北原さん、私にそんなこと一言も言ってくれなかったじゃないですか!」


秘密がバレた北原は、

決まり悪そうに人差し指で鼻の頭を掻きながら、照れくさそうに笑った。

「言えるわけないじゃない。

でもね、井出くんからほのちゃんのことはずっと聞いていたんだよ。

……それに、ある『相談』も受けていたの」


相談――?


穂花が次にオーナーの顔を見つめると、

井出オーナーは「はぁ」と小さく溜め息をつき、

けれど優しい眼差しを穂花に向けて話し始めた。

「二人ともちょっと落ち着いて。今日は全部話すからね」


北原と穂花は、自然とオーナーの言葉にじっと注目した。

「本郷さん。君がうちの店『ファミリア』を選んでくれた

 入社理由……まだ覚えているかな?」


穂花は背筋を正し、即座に答えた。

「はい。服のデザインがしたくて、デザイナーを志して入社しました」


井出オーナーは満足そうに深く頷いた。

「そうだね。本郷さんが入社して、

 たぶん二年が経過したくらいのタイミングだったと思う。

 うちの経営方針が変わって、

 社内でのデザイン業務を取りやめにしたよね。

 ……実は、あのタイミングで、

 うちのブランドのデザインラインをすべて、

 独立した北原に一任することに決めたんだ。

 これは僕一人の独断ではなく、

 古くから僕の元で働いてくれている数名のスタッフに

 相談して決めたことだった」


オーナーは一呼吸置き、言葉を続ける。

「その相談相手の中には、大阪店の店長である新島くんもいた。

 その時にね、彼からハッキリと言われたことがあるんだよ」


穂花はゴクリと固唾を呑んで、

オーナーの言葉を聴き漏らすまいと耳を傾けた。

「本郷さんの採用面接、僕と新島くんで担当したのを覚えているかい?」


「もちろんです。盛大に緊張していましたから、鮮明に覚えています」


短い答えに、井出オーナーは懐かしそうに笑った。

「そうだったね。その新島くんがね、デザイン業務の廃止が決まった時、

 僕にこう提案してくれたんだ。

『本郷さんも一緒に、北原のところ(ルミエール)に

 行ってもらうのはどうですか』って。

 理由はね、本郷さんが面接の時に言った『デザインがしたいです』って

 いう、あの曇りのない、真っ直ぐで綺麗な返答が、

 今でも忘れられないんだって言われてね。

 あの子の情熱を、うちの都合でここで終わらせちゃいけない、と。

 僕も新島くんの言葉を聞いて、

 確かにそれが本郷さんの未来のためになると確信した。

 ――だから、北原に相談してみたんだよ」


穂花は隣で小さくなっている北原の顔を見て、

先ほど店に入ってきた時の彼女の妙な慌てようを思い返した。

(だから、あんなに分かりやすく照れていたんだ……)と、

全ての点と点が繋がり、一人で深く納得する。

北原は、井出オーナーの話が一段落したタイミングを見計らって、

引き継ぐように口を開いた。


「そこからは私が話すわね。そのタイミングで井出くんから

 『うちの優秀な子を一人、そっちで雇ってみないか』って

 相談を受けたんだけど……実はその時の私は、

 一度断ったの。当時はまだ『ルミエール』を開くなんて

 考えてもいなかったし、デザイナー

 一本でやっていく爪を研いでいる最中だった。

 誰か一人を雇い入れるだけの、金銭的な余裕も、

 精神的な引き出しもなかったから」


北原はふっと視線を和らげ、窓の外に目を向けた。

「そこから三年くらい経って、ようやく私も覚悟が決まって

 『ルミエール』をオープンさせて今に至るの。

 常連のほのちゃんなら見ての通り、

 うちは今、下にいる右腕の米澤くんとアルバイト二人のおかげで、

 店舗の方はなんとかギリギリ回している状態でしょう?

