第八十八話 消えた金貨三千枚
王国財務庁の金庫には鍵が三本ある。
救援費の出納簿に金貨三千枚の差額が見つかった。
現金が消えたのか、帳簿の誤りなのかはまだ分からない。
監査責任者カイルは「盗難」
と書こうとした部下の筆を止めた。
「まずは支出と現金の差額だ。誰かが盗んだと決めるには早い。差額の発生時期と帳簿の記載方法を先に確かめるべきだ」
封印を確かめ、鍵の保管者と出納時刻を一つずつ調べた。
輸送業者の領収書が三枚、同じ筆跡と同じ印章で作られていた。
しかも荷を運んだとされる日は橋が閉鎖されていた。
ガレスは別の橋を通った可能性を調べ、通行簿を照合した。
空欄だった。
「偽造かもしれない」
カイルは頷く。
「だが今は疑いだ。証拠を守ろう」
書類は複写され、関係者を分けて聴取した。
監査官カイルは三千枚の不足を知ったとき、最初に扉を閉めさせた。
噂が先に広がれば、関係のない職員まで疑われる。
彼は出納係を一人ずつ呼び、帳簿と実際の金庫の残高を分けて確認した。
「誰かを犯人にするための調査ではない。金がどこへ行ったかを知るためだ」
若い出納係が泣き出した。
「昨日、帳簿を直せと言われました」
誰に、と尋ねると、彼女は首を振った。
上司の家族が人質のように脅されていたという。
カイルは証言を無理に引き出さず、別室で保護を依頼した。
恐怖の中で語られた言葉は大切だが、それだけで誰かを裁くわけにはいかない。
輸送業者の領収書には、同じ筆跡で書かれた三つの地名があった。
ガレスは実際の道を確かめた。
橋が閉じていた日、荷車が通れる迂回路は一つしかない。
しかしその道の宿場には、三千枚分の荷を運んだ記録がない。
業者の代表は「記録がなくても運べます」
と主張した。
カイルは「では、運んだ人と馬の数を教えてください」
と静かに問うた。
答えは曖昧だった。
調査が進む一方で、病院の薬が不足した。
ニナから届いた手紙には、必要な薬草の数量が細かく書かれていた。
セレナは財務庁へ出向き、帳簿を閉じたままでは患者を守れないと訴えた。
カイルは悩んだ。
新たな支出を認めれば、また金が消えるかもしれない。
だが支出を止めれば、今度は命が失われる。
二人は緊急支出の仕組みを決めた。
薬品の発注書には医療者と会計担当の両方が署名し、受領した数量は別の職員が確認する。
帳簿の写しは議会にも送る。
煩雑だという反対もあったが、ニナは言った。
「私たちだって薬を数えています。金も同じように数えてください」
夕方、調査官が新しい事実を持ち帰った。
三千枚のうち一部は、実在する避難所の修繕費として支出されていた。
しかし残りは、架空の輸送契約に回されている疑いが強い。
カイルは不足額をそのまま盗難額と発表するのを止めた。
実際に使われた金と、不正の疑いがある金を混ぜれば、無実の職人まで責められる。
翌日、薬を積んだ荷車が病院へ向かった。
セレナは受領票に署名し、ニナと一緒に瓶の数を確かめた。
三千枚の行方はまだすべて分かっていない。
それでも調査を続けながら治療を止めない方法を、彼らは一つ作った。
カイルは机の上に残る空欄を見た。
「帳簿を正しくするのは、金のためだけじゃない」
彼の部下が頷いた。
数字の向こうには、薬を待つ人がいる。
監査が始まって三日目、カイルの机に匿名の手紙が届いた。
「これ以上調べるな」
差出人は分からない。
部下は護衛を増やすべきだと言ったが、カイルはまず手紙を証拠袋に入れた。
脅迫があるからといって調査を急ぎ、手続きを省けば相手の思うつぼだ。
架空の輸送契約に名前を使われた業者が現れた。
「うちは一度もその荷を運んでいない」
彼は印章の写しを見て顔色を変えた。
印章の縁にある小さな欠けまで似せてある。
カイルは業者に帳簿を提出してもらい、他の取引先の記録と照合した。
偽造が疑われる文書と、正規の取引を区別するためだ。
議会では、金貨が消えたことを理由に救援費の全額停止を求める声が上がった。
セレナは反対した。
「不正を調べることと、病院への薬を止めることは別です」
カイルも同意した。
ただし緊急支出には期限を設け、監査結果を公表する。
制度の穴をふさがなければ、同じことが繰り返される。
調査の終わりに、出納係が一つの事実を思い出した。
帳簿の訂正を命じられた日、上司の机には王宮の紋章が入った封筒があったという。
しかし彼女は中身を見ていない。
カイルはその証言をそのまま記した。
「封筒があったことと、誰が命じたかは別だ」
王子の裁判が進んでいるからこそ、関連づけを急がなかった。
夜、カイルは未解明の支出を赤い線で囲んだ。
まだ金は戻っていない。
それでも、曖昧だった数字が少しずつ事実に変わっていく。
彼は翌朝の調査項目を書き出し、ようやく灯りを消した。
財務庁の若い職員は、翌朝の会議で初めて自分から発言した。
「領収書を受け取った人と支払った人を、別々に確認する仕組みにできませんか」
カイルはその案を記録させた。
不正をした者を捕まえるだけでは、次の不正を防げない。
金貨三千枚の空欄はまだ埋まっていない。
それでも、職員たちが疑問を口にできるようになったことは、帳簿の数字には表れない変化だった。
薬の配送予定表には、金貨が消えた日から空欄が増えていた。
セレナは監査室へ来た。
「誰がやったかを突き止めるまで、患者は待てません」
議会の予備費を使った暫定配送が認められた。
ただし支出には二人の承認を要し、翌週の公開監査を条件とした。
夕方、薬を積んだ荷車が出発した。
カイルは空白の帳簿を見つめた。
失われた金を数える仕事は、失われるはずだった命を数えずに済ませるための仕事でもあった。
監査の途中で、三千枚のうち一部が行方不明ではなく、別の帳簿に二重計上されていたと分かった。
カイルは疑惑の額を訂正するよう求めた。
告発した議員は「今さら減らせば王子側を利する」
と反発したが、彼は首を振った。
「不正を追うために数字を曲げれば、同じことをする」
残額の使途はなお不明だった。
調査班は支払先の証言と運送記録を突き合わせ、確認できた事実だけを公表した。
遺族に必要なのは大きな数字ではなく、戻るはずだった薬の行方だった。
監査の報告会でカイルは、差額の全額を「横領」
と呼ぶことを拒んだ。
二重計上と輸送途中の未精算分を除けば、なお説明できない支出が残る。
怒った議員が「誰を捕まえるのだ」
と迫ると、彼は未確認の伝票を掲げた。
「人を決めてから帳簿を読むのでは、監査になりません」
その日の報告書には、確定額と調査継続額を別の欄に記した。
カイルは監査の途中で、以前から財務庁にいた老人に話を聞いた。
老人は「昔は一人の大臣の署名があれば、誰も逆らえなかった」と言った。
今も同じことが起こり得る。
カイルは支出の承認権を分け、例外処理の理由を記録する案をまとめた。
面倒だという声は出るだろう。
それでも、一人が命じれば金が消える仕組みを残すわけにはいかなかった。