 だけどね、ショップ運営を米澤くんに任せきりにできている分、

 今度は私のデザイン業務のキャパシティが完全に

 限界を迎えちゃって……。

 そろそろデザインを一緒にやってくれる心強い相棒が欲しいなって

 切実に思っていた矢先に、

 ほのちゃんが今の職場でデザインができなくて

 悶々と悩んでいるっていう話を、井出くんから耳にしたのよ」


運命の悪戯のようなタイミング。

井出オーナーと北原さんは、同時に顔を見合わせ、

そして真っ直ぐに穂花の瞳を見つめてきた。

「本郷さん……君の中に、

 まだ『デザインをやってみたい』という気持ちは残っているかな?」


あまりにも急転直下すぎる、人生の分岐点。

穂花は一瞬言葉に詰まったが、

魂の底から湧き上がる声に嘘はつけなかった。

「――やってみたい気持ちは、あります。

 ……でも、今は実家の家族の事情を考えると、

 どうしても目先の収入面のことを最優先に考えなくちゃいけなくて」


苦渋の決断を口にした穂花に、北原は優しく微笑みかけた。

「わかってます。だいたい、

 私立大学の入学費用でしょう? ……100万円くらいかしら」


ドンピシャすぎるその金額に、穂花は肩をビクッと跳ね上げた。

「えっ……どうして、その金額を……!?」


北原は悪戯っぽくニッコリと笑う。

「言ったじゃない。私も昔、

 生意気な弟の大学費用を全部賄ってあげたって。

 相場くらい頭に入っているわよ」


間髪入れず、井出オーナーも深く頷きながらデスクに両手を突いた。

「ここからは現実的なお金の話をしよう。

 本郷さん、とりあえず、その必要な100万円は僕が全額立て替える」


「オーナーが……ですか!?」


「そう。ただし、ちゃんとした返済条件を提示させてほしい。

 一つ。そのうちの40万円は、

 我が社『ファミリア』から君への正式な退職金として相殺する。

 二つ。残りの60万円についてだけど……

 もし君がこのまま北原の元で新しく働くのであれば、

 君がルミエールでデザインする最初の『7本分』の

 デザイン外注費として、僕が君に支払う形にする。

 それで100万は完済だ」


驚愕の提案に、穂花の頭の処理速度は完全に限界を迎えていた。

籍を置く会社を辞めるのに、退職金だけでなく、

次の職場での最初の仕事のギャランティまで前払いで

保証してくれるというのだ。

呆然とする穂花に、立て続けに北原が熱い眼差しで身を乗り出してきた。

「もしうちで働いてくれるのなら、ほのちゃんがこれまで培ってきた

 アパレルの経験と知識、そして何よりそのデザインへの強い想いに

 対して、うちは月給で総支給42万円を出すわ!

 ……だから、お願い。ほのちゃん、

 うちのデザイナーとして、一緒に働いてくれないかな?」


42万円――。


穂花は高鳴る鼓動を必死に抑えながら、頭の中で瞬時に計算を巡らせた。

現在の会社での給与よりも、約1.3倍も多い。

それだけの破格の待遇を提示されれば、

妹の入学費用を毎月仕送りしながらでも、

自分自身の生活だって今よりずっと豊かになる。

条件としては、これ以上ないほどに完璧だった。

いや、完璧すぎて、あまりにも話が良すぎる。


――どうして?


どうして、居場所をなくして腐りかけていた私に、

二人はここまでしてくれるの?

穂花は一度深く息を吸い込み、カリンの操舵輪を強く握りしめるように、

しっかりと二人を見据えた。

「……あの。お二人に、一つだけお伺いしたいことがあります」


井出オーナーと北原さんは、真剣な表情で頷き、穂花の言葉を待った。

「どうして私に、ここまでの条件を……?」


震える声で問いかけた穂花に対し、井出オーナーは迷うことなく、

少しだけ照れくさそうに笑いながら口を開いた。

「本郷さんは、うちのデザイン業務を取りやめにしたあの時から、

 唯一、最後まで会社に残って尽くしてくれた人だからね。

 一緒にデザイン志望で入ってきた同期たちがみんな辞めていく中で、

 君だけは逃げずに踏みとどまって、店舗を支えてくれた。

 ……それにね、何より僕自身が、

 本郷さんのデザインした服を一度見てみたいんだよ」


続いて、北原が包み込むような優しい視線を穂花に向けた。

「私はね、井出くんの店の『大阪店次店長』というポジションが、

 どれほど過酷で大変な仕事かを知っているわ。

 その荒波をくぐり抜けてきた君の経験値を、

 うちでも存分に活かしてほしいの。

 ……それに、ルミエールを開いた当初からずっと常連として

 来てくれているほのちゃんが、

 一体どんなデザインを紡ぎ出すのか、純粋に興味があるのよ。

 ……これじゃ、納得いかない?」


二人が、ここまで自分という存在を深く評価し、

未来を期待してくれている。

その事実が波のように押し寄せ、穂花は目頭が熱くなるのを覚えた。

涙が込み上げてくるのを必死に堪えながら、

彼女はまっすぐに二人を見つめ返した。

「北原さん……私、やってみたいです。よろしくお願いします!」


「――っ、よかったぁ!!」


北原は満面の笑みを弾けさせると、

勢いよく穂花の身体を抱きしめてくれた。その向こうで、

井出オーナーもまた、安心したようにニッコリと微笑んで

頷いているのが目に入る。

ひとしきり喜びを噛み締めた後、北原は急にハッとして身体を離した。

「あ、大変! 私ったら嬉しすぎてお茶も出してなかったわ!

 それに、ちゃんと座って話せばよかったね!」


彼女は慌てて部屋の奥にある冷蔵庫へと向かい、

お茶を取り出してコップに注ぎ始めた。

井出オーナーは「やれやれ」と小さく溜め息を吐きながら、

応接スペースの椅子に腰掛けた。

「だから、最初から落ち着けって言ったんだよ、北原」

奥からお茶を運びながら、

北原が「はいはい、ごめんごめん」と軽快に返す。

二人の長年の阿吽の呼吸を眺めながら、

穂花は(なんだか、すごくお似合いの二人だな……)

と心が和むのを感じつつ、自分も椅子に腰掛けた。

お茶を一口すする。すると、

井出オーナーが穂花に視線を戻し、少しだけ声を潜めて切り出した。

「本郷さん。この後、僕も一度店(ファミリア)に寄るんだけど……

 今後のこれからの進め方について、

 新島くんを含めた三人で少し話をしたいんだ。時間は大丈夫かい?」


オーナーの言葉に、穂花は我に返った。

そうだ、自分はまだファミリアの次店長なのだ。

「はい、時間は大丈夫です。店長に事前にお願いして、

 今日は有給休暇をいただいているので」

北原が持ってきてくれたお茶菓子をいただきながら、

これからの展望について少しだけ具体的な言葉を交わした後、

穂花とオーナーはルミエールを後にし、自分たちの店舗へと向かった。

道中、穂花の胸には、ある一つの記憶がかすめていた。

愛媛県の実家へと向かう直前、

お店の閉店業務を一緒にこなしている時に、

新島店長から不意に投げかけられたあの言葉――。


『本郷さん、辞めないよね?』


信頼してくれている店長を裏切るような形になってしまうのではないか。

その罪悪感が、今になって頭から離れなくなっていた。

井出オーナーは、隣を歩く穂花の少し曇った横顔から、

その心情を鋭く察したのだろう。歩調を緩めることなく、

けれど包み込むように優しく諭してくれた。


「今すぐ急に北原のところへ移籍できるとは、僕も思っていないよ。

 金銭的な立て替えは年内中に動かすけれど、対人関係となると、

 そこには絶対に外してはいけない『順序』と『タイミング』が

 あるからね。

 ……だから、そこに後ろめたい気持ちや罪悪感に支配されたら

 ダメだよ、本郷さん」


「オーナー……」


「君のこれまでの頑張りを、みんな分かっている。

 だからこそ、綺麗にバトンを渡そう」


その言葉に、穂花の胸のつかえがスッと消えていった。

店舗に到着すると、バックヤードで井出オーナー、新島店長、

そして穂花の三人による、これからの未来に向けた簡単な会議が始まった。

じっくりと話し合いを重ね、最終的に決まった着地点は――。


本郷次店長は、キリのいい来年の三月末をもって、

円満に退職するということ。

そして、来年四月からの新しい次店長として、

後輩の『若林沙耶(わかばやし さや)』を指名し、

就任させることとなった。

こうして、今年の十月より、

若林本人にはまだ完全に入密に伏せた状態で、本郷穂花による

『次店長教育プログラム』という名の、

愛を込めた引き継ぎが静かに開始されるのであった。


その後――。


穂花は、自分の人生の大きな分岐点を根底から支えてくれた、

あの優しくも劇的な神々による『星読み』の記憶を、

二度と思い出すことはなかった。

迫りくる多忙な現実の日常と、永劫の神アイオーンが放った優美な

『忘却の光』によって、あの不思議な図書館の出来事は、

彼女の脳裏から綺麗に消し去られたのだ。

けれど、記憶は失われても、ヘパイストスにリペアされた

『火星のボイラー』の熱と、赤く美しい『カリンの操舵輪』の感覚だけは、確かに彼女の魂の奥底に残り続けていた。


一方、穂花を見送ってすぐのこと――。


太陽神ヘリオスは、それまでの穏やかな表情から一転して、

慌てるようにして図書館の正面玄関へと急いでいた。

それもそのはず。

館長であるクロノスがどっしりとこの図書館を統べる一方で、

太陽神であるヘリオスは、日が沈めば明日の日の出までに、

大急ぎで西側から東側へと移動せねばならないからだ。

どうしてもヘリオスがこの図書館に来る時と去る時は、

時間との戦いで慌ただしくなってしまう。

「ヘスペリス! デュシス!」


ヘリオスは、黄昏の女神ヘスペリスと、日没の女神デュシスを呼び出した。

彼女たちと、この後の夜間のタイムスケジュールと天球を通るルートを

秒単位で打ち合わせしていると――前方から、

天空を駆ける微かな地鳴りのような音が響いてきた。

光明神アポロンが、ヘリオスの代わりに黄金の馬車を引き、

人間界へと日没までの最後の光を届け終え、

ちょうどこの図書館へとたどり着いたところだったのだ。

ヘリオスはその馬車の微かな音を決して聞き逃さなかった。

最高のタイミングで正面玄関の扉を開け放ち、

滑り込んできたアポロンを出迎える。

アポロンとヘリオスは、言葉を交わすまでもない完璧な阿吽の呼吸で、

黄金の馬車の騎手(タクト)を鮮やかに引継ぎ、乗り替わってみせた。

一部始終を見届けるために玄関まで降りてきていた

ゼウス親子たち一同の中から、

ゼウスが感心したように髭を撫でながら声を出す。

「ふむ。何度見ても、

 お主たちのそのスムーズな乗り替わりは見事なものだな」


神々がふっと息を抜いた、その時だった。

ラウンジから玄関ホールに至るまで、図書館の全域に、

直接頭へと語りかけてくる絶対的な声が響いた。

当図書館のオーナーであり、永劫を司る神アイオーンである。

『みな、今日もご苦労であった。

 ……今回の迷い人のパラレルワールドが大きく広がったことにより、

 彼女が現実世界でネガティブな選択をする可能性は、

 極限まで低くなった。さぁ、我らもそれぞれの役目へと戻る時ぞ』


その大いなる声に、神々は各々顔を見合わせ、満足そうに深く頷き合った。

役目を終え、賑やかに笑い合いながら広大な図書館の奥へと戻っていく

女神たち。

そして、次なる世界の運行のために、静かに夜の帳へと去っていく神たち。


――数日後。


井出オーナーを交えた会議が終わり、

引き継ぎの書類をまとめていたバックヤード。

オーナーが先に帰路につき、

室内には新島店長と穂花の二人が残されていた。

カタカタとパソコンを叩く音だけが響く中、

新島店長がふっと手を止め、静かに穂花を振り返った。

「本郷さん。……本当の理由を聞かせてもらってもいいかな」


その声は、いつになく真剣で、どこか切なげだった。

「ただルミエールに引き抜かれただけじゃないだろう。

 愛媛に行く前の君は、自分の居場所を見失って、

 今にも壊れてしまいそうな顔をしていた。

 なのに今の君は、まるで迷いが晴れたような、

 すごく強い目をしている。……この数日の間に、

 一体何があったんだい?」


問いかけられた穂花は、少しだけ視線を落とした。

アイオーンの放った『忘却の光』のせいで、

あの場所の明確な記憶はもう残っていない。

神々の名前も、見た景色も、霧の向こうに消えてしまった。

けれど、胸の奥にある熱い感覚だけを頼りに、

穂花はぽつり、ぽつりと不器用な言葉を紡いだ。

「……上手く、説明できないんです。

 ただ、愛媛県に滞在している時、

 雷雨がひどい夜に不思議な夢を見ました。

 暗闇の中に、大きな灯台のような、

 古い船を造る不思議な図書館があって……。

 そこで、ボロボロになって止まっていた私の汽帆船を、

 たくさんの優しい人たちが完璧に修理してくれたんです。

 自分の舵を信じて、臆さずに突き進めって、

 背中を押された気がして……」


夢物語のような、要領を得ない告白。

呆れられるかもしれない――そう思った穂花だったが、新島店長は違った。

「……っ!」


店長は大きく息を呑み、椅子から立ち上がりそうなほど目を見開いていた。

その驚き方は、突飛な夢の話を笑うそれではなく、

もっと自分の深いところに眠る「何か」に触れられたような、

衝撃の表情だった。


「船を、造る……図書館……」


店長はゆっくりと自分の両手を見つめた。

彼の頭の中にも、アイオーンの光による完璧な忘却の霧がかかっている。神々の顔も、図書館の美しいラウンジも、何も思い出せない。

なのに、穂花の話した言葉が引き金となって、店長の胸の奥からも、

言葉にできない温かい熱がじわりと溢れ出してきたのだ。

忘れてしまっている。けれど、自分の魂も確かに、かつてその場所で

『何か』に救われたのだと、理屈抜きで分かってしまった。

店長はゆっくりと表情を緩めると、目元を少しだけ赤くして、本当に不思議そうな、けれど最高に優しい笑顔を浮かべた。

「……不思議だね。僕もね、昔、人生に行き詰まって、

 完全に自分を見失っていた時期があったんだ。

 その時に……うん、やっぱり僕も、うまく説明できないんだけどね。

 君と全く同じ、船を直してくれる不思議な図書館の夢を見た記憶が、

 今、猛烈に胸の奥で暴れてるんだ」


「え……店長も、ですか?」


穂花が驚いて目を丸くすると、店長は悪戯っぽくクスッと笑った。

「お互いに、ただの不思議な夢、ってことで片付けるには

 出来すぎているよね。……世の中には、

 そんな不思議なこともあるんだね」


二人はどちらからともなく、

心の底から通じ合ったような温かい笑みを交わした。


――そんなこともあるんだね。


店長が呟いたその言葉は、優しくバックヤードの空気に溶けていき、

時計の針を静かに数年前へと巻き戻していく。

それは今から数年前。まだ新島が店長になる前、

人生の荒波の中で、自らの航路を見失い、

あの『魂の造船図書館』へと迷い込んでいた頃の物語――。


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